長いものにはまかれろ?

上さんが食後にちらっと言った言葉。

「去年までは、花火の音が聞こえるとジットしていられなかったのに、
今年は花火が終わるまで外も見るきがしなかったわ」

目の前の通りからも、ビルの屋上に出ても見えていた光景が、
どんどん環境の変化で遠いものになってしまったこともあるけれど、
ぼくも今年は、若者の乱痴気騒ぎの町になるのがあまりにも目に付いてしまい、
早々に現場から辞退してしまった。

決して歳のせいとは思うまい。

店の敷地内でも10人近くの若者が占拠して、
なにやら真昼間から騒ぎ放題だった。

まあ、開放感に浸りたい気持ちも、わからないでもないのだけれど、
時と場所を考えろと、だんだんと腹立たしくなって、
怒鳴りに表に出たとたん、「ごめんなさい」と数人に謝られてしまった。

なんだよ、いい子じゃん。
これで、トーンが落ちてしまった。

一人一人では状況を感知している子もいるのに、
まとまると、集団ヒステリック状況を装わなければならないの?

見た目は超現代っ子でも、中身は長いものには巻かれろ的日本人。

全く変化してないじゃん。

と、不思議な思いに駆られたTON店長なのであったのでした。

今日の浅草の空

浅草はお祭り慣れしている町だけに、
次の日になれば、なーんにも残っていない。

きれいサッパリ。
何もなかったかのようだ。

空は薄曇り。夕方からは雨だとか。

花火大会、人人人・・・

吾妻橋上はもうすぐ通行止め。
人が車道を埋め尽くします。

あれ。また屋形船置き場が広がった感じだ。
花火の日でもつい思ってしまう。
だって異様なほどに川面を占拠しているんだもの。
大雨降ったらどうなるのかな。

とにかく目に付くのは、
「浴衣と機動隊」
セーラー服と機関銃?とつなげてしまうのは歳のせい?

まあ大変です。

準備完了

今日は隅田川花火大会で、町が朝から騒然としている。

未明から、足場を組む音でざわついているし、

こんな時間からと思う人の波が、
  駅口から吐き出されてくる。

わけもなく人が多い。

花火らしく浴衣を着て雰囲気を盛り上げてはくれるけれど,

まだまだ、花火は先だよ。

ぎっらぎらのお日様が目に痛い。

準備完了になっている。
あとは暗くなるを待つのみか。

準備してますなあ…

来年はいっそ氷屋さんでもしようかしらん。

寝ても覚めても

何にでも興味を持つのは僕の良くも悪くも特徴。
多少のばらつきがあるけれど、長い付き合いになる。

念珠作りも仕事と言えば仕事なのだけれど、
そう思いながら製作したことはない。

趣味というと語弊があるが…
ようするに好きの延長なのだ。

儲けようと言う気はないし、
会社を大きくしようと言う気もない。

こういう人が、株式会社を何故作ったのと時々考えちゃうが、
立ち上げた当時は、社会的信用と言うことが
一番だったからだけなのだ。

株式会社というくくり以外で、
自分の考えにあった企業形態があったら
とっとと作り変えたいと思っている。

まだまだ創りたいものがフツフツ湧いてくる。

愛宕山、昨日の続き

愛宕ってもともとは、慰霊の土地につける名称。
その為とも思われないが、別格クラスの寺が軒を連ねている。


心霊スポットもあったり

肝試しに夜中、一周してこいと言われたら
早々に辞退するだろう。

こんもりとした杜は、都会の中に憩いを感じさせる一方
そこが霊地であり、聖地である。
つまり祈りの場なのだと言うことを
忘れてはならないことを感じさせられた。

放送博物館を下見し汗が引っ込んだ頃合をみて
勇気を奮って外に出る。
ちょっと目を横に向けるともうそこが愛宕神社だった。

本来なら、この男坂をハーヒーいいながら上るところ
グリーンヒルをとことこ歩いてくると苦もなく神社に到着と言うのは、
得した気分。
井上陽水の「断絶」のレコードジャケットのように

青年が階段に腰掛けて涼んでいたが、
緑が多いためか体感で2~3度違う感じだった。

ぼくは、これで涼んだ。

神社の由来を読んでいると

尊攘義軍玉砕十二烈士女という説明文を発見した。

昭和20年8月22日憂国の士が自決したと二行に渡ってさらりと記されていた。
境内を探したが、殉死された碑は見つからなかった。

ただ、柵で仕切られ、立ち入れない、草ぼうぼうのコーナーが、
ひっそりとあったが、そこが何を示す場所かの掲示はされていなかった。

後で調べると、どうやらそこが殉死した場所と判明した。
戦後22年の自決とは言え、憂国の思いをもって逝かれた志、
もう少し丁寧に扱えないものかと感じつつこの場を辞した。

考えると、
戦後に特攻が行われたことも、
1000名以上のB、C級戦犯と冠された元日本兵が
戦勝国の一方的な裁きで刑場の露と帰したことも、
多くの憂国の士が戦後自決したことも、
その多くが正しく伝えられていないことが、気にかかった。

地元で聞くと、他の戦跡もあったそうだが、
全て片付けられたと聞いた。
戦跡は残さない方針なのだろうか…

帰り道は、灼熱地獄だった。