鈍行列車

友人の出張話を聞きつけ交通手段を調べているうちに・・・
ちょっとのつもりが、どっぷり深みにはまってしまった。

昔、名古屋や京都に出かけるには、
新幹線などという文明の利器を使用することはごくごく希なことで、
十中八九間違いなく、大垣行きの鈍行列車を利用していた。

何せ青春の貧乏旅行であったし、朝早くに目的地に着けば、
目イッパイ行動できる。
行動終えたらまた夜行で帰ればよいくらいに行き先も決めず動き回っていた。

おまけに夜汽車は旅情もいやというほど味わえた。

この電車ののよいところは、静岡を過ぎると快速になって実に快適だったこと。
平塚や小田原までは通勤客で混んでいるが、静岡に入るととたんに
長距離電車の姿に様変わりとなる。

小田原駅で通勤客を吐き出した車内は寒々するほど広々となるし、
車輌も軽くなったとみえて軽快な足音に変わる。

そのレールの音に誘われて、瞼が重くなる。
一車輌に数えるほどの車内となれば、どう転がろうが勝手なものだ。
ボックス席の向こう側に足を投げ出し腕を組んで寝る。
そのうち、上半身はシートいっぱいを使って寝っ転がる。
よくまあ、くの字になって寝れたものだ。

22、3才からもうすっかりのご無沙汰。
JRになって、もう全滅したと思っていた。

WEB時刻表を見ると・・・おや?・・・それらしき雰囲気の列車。

ちょっとクリックしてみる。

「東京ー大垣」これだ! なんと、
全席指定、快速ムーンライトながらとして生き残っていた。
http://hit.vis.ne.jp/nagara/cardia.html

そのうち試してみよう。

でも、全席指定となったら
もう荷物を山と抱えた行商のおばちゃんたちとの会話も、
地元の学生たちの方言も聞くことはできないだろうな・・・

お盆

昨日はお盆の入り。

と聞いてもピンと来ない諸氏も多いのではと思う。
社会生活上、7月盆はなんら生活に変化があるわけではないし(棚経のお坊さんは別として)、影響が見えにくいといえる。
実際は、盆踊りもあるし、花火大会もあるし、一連して精霊を慰める為のお盆行事のはずなのだけれど、「玉屋~~」といいながら、「○○さん浮ばれてね」と祈る姿はみないし、「踊り踊るなあ~ら♪」と踊りながら、「お墓のご先祖様また来年ね」とこれまた祈る姿は皆無だろう。

実際ぼくも仏壇屋の仕事を生業としているから頭にあるようなもので、
正直な所は月遅れの8月盆に軍配を上げたくなる。

せみ時雨と西瓜と蚊取り線香の匂い。
あきれるほど照りつける夏の太陽と青空。

今の若い人たちにどこまでそのイメージが通るかわからない。

故郷に向かって民族大移動が始まる時期。
都会が故郷のものには、カラッとした青空が帰ってくる日。

そんな姿が、お盆の姿かな。

店にいるとよく聞かれる。

お盆はいつ迎え日と送り火をするの?
何でお盆には7月と8月があるの?
という質問だ。

前者は簡単、13日の夕に早くにお迎えして、
16日の夕にもう帰っちゃうの?と別れを惜しみながら送る。

亡き人がありありと生活の中にいる。
考えると霊がいるいないとしちめんどくさい事をいう人でも、
現に霊を迎える行事なのだから何とも不思議な気もする。

後者は、ちとめんどくさい。

調べてみると、明治5年11月9日「改暦断行」という手法が明治新政府によって執行された。
これがそもそも混乱の元のようだ。
改暦ということは、関係のない日にちが突如として元旦に替わるということだ。
制度を変える時には、数年の準備期間を設けて、これでもかというほど注意深く変更するものだ。ましてや生活の根幹に関わる暦の問題である。
どんなに準備したとしても混乱しないはずがない。

改暦断行の年は明治5年12月3日を明治6年元旦とした。
しかも発表からたった一ヶ月弱での施行。

これはいかに無謀だったか
出す側の新政府側にも、受ける国民の側にも混乱を招いたか想像に難くない。

農耕民族には農閑期を迎える旧暦のお盆が丁度良い期間である。
まだ、梅雨も明けず農家には繁忙期の時期に悠長なことはしていられるはずもない。
急な決定であり、暴動すら起きたという。

急いだ理由に明治6年が閏年で一年が13ヶ月のある年ゆえ、
財政難の明治新政府としては一ヶ月給与を払わなくて済むことは万々歳だったのだろう。

とにもかくにも、明治新政府のお膝元東京市は、そのあおりで新暦のお盆に移行せざるを得なかったということなのだ。

それが今も習慣化し混乱の元をひきずっている。

農耕民族の血は今でも8月盆を求めているのかな・・・

信念

都電の全廃に多大な影響を与えた過去のある知事をネットで検索しているうちに、
「美濃部正」という人に偶然行き着いた。

親戚筋の人かと思いトンチンカンな頭で読み進むうちに
とんでもない日本人がいたことを知った。

すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、
僕は全くもって無知だった。

太平洋戦争末期、軍上層部は「特攻やむなし」で通常攻撃から一撃必死の
特攻攻撃に考えが固まっていったのはご存知のことと思う。

特攻作戦(作戦などといえないが)に切り替えるための首脳部の作戦会議の席上で、真っ向から反対を唱えた人物が彼、夜襲専門の「芙蓉部隊」を束ねる「美濃部正海軍少佐」であった。

当然「末席の現場の仕官分際が何を言うか」である。
下手をすれば、軍法会議ものである。
しかしそれを押して意見を述べた。

彼の言である。

「ここに居合わす方々は指揮官、幕僚であって、みずから突入する人がいません。必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局にあなた方指揮官みずからが死を賭しておいでなのか?」

「劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。2000機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボまで出して成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落としてみせます!」

彼の隊は終戦時まで特攻を受け入れることは一度もなかった。
99%特攻一色に染まった時代、にである。

命を賭して闘う兵士にふさわしい成果をもたらせてやりたいと、まだ通常攻撃でアイデア次第で勝算があると思う以上、意見を貫き通す勇気と行動力。

その信念に脱帽した。

また、たまたま美濃部少佐を題材にした演劇を発見。
「judy」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~gooffy/NewFiles/judy.html