泣けちゃう

讃祷歌

仏教歌のひとつと言える。
一度でも聴かれたことのある方なら、仏教歌というといぶかしがるだろうほどに
その枠を越えて、日本人の美しかった心を歌い上げている。
全く新しい分野の歌と考える。

作者の心から零れ落ちる旋律を、自ら書きとめて
楽曲とした。

新堀智朝尼の生前中250曲近くを世に出され
風のように去って逝かれてしまった。
人の心の荒廃を嘆かれ、生涯を心の復興に捧げた。

駆け足で逝かれ、遺言のようにこの歌を遺された。
だから僕にとって、特別な存在なのだ。

最近知り合ったS師に楽譜をさしあげたところ
感動のままに
書き留め創作してくださった・・・散華。

一番好きな観音さまの歌も散華になっていた。

♪いとけなき子らに
 よみじを照らしつつ
 み手には乳びたれさせ給う 
 南無観世音・・・・・
 
 オンアロリキャ ソワカ

しばらく聴くことができなかった旋律が
目を通して、心に響きわたってきた。

モチベーション

昼食は、何年もの間、近くの立ち蕎麦屋で
ぱっと済ませてしまうのが日課だった。

昼食といっても、お店の混み具合は水物。
お客様の入り具合を見ながら合間に昼食となる為に
お昼にはまず食べられない。

若い順に昼食に入るから、自分の番は、2時3時は当たり前。
4時過ぎもありなんなのだ。

もう夕食?とよく聞かれるが
「いや昼食」と意地でも言うことにしている。

熱いそばはいらない。

ざるそばは、あんなチョロチョロの海苔だけのために、
100円も高いのは解せないから、
ここは至ってシンプルにもりそばが定石。

ちょんと汁を付けてズット吸い込む。
あまり噛まない。
一枚食べ終わるのに1分で済む。
そのかわり蕎麦湯を飲む時間が4分かかる。
しめて5分。

通ったときは2年間ほぼ毎日通った。

立ち食いの時は、そばをゆでている厨房越しのカウンターが
僕の定席。
そこで、来る日も来る日も、同じ作業を見ている。
そばうち作業を見ていると、面白いことがわかってきた。

見ていて、楽しそうにそばを打っている店員の
そばは、旨い。
リズムがある。
踊っているようにさえ見える。

何が楽しいのか、つい秘訣のひとつも聞き出したくて
声をかけてしまう。
そのうち仲良くなっていくから、僕の顔を見ると
念を入れて作ってくれるので、よけいにおいしく感じる。

反して、そうでない店員に当たると、半日気分が悪い。
形だけで打っている。

果たして、水っぽい。
腰がない。
要するにまずい。

これは本当に際立つ違いだと思った。

自分の仕事では、大丈夫だろうか?

いつも楽しむ仕事にしているだろうか?

水っぽい、腰のないそばを平気で出せる、高慢な姿勢に
なっていないだろうか。