ずっと以前、ある本の依頼でおこした文章なのだが、たまたまというか、地下鉄のバリアフリー化の風潮を感じてあの文章は何処にいったっけとようやく探しあてた。
古いパソコンにタイムカプセルのごときに保存されていた。
今読み返してみると案外新鮮に感じる。
当を得たり!と思うふしもあり、自分の文ながら可笑しい。
妙に納得してみたりしきりである。
以下にご参考まで。
若い頃、よく富士登山に出かけた。
登山とは名ばかりで駆け上がったり、自転車を担いで上ったりと若気の至りで奇妙な行動に走っていた。
ただ、元々、体力が溢れる程にあるわけではないものだから、頂上を目の前にへばる。
すると途中、登山道で抜いてきた、歩調の遅い白装束の集団に次々と抜かれていく。
決まって呪文(当時はそう思っていた)を口にしながらその集団は追い越していくのである。その声はいまでも脳裏に焼き付いている。
「ろっこんしょうじょう」「ろっこんしょうじょう」?そう、これは、六根清浄と書く。今では笑い話であるが、これはパワーの元なのか、はたまた疲れない呪文かと真剣に思った。
六根とは、般若心経によく出てくる眼、耳、鼻、舌、身、意を差しこれが人の執着の根本であるからこだわりがなく、きよらかにする事(浄化・清浄)が大事なのだそうだ。
だから山は、お寺(信仰)と切っても切れない間柄といえる。日蓮宗の本山である身延山には山門(三門)から本堂の間に287段の大階段が待ち受けている。
これを菩提梯と呼ぶ、ここを上れば悟りの涅槃に到達すると言われる。
私も何度か出かけたが果たして涅槃までとは行かないが、
「こんな坂を上るなんて聞いてないよ」等という不満の思いもいつしか、「あー自然が美しい」などと文字通りしたたり落ちる汗と関わりなく無心に還ることができる。
歩きながら禅定にあるような気になる。
だから涅槃坂なのか。
比叡山の修行にも回峰行がある、無動寺谷を文字通り走り、駆け抜ける。
人間技と思えない信じられない光景が展開されるが、まさに邪心が働いては動きようがなかろう。多かれ少なかれ山が信仰の対象になることはうなずける。
山とお寺は切っても切れない間柄。
○○山○○寺(院)と必ず山号(さんごう)がその名に配される。
天台宗の比叡山、真言宗の高野山、曹洞宗の永平寺、日蓮宗の身延山も……。
では、浅草は…?金竜山という見えざる山が高くそびえている。信仰上の山名。
もう一つ(やっと本題)地下鉄でここ浅草に来られる方には、実感の、大いなる六根坂があるのである。都営地下鉄で129段、営団で86段(出口によって差異あり)。
ちょっと計算してみた。
1段を約15cmとすると129×15=1935cm約20mつまり6階建ての建物位だろう。
今どき6階建ての建物をテクテク歩いて上る御仁が何人おられるだろう。文明の利器を借り、こともなげに目的を達するのではなかろうか。
ここを登らずして涅槃はなしといわんばかりにそびえる菩提坂(階段)。
でも、地上までの一段一段は、ぜひ楽しんでいただきたいものだ。
そう六根清浄、六根清浄の呪文を忘れないで。
頂上には峠の茶屋も待っている。
ついでにご説明させていただくと、峠の茶屋には、コーヒーショップもあれば、もんじゃ焼きも中華もある。
こんなに賑やかな峠の茶屋はここだけのものだろうと誇りに思う。