日本ならではの聖火リレーにして欲しい。
最高指導者のダライラマご自身が非暴力を訴えているのだから、チベット擁護派は抗議はしても力の行使はせんでほしいものだ。
日本では今回の犠牲者に対して、つまりチベット、中国、両国犠牲者に対し慰霊法要が営まれたと聞いた。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200804/2008041000659&rel=j&g=pol違うぜ日本。にくいぜ日本。グっグググーなのである。
「国の威信」つまり面子を通す為に、なんでもありのこのリレーの姿には、さまざまな論が飛び交っている。ぼく自身は、辟易しながらも注目している。
政治とスポーツは切り離すべきといい、オリンピックが政治や経済と結びつかなかったためしなど、一度もなかったともいう。
極論を言えば、バトンに何の意味があるの?とも思う。
平和と言うことが前提にオリンピックが開催されるとばかり思っていたら大きな過ちであったことに今回、気付かされもした。
この大会の経過をみると、
ウイグル問題もチベット問題も、抑圧と粛清の問題を内在するこの国がオリンピックと言う火種を素手でつかんでしまったと思えてならないのである。
正真正銘、平和を希求する国に生まれかえさせざるをえない状況に追い込む天の働きなのではないかと、感じられてくるようになった。
国としては世界に国力を内外に、特に国内向けにアピールするに利用せんがためのオリンピックだったのだろう。
けれど、内在する国内問題を孕んだまま行うことは、自爆行為だったのではないか。自ら地雷を飲み込んだ蛇のようであったのだ。
それが証拠に意図する方向とは全く逆に動き出してしまった。
当事者自身が計算違いに驚いているではないだろうか。
「国の威信」とたびたび聞くのだが、要するに面子をつぶされたくない。といいたい訳だろう。
面子ってなんだ・・・
戦前のベルリン大会のことギリシャからベルリンまでの聖火リレーの道が、そのまま聖火とは逆の順路でナチスドイツによって侵略されていったと聞く。
この北京大会で聖火の通る順路に後世、平和の花を咲かせる道になっていくのではないだろうか。平和を希求する声が最大限花開くようになるのではと勝手に希望しているのである。