山川草木 悉皆成仏

親しくさせていただいている方から、
暑中見舞いのおはがきをいただいた。

筆書きで、伝教大師を中央に描き、

「山川草木 悉皆成仏」と大きく現していた。

庭師として天台宗の寺院にご縁が多い方だから描いてくださったのかなと思う反面、
日頃、草花、木々を、土を岩と語りながら、自然と
そこに潜む仏性に触れているうちに染入るように理解したのかな。と思えてならなかった。

机上であーだ、こーだと説法をするものより、
空念仏を伝えるものより、よほど胸を打つ言葉だった。

ずっと以前はじめて「山家学生式」に触れたとき知らずうちに胸を詰まらせたあの気持ちが思い出された。

国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

道心は常に持ち合わせているだろうか。。。

お直し

昔はよくあったみたい。
手挽きの珊瑚。いかんせん手に入らない。
大切にしてほしい。

夏休み

昼近くに用事で自宅に戻ると同じマンションの子供たちが、
プールの支度をしてはしゃいでいた。

「あれ?学校はどうしたの」と聞くと、
「きょうで学校終わりだもん」と答える。

あ!そうか。

公立の中学に通う息子が、今日は終業式で明日からいよいよ夏休みと言っていたっけ。

思い出した。

「じゃあ通信簿もらったね。よかったかい」
「うん」とうなずきながら舌を出して照れ笑いをしていた。

うちの愚息はどうだろう・・・
と思いながらも、同時に子供時代の我が身の所業を振り返ってしまう。

夏休みが近づくと、ジージーやらミーンミーンやらの蝉の声が、
「プールだよー」「海だよー」「遊ぼうよう」と聞こえてきてしまう。
本当に聞こえちゃうのだ。
家の中でじっと机にかじりつくなんて到底考えられなかった。

出された宿題の山は、初めの意気込みも何処へやら、
夏休みも1週間もすれば、記憶からはすっかり消えていた。

始業式数日前から突貫工事となるのは必至だった。

けれどよく考えてみると、毎日宿題をするわけでもないし、
いったい何をしていたんだろう???
思い出せない。

よく40日以上の休みを毎年毎年、無事消化したものだ。
あきれるほどに思う。

目まぐるしく対象を変えつつ、好奇心いっぱいに遊んでいたのだろうと想像するのだが・・・

沈香18玉

久々に大玉でまあまあと思える沈香の玉で完成。

実は製作中につい力が入って、ボサを割ってしまい
作れずにしょげていた思い入れの念珠。

割れたボサは、お香としてくゆらせました。
沈香も白檀も、念珠としてもよし、香として使ってもよしだ。
でもいい香木は玉にしてとっておくことを選びたくなる。

縁は異なもの

僕の店をご存知の方には、ご理解いただけると思うのだが、
店の前面の道路は、浅草にしては珍しく、何の変哲もない黒い舗装の道案内すらない、通り会もない、ごくごく普通の生活道になっている。

地下から地上に出ると方向御地になりやすい。
他の人はわからないが、僕は土地不案内の駅で地下鉄から地上に出るといつも迷子になる。

だからこの通りの商店は道を尋ねられる機会が甚だしく多い。

訪ねられるのも縁のうちと思える者にあたればよいが、そう思えないものもいる。
理不尽な答えをする不届き者もいるみたいで、観光客は浅草の第一印象を損ねて帰ることになる。浅草を好きな自分としてはたまったものではない。

とにかく都営地下鉄を利用して、横浜や千葉方面から地上に出てくると、まずこの通りに出ることになる。

じつは、この通りには思い出がある。
思い出といっても姉が体験した間接的な思い出なのだが。

僕が20才のとき二つ年上の姉は職場結婚をした。
もうできないからと結婚前に最後の家族旅行をすることになった。

僕は照れもあって、なんとかかんとか理由をこじつけて辞退した。
二人で行っておいでと見送る側に回った。

数日後、姉と母二人は日光に出かけた。
方向音痴の二人で大丈夫だろうかと不安を残しながらも。

当時住んでいた横浜から日光に行こうとすれば、
京浜急行を使い相互乗り入れしている都営地下鉄の浅草駅で一旦地上に出て、
松屋デパートのある東武電車の始発駅に乗り換えるのが定石だった。

母は青春時代(戦中)仙台から川崎の軍需工場に動員されていた。
仕事の合間になると、仲間と浅草には遊びに来ることが多かったらしい。
そんな思い出の土地ゆえ、多少の土地勘に自信をもっていたのだろう。

けれどその自信はみごとに砕かれる形となった。

日光から帰ってきた母娘の土産話は、親子喧嘩の話しからはじまった。

都営地下鉄の浅草駅で地上に上がってから、全く方向がわからなくなったのだ。

大きい通りに出れば、すぐに乗り換え駅が見えたはずなのに、
小道である側に出てしまった。

つまり将来、僕の店ができるの側の道だ。

人に道を聞いてもさっぱり要領を得ず、ぐるぐる歩き回っている間に指定をとっていた特急列車は無情にも発車してしまった。

まさか、その十何年後に弟が親子喧嘩の舞台になったその「通り」に
店を出そうとは夢にだに思わなかっただろう。

僕とて、この路上で母娘して血相を変えて走り回っていたかと思うと
旅に付き添わなかった済まなさと、可笑しさが入り混じる。
そして同時に、縁の不可思議さを感じてならない。