プロ意識

24時間テレビを本当に久しぶりに見た。
ご多分に漏れず、
欽ちゃんのゴールに感動させられた。

だいぶ前、欽ちゃん劇場が浅草に発足した頃、
浅草お上さん会の招待で欽ちゃんがみえた。

どんな挨拶をするのか興味をもって聞いていると、
「浅草の町は優しくなくなった」
と、独特の笑顔ながらもズバリと指摘した。

六区の通りも往年の勢いを感じられず、
歴史のあるエンターテイメントに活力がそぎ落ち、
危機感から浅草のお上さんたちが立ち上がった。

そんな援軍として浅草育ちの芸人の欽ちゃんが
一家を引き連れて浅草に戻ってきたのだった。

その挨拶が、「やさしくない」
なのだった。

あまりに的確な指摘で驚いた。
優しくなったかならなかったかは、
お客様が機敏に感じられることと下駄を預けるが、
まさしく基本中の基本、原点中の原点と、
心に焼き付いている。

もう十数年前の話だ。

昨日のゴール場面を見ていて
プロ意識を見せてもらったきがする。

地蔵菩薩

創作ものの地蔵菩薩。
須加田を変えて何度やり直しだろう…

さらに顔は難しい…

今日の浅草の空

暑過ぎず…
これから急上昇するやも知れないが、
晴天の割にはすごしやすい。

読売テレビ24時間チャリティーの一環で雷門前でも
チャリティーイベントを行なって(占いみたいだ)
募金を募っていた。

何年かぶり…
いや二十何年かぶりになる。
24時間テレビに関心をもっている。

番組中、ベトちゃん、ドクちゃんのその後を放送していた。

ベトナム戦争時アメリカ軍が使用した
枯葉剤の影響で、今も苦しむ人々がいることを伝えていた。

長引く戦争の厭世観と、奇襲されるベトコンの恐怖から
業を煮やしたのだろう。
様々な化学兵器を繰り出すに及んだ。

戦争のその瞬間は、一時代のものとして、
過去のできごととして置き去りにされていく。

けれど、残された現実は、
間違いなく当事者には置き土産されているのだ。
しかも代々に渡って。

昔。といっても20年ほど前のことだろうか、
たまたまつけていたラジオからニュースが流れていた。

自動車事故だった。

ある母親が運転するワンボックスカーの事故だった。

サンルーフを開けて走っていたという。
幼稚園の送り迎えだったのだろうか。
友人も含め5人の子供が同乗していた。

こともあろうに
後部座席からシートの上に立ち、
首を出して風邪にあたっていたという。

車は、人の背丈ほどの電車のガードを通過した。
車がガード下に潜り込んだ瞬間、車内は地獄と化した。

後は語ることもはばかる光景だった。

ぼくは、当時その母親の立場を思い震撼し涙した。

「生き地獄」

ニュースとして聞く側は、無責任に終えることができる。
が、当事者は、十字架を担いだ。
まだまだそれからの人生があるのだ。

時間は流れた。
時が周りの人々から、
「記憶」を「忘却」と言う言葉に塗り替えてきた。

けれど、当事者の時は止まっているだろう。

どうしただろう…
いつも気になる。

虫食い珊瑚

直しの念珠。

「穴だらけじゃん」などとは、くれぐれも言わないように。

案外知られていないけれど、

「虫食い珊瑚」とちゃあんと名前がある。

まあ当らずとも遠からず、かな。

見れば見るほど面白い玉だよね…

糸を通し終えたところ

これから糸を足して編みこむのだ。
そして房をつければできあがり。

今日の浅草の空

未明に雨が降ったのか、
朝ようやく過ごしやすい気温だった。

むしろ、ビル内のほうが熱気が抜けず、
あっつーあっつつー。

融ける…

連続40℃が続く日本列島…
融けていませんか…

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070817i411.htm

体温より高い気温なんて…
海外の話と思っていたものが、
まさか、我が国で経験できようとは、思いもよらなかった。

酷暑の言葉が採用されたとたんに35℃を超えるのが
当たり前のようになってしまう。
卵が先か、鶏が先だろうか。

40度以上の名称をきめたら、
今度は続々40℃が当たり前になったりして…

…もういい。
なかったことにしましょう。

「あたりまえ」

近くの仏壇屋の奥様と従業員さんが来店された。

目的は、弟子入りだ。
と言うのは冗談だけど、

念珠の製作方法を教えて欲しいと懇願されたのだ。

ちょうどお盆あとで客足もまばらだし・・・

「まあいいか」

と言うわけで、念珠作り教室を開いたと言うわけなのだ。

生徒は、同業者の仏壇屋さんといっても念珠つくりは全くの初心者。
糸のもち方から、伝えないといけない。

「教授するくらいは簡単なもの」と、高をくくっていたのだが…

いざ伝えようとすると、

人の体を動かすのは、なかなかままならん。
あれ?右だったっけ、左だったっけ…
どっちを通すんだっけ…
男結びは、こうだったっけ…

正に悪戦苦闘の連続。

四半世紀、念珠作りをやっていると、
脳みそを通さず、体が勝手に動いてしまっている。
いちいち考えていないということだ。

それだけに、
いざ、言葉に出して教えようとすると、

いちいち自分の手に問いかけないとわからない。

「左手さん、こうだっけ」
「右手さん、紐はこっちに向けるんだったっけ」
と確認しているのだ。

あまりにも当たり前になりすぎていると、
そのありがたみがわからないのだ。

考えると「あたりまえ」は、
身の回りにいくらでもある。

歩ける「あたりまえ」、
声を出せる「あたりまえ」、
食べれる「あたりまえ」、
大小便がだせる「あたりまえ」、
汗をかける「あたりまえ」、

人のいる「あたりまえ」、
空気を吸える「あたりまえ」、
水を飲める「あたりまえ」、
生きていられる「あたりまえ」、

・・・・

挙げればきりがない「あたりまえ」。

あまりにも当たり前になりすぎて、
忘れている。

けれどいざ「不足」になると、
「当たり前」が実は、
全く「当たり前」でなかったことに気づく。

「あたりまえ」は、あまりにも偉大だったのだ。

今日は、「あたりまえ」に、気づかせてもらった。