「よこづなちょう公番?」
震災記念館(被服廠跡)のある清澄通りと蔵前橋通りとの交差点にさしかかり聞かれた。
思わず吹いた。
「よこあみちょう」だよ。
綱と網。よく似ているし、
此処はそれ、相撲のメッカ両国の目の前だし。
しかたないと言えばしかたない・・・。
ここは、ぼくが東京に移り住んで間もないとき、いの一番に足を向けた記念館。
あの当時を思い出すと比較にならないほどの変わりようだ。
はとの糞にまみれ汚れた建物や境内。薄暗い堂内。
あえて境内と呼ぶがここは公園であって境内ではない。
寺のように見えるが寺ではない。
あくまで公園なのだ。
公園でなければ政教分離の立場から、都は維持費を出すことはできない。
花一つ買うことはできない。
半ばボランティアで管理していたSさんに以前、さんざんこぼされた。
植木職人だった彼は、あまりにもむごく悲しい堂内に置き去りにされていた彼ら彼女らに手を出さずに入られなかった。朝には全ての瓶の蓋を開け「おはようと」言って回り、帰りには蓋を閉め、「おやすみ」と戸を挨拶をして帰る。
そんな彼の誠実が堂宇を明るくさせていったと僕は思う。
ただ、いくら境内が明るくなったとはいえ、
ここに数十万人の引き取り手のない、無縁仏となった遺骨が頑として保管されているのを忘れてはならない。
一度その光景を・・・
天井にまで及ぶ書棚のような棚割の中に白い特大の瓶が整然と並ぶ収納庫を見れば、忘れることができようか。
瓶には何処何処の何丁目の何某と名前まで書かれているのも少なくない。
けれど、戦後60年以上、震災80年以上引き取り手もないままここにある。ということは、一家が全滅してしまっていると言うこととも受け取られる。
そんなことが意図せずとも頭を駆け巡りながら、両国に向かった。
江戸東京博物館脇から
五月場所の幟がはためいていた
我が家で行くと軽く6万円かぁ・・・
とても無理・・・
久しぶりの両国橋を渡り、神田川の河口に架かる柳橋を経由し店に帰り着いた。