念の珠

インパールの話が急に浮上した。

「インパール死の行軍」として耳にした人は多いと思う。
かの大戦末期の昭和19年3月から6月まで、中国軍への物資の補給ルートである、俗に援蒋ルートの遮断を戦略目的として、インド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことだ。

今月初め靖国神社に行った折、遊就館に寄ってインパール作戦の展示を目に焼き付けてきたばかり。タイムリーと言えばタイムリー。縁と言えば縁なのかも知れない。

しばらく前に創らせていただいた天竺菩提樹にビルマ翡翠をちりばめた念珠がオーバーホールのために持っていらしてくれた。

と同時に、いくつか直しの念珠をお持ちになった。
祖母や母親の遺品だという思い出の品を直したいということで伺っているうちに、先の天竺菩提樹の念珠の話に話がおよんだ。

製作依頼には、とにかく最高の「ビルマ翡翠」にして下さい。
が条件で、持ちえるルートで現状手に入る一番優れた玉を捜した。
聞く訳でもなく聴いて、話すわけでもなく話させられる恰好でインパールの話となったのだった。

叔父さんがインパールで戦死されたのだ。
見るに見かね埋葬した部下二人は運良く生き残った。
地獄の行進の中、埋葬する行為に及ぶことは、
いかに慕われていた上官だったのだろうことは察する。

近年80歳を越えた元部下が遺骨を収集せんとビルマに出かけるも
軍政で混乱しているこの国は、危険地帯という理由でそれを認めなかった。
彼ら二人しかその地はわからない。今行かなければ解らなくなる。
という思いはいかばかりか。

縁で彼の軍刀が数十年ぶりに両親の手元に戻る奇遇を得た。
しかし、遺族の感情は、複雑だったのだという。

そんな生の声を聞く機会になろうとは夢にだに思わなかったが、
ビルマ翡翠に思いを寄せていた理由がようやく理解できた。

まさに念珠とは「念の珠」なのだと知らされた。

空ばかり見る機会が増えた。
雷門の前ではそれこそ毎日。

おかげで、目線は地上よりいつも上を向くようになった。
下を見ないから躓くことも多くなった。
目線が上だから、ごちゃごちゃした町並みで仕切られた狭い空間より
開かれた空にいつも気が大きくなってくる。
それにしても都会では空が狭いな。

どうせ毎日見る空なら
こんなことに利用できないものかなと思ってしまう。

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めぐりめぐって

商店会がたちあがった。
念珠堂の店前の路地は長いこと文字通り路地だった。
日が落ちると顕著に路地になる。

店にいらしたことのある方は「あ!そうだね」と思われるかもしれないが、

地上に出るためには、地下鉄のホームから300段近い(5階建て以上の高低差)長~~い階段を息せき切って登って来なければならない。
住み慣れた目にはもう、その感覚はもなくなってしまったが、
初めてここに足を踏み入れた観光客の目に、この地上の風景は、
どんな印象として映るだろう・・・

浅草に来てまず目に飛び込む風景が、どこかの路地に迷ってしまったの?
かのような印象になりはしないだろうかとさえ思う。

30数年前、
姉の結婚を控えて、最後の家族旅行をと日光行きを家族で企画した。

多感期の僕には、ついて行く勇気が起きず、母と二人で行くことを薦めた。
今思えばかわいそうなことをしたなと後悔しているが・・・

当時住んでいた横浜から日光に行く常套手段は、
京浜急行で浅草まで来て東武電車に乗り換えるのが通常であった。

若かりし頃、浅草を闊歩した母にはちょっと土地勘に自信があったわけで、
エスコート役をかってでた。
が、小さな誤差があった。
戦時中の記憶など見事に粉砕されたかたちとなった。

地下鉄から東武への乗り換えのために出た口が正にこの念珠堂前の路地通りであった。

右へ行ったらいいのか左なのか、エイと左へ行ってしまった(正反対だって・・・)。
行けども行けども、東武浅草駅はない。そのうち駒形橋に出た。

そうこうしているうちに、予約していた特急けごんは無情にも発車してしまった。
楽しいはずの車中の光景が、遠慮のない母娘の気まずい空気になったであろうことは想像できる。

旅の土産は、そんな話題から始まった。

その当の現場に今、店を出しているのだ。

何の縁でここにいるのだと思うが・・・
30数年前の怨念を解くときが来たような気がする。

自転車のある風景

つい興味がそそられる。
ちょっと洒落たレストランもあるのだ。

持ち主は住み抱くに住む青年二人。

ここは、隅田川に一番近い裏道・・・いやいやウォーターサイドロード。

まだまだ未開発の感がぬぐえないがこれから楽しくなりそうだ。

外人向けの旅館もある。