走る

「夏の終り」となると、自転車に乗りたくてうずうずしてくる。

ただ、乗っていなかったブランクは、
みごとに体に反映し、
胴は太り、足は細り
「走ると足が見えなくなるよ」
「漫画のように足が円に見える」と言われたことは、
すっかり昔話になってしまってはいる。

ぼくが自転車に乗るというのは、
ままチャリで近所をぐるりというのではないのだ。

自転車を担いで山を登るか、
八ヶ岳を遠望できる林道を廻るか…
(ああーいいなあ)

とにかく、やや高地のでこぼこ道をツーリングしたくなる。

この季節、高地では陽射しは強くとも、
風は爽やかになる。心地よい風景と風に出会える。

そう思い出しながら、書きつらねてみたはよいけれど…

想いの中では軽快に走れていても…
実際は、きびしいだろうなあ。
このお腹と足じゃあ…

とおもいつつも、また、奮い立つのだ。

80歳超えても走っていたいから。

不動明王

楠木を使用した。
淡彩色といっても技法によって、奥行きを十二分に感じる。

一番の技術は、眼入りと言うことである。
頭に割を入れて、内側から水晶球を入れる。

右から見ても左から見ても眼を合わせてくれる。
ぼくの眼を追いかける。

記憶

友人のブログを遡って読ませてもらっていると、
見覚えのある角度からの都電の写真と記事で、
ふと思い出された。

ぼくの父は明治40年に生まれた。
都の西北の学び舎で青春を謳歌した。
大隈公に心酔していた彼は、野心もあり、
同時に安定を好まず、実家の酒屋を飛び出した。

薬品の仲卸しの会社を興し、一時は隆盛を誇ったようだ。

「ようだ」としか表現できないのは、
僕が父と直接関わりあえたのは、3年間だったからだ。

事業を傾けてからの父しか知らない母の薫陶を受けて育った
僕の父親像と言うのは、頭はよいけど、
人が良くて騙され続ける、家族にはダメな男
という姿が焼きついていた。

高校時代、鉄道趣味の愛好誌のバックナンバーを買い求めに
東京の出版元を探し訪ねたことがあった。
何処にあったのか、今となっては記憶にないのだが、
雑司が谷のあたりだったように思う。

とにかく都電の見える光景だった。

横浜から高い交通費をかけてせっかく来た大都会東京の
しかも、鉄道マニアのぼくとしては、
憧れの都電を前にして、獲物に飛びつかないはずはなく、

衝動的に、早稲田方面の電車に飛び乗った。

学習院下、面影橋、早稲田とすぐに折り返し駅についてしまった。

電車を降りて見渡すとそこが父の青春時代を謳歌した所と改めて気付いた。
下町の匂いのするごちゃごちゃ感は、浜っ子の眼でも懐かしい光景に映った。

電停は、終点と言いながらその雰囲気はなかった。
都心に向けてまだ走れるかのように
10メートル近くレールも敷石もそのままだった。

路線は廃止されてはいたが、
レールの上にアスファルトを被せただけだったのだろう。
その先に目をやればレールの形どおりの舗装の盛り上がりが、
全てを物語っていた。

レールはアスファルトの中に吸い込まれやがて消えていた。

父の学生時代は、この上を東京市電に揺られて通っていたのだろうか…

不思議な感触を覚えた。

水晶お守りネックレス

水晶6mm玉で曹洞宗形式のネックレス。

最近制作依頼が多いので、
常備しようかとも思うのだけれど、
やっぱりその方だけのこだわりが出るので

つどにオーダーのほうがよさそうに思う。

プロ意識

24時間テレビを本当に久しぶりに見た。
ご多分に漏れず、
欽ちゃんのゴールに感動させられた。

だいぶ前、欽ちゃん劇場が浅草に発足した頃、
浅草お上さん会の招待で欽ちゃんがみえた。

どんな挨拶をするのか興味をもって聞いていると、
「浅草の町は優しくなくなった」
と、独特の笑顔ながらもズバリと指摘した。

六区の通りも往年の勢いを感じられず、
歴史のあるエンターテイメントに活力がそぎ落ち、
危機感から浅草のお上さんたちが立ち上がった。

そんな援軍として浅草育ちの芸人の欽ちゃんが
一家を引き連れて浅草に戻ってきたのだった。

その挨拶が、「やさしくない」
なのだった。

あまりに的確な指摘で驚いた。
優しくなったかならなかったかは、
お客様が機敏に感じられることと下駄を預けるが、
まさしく基本中の基本、原点中の原点と、
心に焼き付いている。

もう十数年前の話だ。

昨日のゴール場面を見ていて
プロ意識を見せてもらったきがする。

地蔵菩薩

創作ものの地蔵菩薩。
須加田を変えて何度やり直しだろう…

さらに顔は難しい…