浅草猫

ナーゴ、ナーゴうるさいね。
すし屋のお魚狙いかな。

キョロキョロと周りを伺ったかと思ったら・・・

知ーーらないっと。

感覚の不思議

以前は、毎月のように京都往還を、夜行日帰りで続けていた。
もちろん、自動車でのこと。

帰って店に立つ時間は決まっているし、
訪ねなければならない寺も時間が決まっていた。
となれば、強行軍にならざるを得なかった。

店のシャッターを閉めると同時に車を駆って、東名をひた走った。

海老名のサービスエリアで一息入れて、
あとはノンストップで大津の休憩所まで飛ばす。

身支度を整えて、ちょっと仮眠して日の出を待つ。

丸一日、数軒の寺を訪ね終えると、
とんぼ返りで京都南のICから東京に向かう。
途中、回転寿司のコーナーのあったサービスエリアで一息した。

岡崎を過ぎる頃には、ホッとした隙間に睡魔が忍び込むことになる。

そういう時は、コーヒーもガムも何の役に立たなくなっている。

ついに最期の手段となる。
知りうる限りの曲を歌い続けるのだ。
決まって70年代の曲になってしまうのだが…

何曲か、口ずさみながらいると、突然どっと涙に襲われる。
っと、アドレナリンが出るのか、すっかり眠気は飛んでいる。

琴線のどこに触れたのかわからないが、
何処かのフレーズでヒットしたのだろう。

忘れていたはずの感覚が泉のように止まることなく、
噴出してくる不思議さを感じたものだ。
(こんな走りは真似しないで欲しい)

トトロを始めて観た時の驚きは格別のものがあった。
支持する感覚は年代によってずいぶん異なるのだろうと思うけれど、
高度成長期を受身ながら肌で感じ取ってきた僕らの世代には、
どこにでもあった光景であり、懐かしさにほろりと来た。

香りの商売上さまざまな香りを試していると、
勝手に記憶の扉が開いてしまう。しかもごく限られた期間の記憶が。

臭気判定士の勉強をしていたときに、脳ミソの海馬組織に蓄積されている
香りは古い記憶にダイレクトに作用することを知った。

考えると、人の感覚って面白いものだと思う。

試験中

念珠の中糸…腕輪の場合はゴムの寿命は、
本当にマチマチなのだ。

切れる人はその場で切れる。
5年も6年も持つ人もいる。

この差はナンだろうといつも不可議に思う。

沈香の腕輪は10年以上持っているし
トルマリンの腕輪は3年を有に越えている。

試験中のこの玉でついでにゴムの実験もしている。

水仕事時は、腕からはずすを鉄則のところ、
あえて手にしたまま。
それどころか、遠慮なしに
ジャージャーとかけまくっている。

玉は木製でありながら、全く変化なし。
けれど、ゴムは光を失った。

歴史の中

20歳の頃だったか、山崎朋子の「サンダカン八番娼館」の劇を観た。
感動した。
同時に、そうした運命に翻弄された女性の数は、
生半可な人数ではなかったことも同時に知って唖然とした。

貧農の口減らしに身を売られ海外の娼婦館「サンダカン八番娼館」で働く、
実在の女性をモデルにした物語である。

元からゆきさんだった老婆と山崎の劇的出会いから、
明治期、貧しかった日本をあとに東南アジアに娼婦として身売りされていく「からゆきさん」を調査、取材し、一冊の本にまとめた。

日本に出稼ぎにくる外国人女性をさして「じゃぱゆきさん」
などという造語があるが「からゆき」つまり唐行き(からゆき)に対しての造語なのである。

最近、日本の近代史に興味があっていろいろ読みかじりしていると
海外に居住していた日本人への興味が高まざるを得なくなってきたのだ。

でも、さらに時代をさかのぼれば、山田長政に代表される、
古の昔にも日本を離れアジアを舞台に活躍した日本人がいた。

その数は予想をはるかに上回る規模であったようだ。

戦国時代、特に関が原や、大阪夏冬の陣であぶれた武士集団…浪人集団の国外逃亡など行き先は日本人町のあった東南アジアであったと聞く。
当時の国王の傭兵として雇われるものも少なくなかったようだ。
江戸幕府のキリシタン弾圧を逃れた、宗教難民も多い。

