小学校6年の夏休み。
休みを前にするワクワク感は、その年僕には憂鬱だった。
夏休みの計画に興じる友人たちの輪に入ることができなかった。
家の事情で夜逃げ同然で引っ越すことになったからだ。
横浜でも東横線沿いの斉藤分という下町から、京浜急行添いの商業地域の井土ヶ谷の下町に引っ越した。
同じ「下町」でも大学と農家をバックボーンにした下町と、ドヤ街のような忙しない商業地域の下町とでは人心にもたらす影響はすこぶるあるように子供心にも感じた。
親に押し切られる形で転校してみた学校はすでに修学旅行も終わり、すでに卒業ムードにあった。ちなみに転校前の学校では就学旅行は秋だった。日光には後々まで縁がなくなった。
とにかく行けないとわかるとますますしょげた。
半年だけの母校には、どうも馴染めなかった。
友人はすぐにできはしたが、借りてきた猫状態は抜け出せないままだった。
観音霊場で有名な弘明寺は自宅から子供の足でも30分圏内にあった。
数少ない友人が弘明寺にいたこともあってよく遠征した。
何をして遊んだのか全く記憶にないのだが、川沿いの古い映画館を覗いてみたり、弘明寺の境内を散策したり、まだそこらじゅうにあった防空壕に秘密基地を造ろうとしたりと結構子供心には刺激が多かった。
ある日曜の朝、友人の自転車に二人乗りをして上大岡まで出かけた(当時は上大岡も恐ろしく田舎だった)途中、鎌倉街道と旧道の分岐点あたりで小さな古物商を発見した。
「今度来てみよう」そう思わせたのは、古銭マニアだった僕の目には古物商と見ればキラキラ光る宝石箱に感じたのだ。
日を改めて、その宝石箱に1人で出かけた。
「銀鱗堂」トタンにペンキ書きされた看板を見た。
半間程度の窮屈な店舗に入りきらない品物が歩道に溢れていた。
その一つ一つが僕には宝物に見えた。
建付けの悪い戸を開き店内に入ると、独特のかび臭さ。
薄暗い店内に、初代水戸黄門役の東野英二郎そっくりさんの店主がぎょろりと目を光らせた。
小学生が古物商に訪ねる用などない。と、言わんばかりにその目は語っていた。
胡散臭そうな空気に気まずさを感じながらも、
「古銭は置いてないのですか?」と勇気を奮い立たせて尋ねた。
案の定返ってきた答えは
「ここは子供の来る所じゃない」と一蹴。
背中を押されて店外に出されてしまった。
(くそおやじ!)
声に出す勇気もなく、しょぼしょぼ来た道を戻った。
次の日も同じように「銀鱗堂」に懲りもせず出かけた。
同じように追い返された。
何で懲りなかったのだろうか。今考えると思い出せない。
とにかく古銭さえ見ていると楽しかったのだと思う。
楽しいことは、多少の無理解にもめげなかったのだろう。
そして次の日も出かけた。
その日は外に展示してあった江戸時代の古銭額に目が留まった。
その説明書きをせめてメモしておこうと書き写していると、
「熱心だね」背後から声がした。
水戸黄門が忍び寄っていた。目には笑みがこぼれていた。
「そんなに好きなのかい?」
素直に「はい」と答えた。
「お茶でも飲んでいきなさい」と店内にようやく招かれた。
所狭しと無造作に置かれた古物の溢れる店内。
奥まった場所に水戸黄門の定席と丸椅子一つが客用として用意されていた。
茶しぶのこびり付いた古物商らしい湯のみに茶を注いで、どうぞとすすめてくれた。
小学生がこんな所に何しているのかと聞くので、好きなんですと答えたのを皮切りに、僕の生い立ちを聞かれ、母子家庭ということに深く同情し、僕はすっかり打ち解けてしまった。
古銭の話は、日々舐めるように見ていたコレクター本の知識をここぞと得意に話した。
同情されたり、同趣味に興じる仲間としての自慢話。何とも言えないひと時にすっかり居心地のよさを感じてしまった。
気付くと外は真っ暗になっていた。
改めて数えると、たかだか1年にも満たない僅かなお付き合いだったのだけれど、不慣れな環境で抱えるストレスはここで解かれ、癒されていたと思える。なんとも懐かしい場所なのである。
跡形もなくなった今でも、当時の光景をふと思い出す。
白髪の老人と小学生の自分が同じ趣味談義に興じる姿を。