サイクリストとしての言い訳

ぼくが自転車でさかんに走っていられたのは、24歳まで。
仕事を変わる前のサラリーマン時代。当時24歳が競輪学校の年齢制限だった(と思うが)こともあって、入校を真剣に考えたこともあった。

海外協力隊の研修センターが近くにあったこともあり、そこにも憧れをもちながら迷っていたのだから気の多い奴だったのだ。

ま、とにかく自転車が好きで好きでしょうがなかった。

そんなで自宅のあった横浜から、仕事場の横須賀までほぼ毎日自転車で通い、休みとなれば、クラブ仲間と長距離のツーリングで峠と温泉宿を結ぶ林道を走り回っていた。

ひょんなところから、安定した生活を捨てちゃったから、とても自転車趣味は封印せざるをえなくて、友人に譲った一台を除いて当時所蔵していた、5台の自転車は全て手元から離れていった。

そんな陸に上がった河童の体で四半世紀。

ただ、昭和の終わりに一度だけ、サイクリストの血が騒ぎだし復活の兆しはあるにはあった。

それが、今、唯一手元に残っている片倉シルク(倒産済み)のロードレーサーが縁を持った。

昔、クラブ仲間に貸したままだった(実は記憶違いで売っていたのだが)一台なのだが。

「お嫁に行ったから今はもう乗っていない」と貰った年賀状に書いていた一言に誘発され、使っていないなら返してもらおうと友人の実家のある横須賀まで取りに行った。

久しぶりに対面した愛車は、見るも無残に古びていた。
物置につっこまれメンテナンスもされないままにいたためだろう、フレーム意外のパーツは風化の一途をたどっていた。

ホクホクしながら浅草に戻り、足りない部品を買い集め組みなおした。

当時は体力も充分あったし、足りないパーツも簡単に手に入った。

20世紀中はさほど、自転車業界も進歩はなかったのだろう。

けれど、バブル崩壊の余波の影響はぼくの仕事にまで足音を忍ばせ、激変の形で顕現した。とてもじゃないが、趣味に興る余暇はついに犠牲となった。

そして昨今。
ふとしたことから(子供に自転車競争で負けた意地からなのだが)
50を過ぎてもう一度ゆめをと、愛車に手を入れ始めた。

今度は本格的に組みなおして、長距離を走れるようにしようとした。
が、どうしたことかパーツが揃わない。
時代は変わったのだ。

21世紀に入り自転車業界の環境が激変した。

生産拠点は中国に移り、余りにも安価なスポーツ車が名車を席巻していた。
使い捨てを前提にしたアルミやカーボンフレーム全盛の時代。
素人は手を出せない(出して欲しくない)工場性品製品。
新しい規格への移行。

そんな変化が21世紀に入ったとたんに始まったのだと聞いた。

当たり前のように存在していたはずのハンドメイドメーカーが次々に倒産の憂き目にあっていた。

昔はこの世の春を謳歌していた大手サイクルショップも、「もうだめなんだよ」と自分たちの時代の終わりを告げる主人たちの言にいささか驚きもした。

それだけ海外製品に押されている現状と、丁寧に永く持つ時代から、安く、軽く、速く走れればよい。の感覚が乗る側にも蔓延してきたのだろう。

パーツをコツコツ買い集め、好きなマイ自転車を組み上げ自分で走る。メンテも自分、大事に使う。は古くなったのだろうか。

エコブームはサイクルブームに火をつけた。
果たして、道路事情は良くなったか・・・

全くもって十年一昔どころではなく30年前の環境と何も変わらない。
変わらないどころか、マナーは間違いなく落ちている。

おまけに車も大型高性能化していて、車に乗せられている輩も多いからか、「相身互い」という日本の伝統を教えられない教育からなのか、平気で追い抜き様左折したり、幅寄せをしたりと知らぬとは言わせぬマナー違反を体験且つ目撃する。

実際は、自転車で走り車の流れに乗ってしまえばどうということもないことでもあるのだが、あえて命がけで自転車に乗りたいと思わなくなってしまった。

どうやら歳をとったのかも・・・
とも思ったりもするが、必ずしもそうとばかりとも思えない。

ジョギングをしてみるとよくわかる。
はっきり区分けされた所を走る環境は命の危険を伴わない。
むしろ暴走ママチャリの危険にさらされはしているが・・・

自転車の風になる爽快感は得もいわれぬ良さがある。だから続くのだ。
が・・・
その魅力をもってしても都内の交通事情はいかがなものか、走りたいと思うその芽を摘む。

まだ家族を残して死にたくないし、お世話にもなりたくないとも思う。

まあ無理することもないか・・・

そんな気持ちが朝のジョギングにエネルギーを傾けるのかもしれない。

そのくせ、
新しいのを一台買いたいとお金を貯めているのだから、矛盾を絵に描いたような自分なのである。

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