それらの末裔には、知り得る範囲だけでも
現地で名門家として残っているという。

単純に500年と言うことは、
おおざっぱに15代続いていると考えて、
一人が3人産んでその子供がまた3人と単純に計算しただけでも
15代続けば、なんと478万人に増えることになる。

あまりにも大雑把すぎて聞くに堪えられない諸兄もいるだろうが、
代が連なると言うことは、これほど大きな事なのだ。

そこには若くして死滅したり、独身で通したり、病死、虐殺、天災などの要因で、はるかに少ないかもしれないし、3人の子供という計算は少なすぎるということもある。

が、日本人町というコロニーが国を越えて存在していたということが、ダイナミックに感ずる。
そして同国の血を引く末孫がそこにいるということが不可思議でならないということなのだ。

先の大戦でも、終戦を迎えながら、植民地からの独立を助けた部隊もあり、そのまま帰国せず現地で結婚し留まった日本兵もいると聞く。

考えると、
なんだか国と言うレベルは、どこに行ってしまうんだろう。

こういうのもあるでよ。

仏像・・・とは言いにくいけど、
当店の過去歴みたいなものですが、
こんなミニチュアも作ったことがあります。

鯱(しゃちほこ)

でも・・・
何に使ったんだろう・・・

まだまだ

お得意さんであり、大切な友人Sさんと話している中で
ふっと気付かされた。

あるとき不幸を背負ってきた少年を担任の教師が「私が慰めてあげる」と心でだきかかえようとしたそうな。けれど、「幸福なあんたに何が分かる」と幼少のころから背負ってきた重荷を持つ不遇の少年は、「分かるわけがない」と拒んだのだと言う。

確かに、然り。そのとおりだと思った。

慰めたいと思う回りの気持ちもわかる。けれど
慰められれば慰められるほど、
慰められる側の心は空回りするだろう。
「あんたに何がわかる」

同情・・・同じ情に立つ
同じ情になる為には、同じ境遇を通過しなければ、得れる方法はないだろう。
社会的要因、家庭的要因、個人的要因、
それに先天的、家系的要因まで考えていくと、

人の十字架は、軽々しく背負うことはできない。
でも、
それでも背負ったまま生き続けなければならないのも人間なのだ。

忘却すること。
生を止めること。
自ら以上の苦を背負って生きる人を探すこと。

の3択しか解く鍵はないように感ずる。

忘却というと、いい加減なように聞こえるが、
実は積極策なのだと思う。
生きたい、元に戻りたいと根底にあるが故の生きる術なのだと思う。

生を止める事。もちろんそれも本人の選択肢なのだが、
後々周りへの後遺症を考えた場合、悲しいかな本人の善とは逆に、
最も非善、非人間的である気がする。

残されたものが越えなければならない課題は、
ヒマラヤを未経験者が案内人もなく越えるほど過酷なものだ。
以前の重荷まで重加算されるのだから。

自ら以上の苦を背負いながら、健気に生きている人と出会う
僕の知る限り、心の開放につながる近道と考えている。

人の苦を最大限、自分の苦と捉え生きた宗祖の教えに出会う人もいる。
子を失った悲しみを、親を失った子供を引取り育てることで越える人もいる。
公に生きることでその術を得る人もいる。

人間(じんかん)とはよく表意したもので、
人間で落とした心は、
人間の中でしか拾えないようにできているのかもしれない。

だから、死に急ぐ心を持つものには、
早まるな。
ちょっと待て。
「まだまだ探しきれていないよ」とどうしても言いたくなる。