18kの五鈷杵

シルバーの五鈷杵は以前よりあるが、18kをと言うことで特注させていただいた。

細かなディティールもしっかり出ていたので、ちょっとひと安心。


シルバーとの比較です

こういう時代です

この店を始めて四半世紀。
参拝や観光でこられる人も本当に変化した。

僕が対応し一番初めに来店された外人さんは、ポーランドの雲水さん。

東西冷戦時代の東側に立つ国から禅を求めて命がけで渡航してこられた青年だった。
言葉もわからないのにすっかり意気投合して、あれこれお世話させていただいた。
感動的な出逢いだった。

バブルが去ったあたりでは、欧米か香港辺りからの渡航客が多かった。

今はと言うと、浅草の町ではすこぶる多くの言語が飛び交っている。

欧米や韓国、台湾はもとより中国と言っても広東語もあれば北京語もありタイ、ベトナムの言葉も。ほんに

そんな中だから、多言語に対応するのは、もうボディーランゲージに頼るほかはない。

中国語での商品説明。
読んでみて下さいませ・・・

三社祭の反芻

お祭りが終って4日も経つのに、今年は何となく余韻が抜けない。

去年は、梅后流かっぽれのお師匠に最大援助をいただいての百人踊りや、江戸源流の葛西囃子保存会のお囃子の屋台、そして商店会のくじ引きなど初めてのことばかりの連続で頭がどうかなるほど忙しかった。

けれど、祭りが終わればとたんに、非日常から日常にすかっと切り替わってしまえた。

今年はどうかというと、股木(またぎ)提灯を立ち上げ、商店会員であり友人の「皇の会」(すめらぎのかい)への協賛で、雷門前のお囃子の屋台に協力させてもらったのみで、忙しかったのは友人だけで、TONちゃんは去年比べたら月とすっぽんのお気らくもんだった・・・

そのせいと言うべきなのか、どことなく僕の中ではいまだに祭りが続いてしまっている。

歴史と伝統のある町だけに、新しい潮流を起こそうとすることに対して、並大抵のエネルギーではできなかった。それだけは言えることなのだ。

お囃子はいらないと言うところで、祭りにお囃子がなければ寂しいと思う気持ち、祭りに来られるお客様方に奉りらしさを伝えたい、を形にさせてもらった。

でも蓋を開けてみると、予想以上の喜びの声が耳に届いた。

ありがたかった。

神輿を担ぎにここに来た人たち、見物の人々、道を埋め尽くす人々から
「浅草らしい雰囲気に堪能した」
「さすが浅草のお囃子はよかった」
「また聴きにきたい」
「お神輿も良かったけど雷門前のお囃子はすばらしかったよ」
「うちの祭りにも来て欲しい…」 etc. エトセ 
の、声があまりに多く寄せられたことだった。

本番前日、全ての準備が整いかけた夕刻、あとは明日だね。という直前になって、お囃子の屋台の手直しを指摘され、当日の朝まで徹夜して直すということもあったりと黒この部分では必死にぼがいていた。

上げたらきりがないほどのことがあったけれど、お客様の喜びの声をいやというほど聞かせてもらったら、全ての苦労がいっぺんに吹き飛んだ。

また来年もお囃子で賑やかしたいものだと思っている。


無形文化財に指定されてもおかしくない方々なのだ

屋台からの眺めはこんな感じになる

なかとも君

友人の作によります。

「小僧さん」で通っていた小僧さん。
小僧さんじゃ寂しいよね。

というわけで、大川から掬い上げた観音様を初めて自宅に祀った土師中知にちなんで、「なかともくん」と名づけてくれました。

とにかく、ご来店のお客様に限らず、通りすがりの皆様にも頗るかわいがっていただけるので、頭、お鼻、お肩、足、お腹、腰、おめめ・・・とぴっかぴかになってしまったのです。

よく見ると、目が開いてきたみたい・・・

なにごとにも興味アリ

交通委員会の帰り道、

三時を回っていたけれど、外食は好かないTONは近くのコンビニでパンを買い雷門通りを吾妻橋に向かうかたちでお店に帰ろうとすると、雷門前は、雨にもかかわらず黒山のひとだかりだったのであります。

途中に信号はないから、人混み嫌いなTONはこの場合いやでもその中を突っ切らなければならなかったのでありました。

なにやら街頭演説のよう。

ここは、演説のメッカだからね。

と、自民党の垂れ幕。
見上げると、小泉jr.

一度聞いてみたかったこともあり、傍聴者のひとりとなったのであります。
が、いかんせん雨。しかも本降りになってきた。何よりも傘がない。

コンビニの袋を頭にかぶせるわけも行かないし。
目の前を見ると子供が保育園の頃から仲良くしてもらっていたA君のお父さん。
交通整理要員で駆り出されていたのね。

見るに見かねて何人か横に傘を持つ人がいてその中に案内してくれました。

これで濡れずに聴けるかなと安堵もつかのま、
なんと傘と傘の合間に立たされてしまったTONなのであります。

僕の存在を知って知らずか、相合傘になりたくなかったのか・・・

さあどっちの陣地に入ればよいのやら・・・

両方の傘に集まる雨水を谷間でもろに受けて、ますます水浸し。
濡れねずみならぬ濡れTONと相成ったわけです。

結局傍聴どころではなく、その場を急ぎ立ち去ったのでありました。

浅草にちんちん電車

と言っても、都電の延伸ではない。

ちんちん電車。
今どきは、LRTという。

浅草に逢いに初めて足を運んだのが、高校時代。
都電に乗りたくて学校を病欠し、神田からの28系統に乗ったのがそもそもの縁。

もちろん浅草は伝助や芸能の発信地として、物心つくころからの行きたいNO1の場所として幼心に擦りこまれて育った下地はあったにはあった。

が、真面目?な学生がそこまで行動を起こしたのは、鉄(鉄道マニア)の血の芽生えと共に・・・であったわけで、深川や浅草への憧憬は鉄の血によって実現されたということだ。

神田神保町の交差点から柳島福神橋までの車窓は、少年の心に忘れることができないものとなった。おかげでその後の人生の展開に大きく影を・・・いやいや、おもしろく転がっいったのだ。

しかし、昭和47年に旧東京市電は全廃されてしまった。

時は流れ・・・

スカイツリーが川向こうに計画されて、過去にもあった都電の延伸計画とは全くことなる浅草のLRT計画が噂された。

にわかにその噂を聞きつけ、おかしな縁にて参加するとができた。

なんだか不思議な気がする。

それにしても走るといいなあ・・・


こんなかわいい連接車構想


架線を必要としないLRTもある