記憶の糸

鉄道ファンの友人の日記上で交流しているうちに、
ちんちん電車好きという自分は、
どうも「鉄」とはちょっと違う、亜流のように思い始めた。

僕とちんちん電車とのつながりは、母を抜きにしては考えられない。
母はすでに80歳の山を越えた。
その夫は僕が生まれて3年後に早々黄泉に旅立った。
送り出して、手元には500円札一枚が残った。

昭和33年の当時、母子家庭が生きるための方策は
生活保護を受ける道があったようだが、
気丈な母はそれを拒否し続けた。

昼、夜の仕事を見つけては、遮二無二働き続けた。
和装の腕を買われて着物の仕立ての内職をしたり、
昼間は捺染の仕事に蒲田まで出かけたり、
保険の外交のおばちゃんをこなしたりと、

いったい、いつ眠りについていたのだろう…
と、今考えても、記憶にないほど働いた。

保険外交の仕事で交通局に出入りするうちに、
僕がちょうど4歳頃だろうと思うが、
横浜市電の電車庫で清掃の仕事に就くことになった。

当時のアパートから程遠くない、
麦田車庫に勤務することとなった。
「麦田」は横浜の人間でないとあまり馴染みのない地名だが、
元町から本牧に抜けるとき必ず通るトンネルがある。
山手の山を貫くトンネルを抜けたあたりが麦田の町である。

横浜市電開通当時は最大の難工事時だったと聞く、
市電唯一のトンネルである。
その麦田側に電車の車庫があった。

車庫から山沿いに子供の足で10分程歩くとあった、
柏葉幼稚園という小さな幼稚園に姉と僕は通った。

昨今なら年少の保育も認められているが、
当時4歳の僕は、正式には認められない年齢だった。
なのに、通えた。

つまり、
みそっかす入園だったのだ。
幼稚園側の配慮で、母子家庭ゆえに預かってくれたのだ。

今時なら、到底考えられない園長の判断だった。

僕は二つ年上の姉に手を引かれ、
おぶられ、渋々幼稚園に行きたい思いもなくお供した。

その帰り道、姉と決まって立ち寄るのが、麦田車庫だった。

数十輌の車両を母一人で清掃する姿を作業の終わる時間まで、眺めていた。
いつも人とモーター音で賑やかな電車が、
全ての戸を開け放ち、日の光を浴びてのんびりしている光景は、
子供心にも安らぎを与えられた。

その異空間で母が近くにいる安心感からだろう、
寝転んだままよく居眠りした。

高校時代、市電全廃の報を聞いたとき、
(当時、交通局の弓道場に通っていたのも縁だと思う)、
とっさにその記憶が蘇った。

時代遅れの乗り物。
まだ走っていたの?と冷ややかに、と言うよりも、
記憶の隅から消えてなくなっていたかのような事柄だったのに、
一瞬にして鮮やかに当時が蘇った。

高校一年の春。
市電最後の拠点である滝頭車庫に入庫する、
超満員の最最終のさよなら電車の車内につり革を持ちながら、
目頭を熱くし揺られていた。

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