すっかり春めいてぽかぽかだ。
人力車に乗って風に打たれるのも気持ちの良い季節。
それにしても何台来るの?
見える台数+2台でした。全て外人客でした。
それにしても多いこと。
すっかり春めいてぽかぽかだ。
人力車に乗って風に打たれるのも気持ちの良い季節。
それにしても何台来るの?
見える台数+2台でした。全て外人客でした。
それにしても多いこと。
環境アセスメントに関する説明会は去年のうちに終了し
いよいよ最終調整の説明会かな。
新東京タワーも見えてきました。
基礎の試掘の進めているし、
真綿で首を・・・ ではない・・・、
いよいよ槌音が聞こえるようになってくるのかな。
東京は再開発でめぼしい町はどんどん生まれ変わっている。
初めて東京に来たときは、江東、墨田、台東、葛飾・・・
下町情緒でもそれぞれ微妙に違っていた。
風情と呼ばれる得もいえぬもの。
都電もなくなり、再開発されて金太郎飴みたい。
どことなく白々して見えた。
なくなってしまえば、何の不思議もなく
「昔あったねそんな」のくらいに「風情」って失いやすいもの。
押上、京島、業平の町々もどこにもあるような、
きれいな、画一化されたデザイナーズ街路に変貌してしまうのだろうか。
下町の路地。くもの巣を張り巡らしたようなごちゃごちゃ感は、
どんどん整理されていくんだろうなあ。
付加価値のつく土地を大手が見逃すわけはないもの。
下町気質まで無くならなければよいが。
すがすがしかったですね。
最後の1本になりました。
種字(梵字)曼荼羅が手に入った。
ようやくと言って良いのか、気に入ったものがなかなか見つからなかった。
前に作って欲しいと依頼したものは、
紺地にむらが出ていた。
「印刷だからしかたない」の一点張りで前に進まない。
じゃあ紺紙に金泥で書いてくれと、全くの予算オ-バーになってしまうが
うちを信頼してくれて依頼してくださったお客様を裏切るわけにいかない。
依頼額の数倍になってしまうほどの赤字を覚悟でお願いするが、
書家の梵字見本を待てど暮らせど送ってこない。
堪らず電話をしてみると、「出せません」
「そんなに細かいこといわれるのでは、当方では困難です」
辞退されてしまった。
一度引き受けていながら…僕が連絡とらなかったらうやむやにしたかったのだろうか。
かんぐってしまった。
で、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
懇意にしている梵字の大家にお願いすれば話は早いが、折り合わないだろうし、時間もかかるだろう。
実はこんな経験は、しょっちゅうなのだ。
まず自分が気に入らないとだめなのだ。
これはどうしようもない。だから製作側が職人意識が高い人としか長続きしない。
採算だけで仕事をするところ、聞く耳を持たない職人、
呼吸があう、合わないとはよく言ったものだ。
そう考えてみると、僕の周りには、よい縁で結ばれているものだと感心させられるのだ。
だって、視点を変えて客観的に自分のしていることを見たらわがままだもの。
それに付き合わされる職人は堪ったものじゃあないだろう。
それは、わかるのだ。
だけれど、納得いかないものを、施主さんに手渡すわけにいかないじゃん。
後々まで後悔してしまう。
だからまた、わがままを通すことになるだろう。
付き合ってね職人さん。
表装まで全てかけさせ
「勾玉を利用して根付を作ってみようか」
と言う声に応えてみた結果、こんな感じにできました。
勾玉を選んで、
これがまたきれいな石があったので、よけい仕上がりに影響しました。
ね!きれいでしょ!
また、紐の組み合わせ方でこうも違うものかと驚きます。
念珠製作の応用です。
春の雨だす。
国内の無理解に嫌気をさして海外に活路を求める芸術家。
そして技術者たち。
昔から後を絶たない。
出る釘は打たれる。
一定以上の特出したことは望まない風土。
処世術として友好に働く場合もないとはいえないのも確か。
ただし一度公で認められてしまうと、空気はがらっと変わる。
鬼畜米英が闇雲に親米へ
安保闘争に眉をひそめていた大人たちは何処へ?
性の解放はどこまで若年化するの?
価値観はひっくり返ってきた。
だいぶ前、小学校に通うわが子の教科書を見て腰を抜かした。
書道は書写といい、自然と情緒を育ませてくれる唱歌の激減していて、
若かりし頃、好きだった反体制ソングやら
ニューミュージックが課題曲として顔を見せていた。
形ばかりの歴史の羅列・・・
いったいこの教科書は何人(なにじん)を育てようとしているのだろう。
欧米か?
むしろ欧米人が日本の文化に惹かれて、
バックパッカーよろしく世界から訪ねてきている時代。
日本人は何を伝えられると言うのだろうか。
戦前の日本人の貧しいけれど心の豊かさに胸を打った外国人は多いという。
ご先祖が培ってきた日本人の心象を今の教育で、
どう受け継いでいけるのだろうか。
唱歌が小学校の音楽の教科書から激減し
日本の美しさ、日本の歴史の誇りを日本人が見失っている。
海外でさかんに取り入れられていく日本文化。
気付かんかなあ教育委員会。
SCORPIONSのこの一曲。
般若心経彫りした桐の板です。
軽いしお守りによさそうだなあ。
ぼくが始めてアルバイトに手をだしたのが小6の夏休み。
新聞配達だった。
いざ給料日になると当初の約束と異なり、
働き口を紹介してくれた配達員に賃金を中抜きされ、
「田舎に帰りたいからちょっと待って」なんて
今考えると信じられない理由で給料の遅配までされた。
金で人は豹変するものだと骨身に沁みた。
次が、中3の夏休み。
1969年7月20日に面接を受けに行った。
何故詳しく覚ええているかと言うと、アポロ11号の月面着陸の日だったからだ。
面接を受けた社長室のテレビに映る月面の映像が気になって
何を答えたか全く覚えていない。
大阪万博の記念メダルセットが欲しくて働いた。
一ヶ月、蒸し暑いはかり工場で錆落としをしていた。
真夏の工場のつらさをとことん身に沁みるが、工場内の技術者にはすこぶる可愛がられ、一杯飲み屋にしょっちゅう誘われる。
その次が高校1年の春から、毎日曜日建設現場でサッシ清掃をした。
北海道一人旅の軍資金のために働いた。
奄美大島出身の社長にすこぶる可愛がられたが、ぼくの神をも恐れぬ失態で、責任辞任し、苦い思い出となった。
思い出してみると、親に反対され隠れてバイトをし、悲しい結果に終わったこともあったが、今にして思うとそれなりに有益だったように思う。
昨日、長男が初めてアルバイトに出かけた。
プッシュしないと何のアクションも起こさないポーちゃんなので、いつも母親の雷を一身に受けている。
それが、高校の卒業旅行の軍資金ためようやく重い腰を上げた。
初日、帰ってきて「どうだった?」と聞くと
「戦力になるって言われたよ」
軽作業と聞いていたが、靴の入ったダンボールを持ち運ぶ作業のようで、結構重労働のようだ。
剥けそうになっている手を見せながらも、にこにこ顔。
どうやら何とかなりそうかな。
夕食の手伝いをさせようとすると、
「筋肉痛だあ」
早速動かない。
「それはそれ、これはこれだろう」とぼく。
まあしばらくは、我慢するとしよう。