3月になると決まって戦争の、というか、
空襲のことが頭から離れなくなる。
横浜市民でいたときは、
さほど気にも留めない話題であったのだが、
東京に、引越した初日に東京慰霊堂に出くわすほど、
過去、帝都と呼ばれていた、東京と言う町には、
爪あとが、ここそこに残っていた(る)。
横浜は、子供の頃、空襲で焼け落ちた焼け焦げたビルが、
馬車道から本町にかけて、かなりの数残っていた。
幼い頃の記憶だったからか、浜っ子には、
戦中の文化史財という意識が薄いためか、
かまわず真新しい町に生まれ変わってしまったために、
目に触れて残るものは、数少なくなったように感じる。
一方、東京においては、成人してからの記憶であり、
そしてまた、商売柄ということも一役買っているのかも知れない。
「慰霊堂」つまり「陸軍被服廠(ひふくしょう)跡」は、
当時とにかく、恐ろしかった。
訪れたのが、夕刻と言うこともあったが、
何ともいえない雰囲気を漂わせていた。
鈍感な僕でも、これくらに霊気は感じる。
そんな状況だった。
政教分離とかいうことで、東京都が直接手を出せない。
ゆえに、外郭団体をつくり、公園管理を依頼していた。
国の政策で亡くなっていった多くの命に対して、
なんともはがゆい「管理」をしていたのだ。
地元有志、仏教会が供養を続けていたが、
誰よりも一人の心ある方の頑張りによって、
供養が支えられていたことをある縁を通じて知った。
もう四半世紀が経ってしまった。
信じられないほど整備され、
何十万柱の無縁仏が眠っているなんて、
これっぽっちも感じない、
明るい公園内にわずかながらホッとするのだ。
4月15は横浜空襲。
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