聖俗

仏像彫りで原画探しに合羽橋にある中央図書館に走る。

いやあ今日は、とにかくあっちへ行ったりこっちへ行ったり
まさしくピュンピュン丸だった。

最後の最後まで、全力疾走。
ちなみに靖国神社へも全力疾走。
もうへとへと・・・

で、なんとか原画は見つかり、せっかくのチャンス。
浅草寺資料を今後の参考にと二階の郷土資料室を訪ねる。

思った以上に寺の資料は少なくてちょっと残念。
目を配っていると、こんな資料棚が目に入る。

しかも浅草寺資料の背中合わせの棚。

さすが浅草。聖俗が一つところにまとまっている。

地元ならではの格好となっているではないか・・・

はとがいっぱい

ヒッチコック「鳥」?

白いと不気味には見えない。

「僕のごはんだ」

猫の親分が縄張りを争っていた。
写真を撮っていると、
「写真屋のおばちゃんが、食べちゃうのよ。丸々太ってるでしょ」

そういえば毛並みがいいなあ。
野良のくせに・・・

平和だ・・・

浅草寺のお掃除

朝は気持ちがよい。

記念樹(樹齢800年)と浅草寺本堂

近寄ると、
3月10日の東京大空襲の爪あとが未だにはっきりと読み取れる。


最近柵が張り巡らされて覗き込むしか出来なくなったが、
戦前の天然記念物を襲った災禍はしっかりとタイムカプセルと化している。

店頭社会学

店に立ち四半世紀を越えて接客していると、お客さまの嗜好の変化が如実で時代を映し出す鏡のようでおもしろい。

ここ最近、とにかく団塊の世代から同年代とおぼしきお客さまの層が圧倒的に多くなった。
先祖供養に責任をもつ世代が下がってきたと言えなくもないのであるが、単に世代交代しているとそう単純なものでもないように思う。

つまり家の先祖を無条件でお守りしなければいけないというという考え方から、多種多様な目的での来店が目立つようになってきた。

自分を守る仏を祀りたい、巡礼をしたい、写経をしたい、癒しを求めたい、云々・・・
言うなれば自分探しに近いところで、仏教を宗教として感じているように見受けられるのだ。

「仏教を宗教と感じる」変な表現だけれど(そもそも仏教は宗教なのだから・・・)より本質に気付きだしてきたのではないのかな。

僕らの親の時代までは、家の宗教は宗教。自分の生き方は生き方のように、そこには厳とした隔たりがあったように思う。家の宗教には生き方までを求めていないし感じさせてもくれない。先祖をお守りしてくれる都合のよい保管機関程度の存在。
認識の上ではそうだったのではないだろうか。

寺と言う存在は実は宗教だったんだということに改めて気付きだしたのではないのかな。

こういう傾向って、2~30年前はまず話題にもならないことだった。
以前は先祖をお守りするのは、不可侵的な部分として寺との関係も含めて、家の宗教としてまず守ればよい。個の考えは挟む余地がなかった。

しかし、オール社会派みたいな時代の寵児達、社会の改革を標榜していた世代が先祖を守る立場で親からバトンタッチされた今、
先祖供養の形に変化をもたらしてくるのも何となく理解できる。

同時に微妙な問題を孕む大事な時期のような気もするのだ。

いつもの団塊のお兄さんたちが3人で訪ねてくれた。

「上野まで来たから、ここまで来たら浅草に足を伸ばさないとね」
嬉しいことを言ってくれるではないか(冗談でも嬉しい)。

 ササ、寿司食いね。 神田の生まれだってネ

等とは口が裂けても言えない偉いお兄さんたちである。
象徴的に言うならば、B型、O型、AB型という感じかな。
全く個性がそれぞれ異なる。
けれど面白いようにうまく調和している。

いつも巡礼を共にする。禅の修行を共にしている。
そういう仲間である。
師匠のお坊さんに導師を依頼して、共にインドまで仏跡を旅し座禅を組んできたほど篤い信仰心を持つ。

それが根底にあるから、個性がそれぞれ際立つのに
落ち着くところに落ち着く。
決してばらばらにはならないのだろう。
こういう友人関係は頼もしくもあり、羨ましくもある。

辛口が冴えるT氏は体の調子が悪いから最近は巡礼もままならないと
僕の耳元でボソッと小声で漏らされた。
パワフルなエネルギーを発散し続けているように見受けられていただけに、
若干気になった。

