仏道
何人の人がお坊さんになったかな。
「数年後にはお坊さんですね」
お客様や、友人と冗談ともいえぬお話をしていて
数年度には、事実となった方が数えてみると・・・
両方の手では収まらない。
もちろんぼくがそうしたわけではない。
そんな本質を求めている方にたまたまご縁があっただけなのだろうが
気持ちとしては、度重なってくると内心穏やかでなくなるところもある。
なぜならぼく自身がそのチャンスを何度も棒に振ってきたからだ。
簡単なように見える在家得度にしても、その時がある。
一度棒に振ると、なんだかどういうわけかすべることが多くなる。
やはり縁なのだと思う。
どこかで変わらないといけないな。
そう思いながらも仕事に流されている。
考えると僕にとっては念珠創りが
仏道を極めることなのかもしれない。
頑張らねば。
今日の浅草のそら
地の意図、天の意図
日本ならではの聖火リレーにして欲しい。
最高指導者のダライラマご自身が非暴力を訴えているのだから、チベット擁護派は抗議はしても力の行使はせんでほしいものだ。
日本では今回の犠牲者に対して、つまりチベット、中国、両国犠牲者に対し慰霊法要が営まれたと聞いた。
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200804/2008041000659&rel=j&g=pol違うぜ日本。にくいぜ日本。グっグググーなのである。
「国の威信」つまり面子を通す為に、なんでもありのこのリレーの姿には、さまざまな論が飛び交っている。ぼく自身は、辟易しながらも注目している。
政治とスポーツは切り離すべきといい、オリンピックが政治や経済と結びつかなかったためしなど、一度もなかったともいう。
極論を言えば、バトンに何の意味があるの?とも思う。
平和と言うことが前提にオリンピックが開催されるとばかり思っていたら大きな過ちであったことに今回、気付かされもした。
この大会の経過をみると、
ウイグル問題もチベット問題も、抑圧と粛清の問題を内在するこの国がオリンピックと言う火種を素手でつかんでしまったと思えてならないのである。
正真正銘、平和を希求する国に生まれかえさせざるをえない状況に追い込む天の働きなのではないかと、感じられてくるようになった。
国としては世界に国力を内外に、特に国内向けにアピールするに利用せんがためのオリンピックだったのだろう。
けれど、内在する国内問題を孕んだまま行うことは、自爆行為だったのではないか。自ら地雷を飲み込んだ蛇のようであったのだ。
それが証拠に意図する方向とは全く逆に動き出してしまった。
当事者自身が計算違いに驚いているではないだろうか。
「国の威信」とたびたび聞くのだが、要するに面子をつぶされたくない。といいたい訳だろう。
面子ってなんだ・・・
戦前のベルリン大会のことギリシャからベルリンまでの聖火リレーの道が、そのまま聖火とは逆の順路でナチスドイツによって侵略されていったと聞く。
この北京大会で聖火の通る順路に後世、平和の花を咲かせる道になっていくのではないだろうか。平和を希求する声が最大限花開くようになるのではと勝手に希望しているのである。
SV心経彫バングル ゲルマニウム入
以前からの人気商品シルバーの心経彫りバングル。
通常はトルマリンを配置しているのだが、
ゲルマニウムを裏側に5石配置する。
隠れた逸品である。
23100円
決して高い設定ではないと思う。
惚れ惚れ
近くに専門店があるというのはなかなか心強い。
あ!スポーツ自転車のネ。東京はこういう点が恵まれている。
聞き及ぶ名店が至近距離に幾つもある。
熊本で初乗りした30年ぶりのレストア車はあちこち支障が見つかったので、
巡礼までに直しておかなくちゃ。
という訳で、
行く機会を狙っていたが、考えるまでもなく仕事の延長でその途中にあるのだ。
なにしろ近所の利点だ。
ただ、若い頃のように 入り浸りにはならない。
要件だけでお願いしてとんぼ返りとなる。
たまにはじっくり見ていたいけど・・・。
まあ無理でしょう。
で、また買い物。
カンパニョロのクランクとチェーンリング。
好きな人じゃなきゃなんじゃこりゃですね。
すっかりオールドパーツなのだが、このRと伸びやかなライン!
最近のパーツにはない人の手が感じさせられる。
惚れ惚れしてくる。
今日の浅草のそら
縁
目黒の若旦那の来店で小一時間話し込む。
この方とは実に稀有な縁を感じるところ。
支障があるのでこまかな説明はできないのだが
様々な部分で共通するところがあって話が弾みつい引き止めてしまう。
お客様との縁ってとても不思議だ。
常々思う。
「友達の友達は友達だ・・・♪」
なんて歌が昔あった。
若い人には全く関知しない曲だろうけれど、
「人はひとりぽっちじゃないよ」という内容の歌なのだ。
自分は孤独のように見えても、どれだけの人と繋がっているか
友人がいるか気が付かないだけなんだ。
ということなのだ。
今世にあっては、初めて会うような顔をしているのだけれど
何処でか知り合いであったのではないだろうか。
どこかで繋がっているのではないだろうかと感じて止まない。
縦位置の孤独。
社会の中ではつい横の人間関係ばかりを見てしまう。
それだけだとくもの巣のようにネットが張り巡らされているのみで
どこかふわふわした感じである。
忘れてならないもう一つの糸がある。縦の糸だ。
時系列の中での人間関係。
過去には父母がいる、祖父母、曽祖父母、・・・がいる。
そして子供、孫、曾孫・・・
それも人間関係だ。
しかもしっかりDNAで未来に受け渡しすらする。
縦と横の人間関係の中心点に自分が位置している。
それらがすべて関わり続けているのだ。
時々考えてしまう・・・
いや、
頭で「考える」と言うより肌で「感じる」と言うほうが正しい。
ややもすると縦の糸は忘れやすいのだが
しっかり、ネットを張っていて関わりあっているのだ。
おろそかにできなくなる。
さて、
今日は誰と逢えるだろうか。
反面教師
Tさんから久々にメールが来た。
「秩父に行くんですね。頑張って。でも無理しないように」
と。
彼は、四国を始めあちこち先に回っているから、大先輩である。
このブログを読み心配して連絡してくれたのだろう。
心から感謝した。
それなりに正月から足を鍛えてきたつもりなのだ。
腰が悪いので体を折り曲げる運動はしたいけれど無理できない。
大丈夫かなと思いながらも自転車で回ることは諦めていない。
30年眠らせていた愛車をコツコツ手直しして、
最近ようやく走れる状態まで復活させた。
初乗りが上さんの故郷でとなった。
三十数年ぶりに、レーサータイツをはいてジャケットを着てグローブをはめて
レーサーシューズは・・・間に合わなかったけど・・・
とにかく久しぶりの感触なのである。
純農村地帯の田んぼの合間をロードレーサーを駆って走った。
始めこそこんな苦しい姿勢だったっけ?と戸惑いもあったのだけれど
暫く走れば、体に染み付いた感覚は、忘れようがない。
おかげで東京に帰ってからも、足も腰もすこぶる調子がいいのだ。
ちょっとそこまで出かけるにも、つい走ってしまう。
ママチャリで出かけようものなら、ギヤが軽すぎて足が回りすぎてしまう。
気づくとベルトの穴がひとつ縮んだ。
ひょいひょいってなもんである。
ただ、
ただ・・・、
記念に撮ってもらった愛車とのツーショット写真は、
とてもとてもこの世のものとは思えない腹の醜さを露呈した格好となって
ナイーブな僕の心を突き刺した。
まあいいや。
「油断するとこうなるぞ」と反面教師としよう。
今日の浅草のそら