日蓮さんの柘彫りだが、眼に玉(ぎょく)をいれている。
ここまでできるか!驚き。
今日の浅草のそら
若さ、ばかさ?、柔軟さ
秩父霊場を廻る準備は完了し、
あとは天候次第となってから、
江戸時代の川止めを受けている旅人の気持ちだ。
仕事のけりがついて、出かけやすい状況になると、
決まって雨が降る。
というパターンがここ2週間続いている。
梅雨入りを恐れて、その前にと思っていたのに・・・
その恐れがはるかに早かった。
昨日から梅雨入りとなってしまった。
重い空を見ながらフッと考えた。
若い時ならどうしているだろう。
まず躊躇などしていないだろう。だいぶ違う。
後先を考えず、まず走り出しているだろう。
それなりの準備をしていたときもあるが、
雨具も持たず、ライトも持たず、
ましてや天気予報など見る気もしなかった。
予定したら、必ず実行である。
現場で雨に祟られることがあっても
それを受け入れてしまっていたに違いない。
信州の野麦峠を目指したときも、
伊勢志摩を巡ったときも、
妻籠に行ったときも、
冨士の頂上に自転車を担ぎ上げたときも・・・

(富士山頂上から30mほど下ったところ。やはり雨だった。)
結果、全て大雪か雨に祟られて大変な思いをしている。
けれど、なあにも考えなかった。
ましてや後悔などあろうはずはなかった。
濡れるのがいやだななども、これっぽっちも考えなかった。
結果、雨に降られて全身濡れ鼠になったとしても、
全天候が楽しかった。
「これも全て善し」だった。
考えれば相当無謀なことをしたと思うのだが、
そこが若さという柔軟さなのだろうか・・・
いやいや、なんのなんの、まだまだ・・・
今日の浅草のそら
増えました!
みいんなめだか。
何匹いるんだろう・・・

親たちに食べられないように
疎開、疎開。
これで、安心か・・・
今日は晴れ
回向
回向・・・えこう
ということ。
人が亡くなって花を手向(たむ)ける。
香を手向ける。
経を手向ける。
心を手向ける。
手向けること。つまり回向すること。
この仕事を始めた頃、親しいお坊さんに教えてもらった。
どういうシチュエーションで伺ったことか思い出せないが
最近本尊を祭らず、位牌壇になっている仏壇が多いことにあきれて
そんな話題になった。
坊「供養ってどういうことかわかるかい。
あんたが、仏様に一歩でも近づくことが供養なんだよ」
TON「僕がですか?」
坊「仏さん(死者)は、もう手を合わせようにも合わせられないんだよ
だから、その分もあんたが変わりにあわせることさ。
あんたの心が仏さま(お釈迦さま)に近づいたらその分功徳はあんたに来るじゃないか。
『その功徳は結構です』と思うんだよ。そうして仏さん(死者)に振り向けて下さいと願うんだよ
それが回向と言うものさ。」
「そう、振り向けること、回し向けるって書くじゃねえか」
TON「なーるほど」
昨日、横浜のOさんがみえた。
奥様ご同伴でしばらくぶりだった。
一見するとどちらの若住職ですかと伺いたくなる好青年だ。
お父様を失うことを契機にご自分の家の宗教を学び始めた。
今は、ご夫婦で浄土真宗の学びを怠らない。
お父様が亡くなるまでは、
先祖供養なんて考えたこともなかったと聞く。
だから、お葬儀やその後の法要、菩提寺との付き合い方などなど慌てた。
いっさい白紙の状態だったからである。
そんなご自分の状況を話したとき、菩提寺の住職に
「知らないからよい」
と教えてもらったと言う。
知らないことがよいという意味ではない。
余計な知恵にそまっていないからまっすぐに
法を理解しやすいという意味なのだ。
人は比較しやすい。
比較するのが人間のよさでもアリ、堕落の初めでもある。
だから、赤子が親を絶対的に信じて飲み込むように
法を飲み込む時期が大事なのだロウと思う。
最高の回向をしているんだなあ・・・
と思いながら「回向」を思い出させていただいた。
ほら
弥勒菩薩は難しい
シンプルなものほど難しい。
その典型的な例が国宝第一号の広隆寺弥勒菩薩だと思う。
そう簡単に線が出ない。出せない。
表情になると輪をかけて難しい。

若いとき、京都をブラブラしていたとき
半日以上ポカーンと魅入っていたことがあった。
なんてきれいな線を描いているんだろう・・・
なんの虚飾もない・・・
ひとつ間違えれば、この表情は全く異なったものになってしまう。
極限まで省かれたライン。
生き方においても、シンプルほど難しいものはない。
けれど、シンプルほど簡単なこともない。
けれどシンプルほど怖いもの知らずもない。
要は、「捨てられますか」と言うことなのだと思う。
今日は浅草のそら

