木は大きくなりたがっている

真夏に吾妻橋際で信号待ちするとききっとこの木のお世話になっている諸兄は多いことだろう。

最近目にした大木の倒壊事故が、僕の関心事として、大木を見るとその根っこに目を向かわせるきっかけとなった。

ここも、アスファルトを押し上げて、さらに上へと伸びたがっている気がしてならない。

ど根性大根がことさらテレビに映るのなら、都会のど根性大木たちも、もっともっと取り沙汰されてもいいのじゃないのかな。

夏の日差しから守るため日陰をつくってくれて、
急な雨にも雨だれ除けになってけれて、
青葉は目に潤いを与えてくれて、
枯れ葉は決断の潔さを教えてくれて、
幹の太さは命の重さを教えてくれて、
天にも昇る広い枝ぶりは命の大きさを気づかしてくれて、
巨大な根っこは強くたくましく生きることを教えてくれるんだもの。

難波淳朗氏の墨絵

いつも座って作業をしている正面の壁から仏画が一枚お出かけした。

故難波淳朗氏の手による弥勒菩薩の像である。

写経で長年お世話になっている佛心寺の永井住職による三人展の客分として出かけることになった。

http://norikyu.com/bussinji/

「三人展」
日時:平成21年6月14日(日)  開場:12時~17時
会場:井之頭画廊 (入場無料・竹工芸及び墨跡は展示即売有り)
仏画-難波淳郎 竹工芸-田中昌斎 墨跡-永井一灯

難波氏はすでに故人となられてしまっているから、この展覧会が最期となるかもしれないと永井師はおっしゃっておられた。

逝かれるのがあまりにも早かった。
これからと言う時に難波氏の訃報を耳にした十数年前、「膝が落ちる」と言う表現が本当にあることを体で知った。

二年間のお付き合いだった。
店のカレンダーを製作するために氏の墨絵を頂戴した。
立て替える前のアトリエにも何度か訪ねた。
命を削り筆を走らすということもアトリエにて知ることができた。

もともと油彩を本業として抽象画を描いていた氏の生き様を知って感動した。
「ペトロ難波淳朗」たしかクリスチャンだった彼の仏教への心は
雷門の店をオープンした時も片肺のない体を押しながら、
テープカットと祝辞をいただいた。
そう・・・

その時は「難波淳朗個展」を企画したんだった。
仏壇のぶの字もない広々とした念珠堂画廊。

昨日のことのようだ。

「またいい仕事をしようね」
それが氏の最期の言葉になろうとは。

三度目の企画は宙に浮いたままとなった。

だから、この永井師の企画展が見納めになるのかもしれない。

墨絵のはずされた壁はしらじらとしていてどこか寂しい。

額装もいい

先日預かった写経。
額装にということで急きょ製作させてもらった。

急ぎ仕事にもかかわらずしっかり仕立てられていた。


軸回しもいいでしょ。

朝の光景


今の若い人はあまり見たことないだろうなあ。

最近の車は随分良くなった。

ぼくら子供の頃のは、ホースのジョイント部や使い過ぎのホース本体によく傷があって、小さな穴があいていたものだ。
作業のおじさんがバキュームして加圧するたびに、ホースから黄金の水が噴出していた。
それをよけながら学校に通ったものだ。

吹きかけられたことは幸いにもなかったが、車が去ったその後には・・・ご想像通りの光景が見られた。黄金の湖。

さて、この吸い取られたブツはどこに行くのだろう。

調べてみると、屎尿処理施設に持ち込まれ、無害化されて川に放流されるとなっている。

石川英輔の大江戸事情などを読むと、江戸時代までは(大正中期まではそうだったらしいが)貴重な資源として買い取り業者がいて貴重な売買の対象になっていたというのだから驚きである。
完全にリサイクルのシステムができていたのである。

大正時代、硫安など化学肥料の台頭で屎尿サイクルの輪は急速に崩れたと言う。

でも、これほどの人口を抱える大都会。食べれば間違いなく排出される黄金色を文字通り黄金にできないものなのだろうか。
いつまで、捨てるしかないという発想を持ち続けなければならないのだろうか。

臭いすら処理されている無臭のバキュームカーを前にふと思った。

倒れてました・・・

私めではありません・・・

靖国神社のけやき?かな。
樹齢150年と言うところ。

遊就館から駅に向かって歩いていると、神社の外柵間際に立っていた
どでかい木が切り倒されて枝を伐採されてあわれな姿をさらしていました。
見るとしっかりしていてまだまだ切り倒すのには惜しい大木。
神社でこんな神木のような大木を切り倒すのかいな?と不思議に思い職人に尋ねてみました。

「倒れちゃったんだよ」

数日前の強風で根こそぎ倒れたんだというのです。

根っこを見ると、道路側に向かって伸びていなければならない根が全くない。
神社の参道側にはしっかり伸びているようなのだけれど、反対側には数十センチ程度しか伸びていない。となれば、片方の風には強くても反対側から吹かれたらひとたまりもない。
民家側に倒れたら・・・

神社を取り巻く道路との堺にある塀にはりつくように植えられている木々は根が伸びれなかったのだろう。

都会の木々は可愛そうに。と思うと同時に、街路樹はみなこんな感じで生きているのかな。
空恐ろしさも感じた次第。

本殿近くの桜の木のねっこに感動してこんな写真を撮って

「花の咲かない寒い日は
下へ下へと
根を伸ばせ」とブログにアップしたばかりなのだった。

まさか数十歩先に根を広げられずに倒れし大木があろうとは
夢にだに思わなかった・・・