昨日はお盆の入り。
と聞いてもピンと来ない諸氏も多いのではと思う。
社会生活上、7月盆はなんら生活に変化があるわけではないし(棚経のお坊さんは別として)、影響が見えにくいといえる。
実際は、盆踊りもあるし、花火大会もあるし、一連して精霊を慰める為のお盆行事のはずなのだけれど、「玉屋~~」といいながら、「○○さん浮ばれてね」と祈る姿はみないし、「踊り踊るなあ~ら♪」と踊りながら、「お墓のご先祖様また来年ね」とこれまた祈る姿は皆無だろう。
実際ぼくも仏壇屋の仕事を生業としているから頭にあるようなもので、
正直な所は月遅れの8月盆に軍配を上げたくなる。
せみ時雨と西瓜と蚊取り線香の匂い。
あきれるほど照りつける夏の太陽と青空。
今の若い人たちにどこまでそのイメージが通るかわからない。
故郷に向かって民族大移動が始まる時期。
都会が故郷のものには、カラッとした青空が帰ってくる日。
そんな姿が、お盆の姿かな。
店にいるとよく聞かれる。
お盆はいつ迎え日と送り火をするの?
何でお盆には7月と8月があるの?
という質問だ。
前者は簡単、13日の夕に早くにお迎えして、
16日の夕にもう帰っちゃうの?と別れを惜しみながら送る。
亡き人がありありと生活の中にいる。
考えると霊がいるいないとしちめんどくさい事をいう人でも、
現に霊を迎える行事なのだから何とも不思議な気もする。
後者は、ちとめんどくさい。
調べてみると、明治5年11月9日「改暦断行」という手法が明治新政府によって執行された。
これがそもそも混乱の元のようだ。
改暦ということは、関係のない日にちが突如として元旦に替わるということだ。
制度を変える時には、数年の準備期間を設けて、これでもかというほど注意深く変更するものだ。ましてや生活の根幹に関わる暦の問題である。
どんなに準備したとしても混乱しないはずがない。
改暦断行の年は明治5年12月3日を明治6年元旦とした。
しかも発表からたった一ヶ月弱での施行。
これはいかに無謀だったか
出す側の新政府側にも、受ける国民の側にも混乱を招いたか想像に難くない。
農耕民族には農閑期を迎える旧暦のお盆が丁度良い期間である。
まだ、梅雨も明けず農家には繁忙期の時期に悠長なことはしていられるはずもない。
急な決定であり、暴動すら起きたという。
急いだ理由に明治6年が閏年で一年が13ヶ月のある年ゆえ、
財政難の明治新政府としては一ヶ月給与を払わなくて済むことは万々歳だったのだろう。
とにもかくにも、明治新政府のお膝元東京市は、そのあおりで新暦のお盆に移行せざるを得なかったということなのだ。
それが今も習慣化し混乱の元をひきずっている。
農耕民族の血は今でも8月盆を求めているのかな・・・