時代を生きると言うこと

手元に一枚の写真がある。

格子に、すりガラスをはめた引き戸の、玄関前に
着物に割烹着姿に、ねんねこをつけ
おぶさり甘える子供は、一歳くらいの坊や。
お母さんは、とても若いのに、どこか凛とした清楚さを持つ。

お顔は現代的で、洋装に着替えれば、今の時代にも何にも不思議なく
溶け込める容姿だ。

昭和31年ごろの写真という。
同じ時代の人なら、思い出の片隅に、皆持っている光景だろう。

一瞬にしてタイムスリップをした。

少し前に亡くなられたのだという。
ご自分をこよなく愛してくれた母の似姿で、
観音様を彫りたいというご要望だった。

お写真を拝見した瞬間、
初対面にもかかわらず、懐かしくて、胸に詰まった。

話してみると、ご依頼人も私と同じ時代を生きた方だった。
と、すると、この中の坊やは、私の姿でもあるか・・・

どこにでもあった光景。
けれど、今は、どこにもない光景。

その時代の断片では、
今は、老女となった父も母も若く生きていたのだ。

いのちは連続している。
バトンを渡しながら次の時代を生きていく。

その時代に生きると言うことが、
渡されたバトンを持ちながら、懸命に生きることを、
なぜだか、今日は染み入るように理解させられた。