仏像盗難に思う

仏像の盗難が相次いでいる。
そしてついに御用となった。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/090303/crm0903030140001-n1.htm

テレビを見ていても盗んだ言い訳に「信仰心がさせた」
という言葉に機敏に反応した。
自らの欲望を満たすための我心と利他心の信仰心を作為的に使ったのか・・・
面白いこという人だと思った。

と同時に
天台宗開祖の最澄が説いた「山家学生式」の一説が頭をよぎった。

国宝とは何物ぞ

宝とは道心(どうしん)なり

道心ある人を
名づけて国宝と為す

故に古人(こじん)の言わく
径寸十枚(けいすんじゅうまい)
是(こ)れ国宝に非(あら)ず

一隅を照らす

此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと

国の宝とは何かと問い、最澄は人の心であると言及しているのである。
ではどういう心を人には必要とするのか・・・

さらに読み進むと

悪事を己に向かえ

好事を他に与え

己を忘れて他を利するは

慈悲の極みなり

と結んでいる。
「忘己利他」の心は慈悲心から湧きいづるのである。
つまり慈悲心を持つものが国宝なのだと最澄は痛快までに説いている。

決して人々の安寧を祈るために仏像が必要なのでも
ましてや多くの祈りの心の沁みこんだ対象を掠め取ることが信仰心なのではないのである。

言い訳の片隅にも使って欲しくないことばであった、