でもこんな善き友と四国を間もなく旅する奇遇を得たのだ。

帰る後姿に「がんっばって」と心うちで手を思わず合わせてしまった。

赤珊瑚の大玉片手

最近には珍しいノークラックの赤珊瑚。
ほんとうに、色の深い赤で揃った、この大きさの玉が見つからない。

主玉12.5mmの22玉
親玉16.5mm 二天10mm

一も二もなく収まった。

海洋汚染は、日本近海の珊瑚の住める環境を
ことごとく葬り去っているという。

登山家が富士を護るように
母なる海をも一度考え直さなければならないと思う。

浅草の今日の空

すっかり晴れました。
けれど、結構な寒さ。みごとな西高東低です。

ぼくはリサイクルごみじゃニャアぞ。

この季節を想う

早いもので、もう1月を終える。

新年の浮き足立った感覚はとっくにどこかに行ってしまって、
すっかり地に付いてしまったけれど、

恒例の東京マラソンの前触れがあると、比較的おとなしい2月も
多少なりとも賑やかさを増すことに期待をかける。

ただ、ぼく自身は、この時期になるとどうしても東京大空襲を思い出してしまい、
すっきり!という気持ちにはどうしてもなれない。

「見てきたような・・・」というような言葉がある。
「戦後は終わった」と言われた年に産声を上げた若い?戦後生まれの人間としては、
覚えていよう筈はないのであるが、
ここ浅草周辺には、数多くの戦跡が、
忘れさせてくれない事実として、人間の愚を世紀を越えて伝えているのである。

浅草寺境内の焼け銀杏、隅田川周辺の供養碑、横網町の震災記念館、各寺院に残された供養碑・・・と、ついつい足を止めてしまう。
眺めていれば、誰かが説明してくれる。

お付き合いしている江東区の羅漢寺の境内にも、殉難者供養碑が残る。
住職に伺えば、東京大空襲の際行く場のない何百体というご遺体を、
境内に集められたという。
惨劇を伝えるには、あまりにも暖かい笑みをこぼすお地蔵さんがその地に建立されている。
そろそろ紅梅がその碑を飾ろうとしているだろう。

東京慰霊堂のSさん。
庭師をする傍ら、遺骨のお守りを長く戦後続けてこられた。
毎朝「おはよう」と十万を超す戦争殉難者と震災殉難者の無縁仏の骨壷の蓋を半開きにし、日の光を当て、「お休み」と納骨室の戸を閉めるを日課にしておられた。
知り合った当時、慰霊堂内部に見上げるほどに保管(安置)されている圧倒される無縁さんの姿を見せられたとき、何度嗚咽させられたことだろう。
一家全滅と思われる骨壷がいくつも散見される。もちろん引取り手があろうはずはなくここで息をしているのである。

車夫を家業としている友人の「講談人力車」岡崎屋さん
浅草寺境内の戦争樹木の説明では事欠かない。
焼け残った銀杏の木を擦りながら説明してくれる。

特攻訓練最中に動員され遺体の片付けに浅草にきたと話してくれた老夫婦。
いまでも鼻を手向けに毎年来られると聞く。
どうして忘れられよう・・・

ただ、過去の事実に恨みを残す愚はしまい。
けれど風化させる愚はさらにさせてはならないだろう。

これも縁なのだ

シャッターを下ろし一日が終ると、
文字通りへにょへにょになる。

横浜に住んでいたときは、若かったせいだろうか
一呼吸・・・

「ふ~~」とすれば、
もう疲れは飛んで、さっそうと駅まで走って帰ったものだったが、

今は、あきまへん。

骨を抜いた蛇がとぐろを巻いているようなもので(想像してください)
いっきに緊張の糸が切れてしまう。

このまま布団にもぐりこめれば極楽気分で夢心地に慣れるのだが…
そう言ってられるほど甘くはない。

まだ頑張らなきゃと言うときは、
これだ

クローバカフェ。

お隣さんにコーヒー店があるのもありがたい。
しかも二軒も並んでいる。
腹が減れば、中華屋も、もんじゃ屋もすし屋もなんでもごじゃれの通りである。

考えようによっちゃ、もっと働けという
天の声なのだろうか・・・

クローバーさんの開店時にもこんな日記を書いてたね。

061031のブログ。

店長の実家は大きなサイクルショップなのだ。

そういえばこの日記を書いた辺りから自転車の趣味復活の兆候が
くすぶり始めたのだから、縁といえば縁なのだ。

そろそろ、こんなことを書いていないで帰ろうっと。