見えざるおみやげ

店の子が落花生掘りに千葉に行ってきましたと
新鮮な落花生の塩煮を土産話と一緒にいただいた。

さらに「長蔵語録」なるものをもおまけとして手渡された。

成田山参道で米屋といえば知らぬもののない羊羹の老舗だ。
創業者長蔵氏が生前、折に触れて言い残した言葉なのだろう。

「こうなりなさい!」との深層意識を汲み取って
ありがたく頂戴した。

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信用は資金より貴き無形の財産にて商売の生命なり
信用保持の為には犠牲を惜しむな

儲けることをのみさきにするから畢竟儲からぬ
己を犠牲として顧客の利益を計ればやがて儲かる
これ大自然の法則なり

挙を合わせ礼拝が出来、挙を仰向けてお頂戴の出来るは
人間のみに与えられた天の恩寵である

真実、上手な嘘よりも下手な正直がよろしい
一時の方便は最もよくない

正直、この位は知れまいと思うのは悪の始まりなり遂に身を滅ぼす

一家和合は話し合いがよく出来ることから生まれる

可愛い子には五ツ教えて三ツほめ二ツしかりて善い人にせよ

悪人 愚人 幼児と争うな

気に入らぬ風もあらふに柳かな

にちにちに昇る朝日はおがめども入日のかげをおがむものなし

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本当にうなずく含蓄のある言葉ばかりである。
食べさせてもらった落花生も美味しかったけれど
何倍もこの言葉はよかった(いや一緒くらいかな・・・)。

特に信用に対する考え方、
儲けに対しての捉え方には発展する要因が込められている。

経験値から生まれた言葉なのだろうが、
まさしく商い・・・さらに言えば生き方のエキスが煮詰まった言葉と感じる。
先人が残してくれた「エキス」は、まさしく金より貴しだ。

ただ、思うのは、

住友の家訓「浮利を追わず」
赤福の「三つ余分に売るよりも一つを残すな」
近江商人の「三方良し」(売り手良し、買い手良し、世間良し)

等々、それを行うことをもって完結するのであって
行うか行わざるかは、後人の責任と言うことだろう。

折れ本写経紙のドンス表紙

折れ本写経紙の表紙にしていますドンスは、
こんな感じの色柄になります。

webshopページに掲載されているのは、
左の明るめの茶です。

巾広写経紙にはこの色が標準です。

このドンスを標準巾の折れ本に使用することも可能ですが、
その場合は、制作期間を1週間程度頂戴しています。

そう言えば・・・

業界誌に当店のことが記事になりました。
昔から良く知る記者さんと対話させていただいて、
それがそのまま載りました。

仏具店と言いながら、仏壇を出さない店からして
昔から突拍子もない店だったのですが…

こういう雑誌なのです。

天竺曹洞宗用本翡翠仕立腕輪

オーダーで頂戴したものだけれど、
「いい玉が入るまでいつまでも待ちます」という条件付きで
承った仕事。

天竺菩提樹に本翡翠のとにかくきれいなもの。
手に入るうちでとにかく最良のものでと探しまわって
ようやく手に入れた。
おかげでだいぶお待たせしてしまった。

とことん探せば、まだいい玉はあるものだと納得。


中糸はシリコンゴムだから、着脱は楽。

一度でいいから、宝石翡翠で創ってみたくなった。

本翡翠と本赤珊瑚

ビルマ翡翠ニ種

本(ビルマ)翡翠ほど変化に富んで、かつ魅惑的な石も少ない。
透明感のあるグリーンが得とも言えない美しさがある。
王に点がつけば玉(ぎょくとなる)上につけば主となる。
つまり王の石=玉=翡翠となる。

赤珊瑚ニ種
女の子には、身の守り、幸せな家庭と安産のお守りとして
持たせてあげて欲しい護符の素材なのだ。

最近なかなか良い玉がないのが残念。

色のそろっている玉を見つけたら即入手する。
二度と逢えないことになってしまう。
そのあたりは、伽羅と同じ感覚だろうか…

いい色に逢うと、はっ!と目が覚めるそんな感触を覚える。

自然保護の観点からも、地球温暖化の観点からも、
ますます入手が厳しくなっていくだろうことは確かだ。

チューニング

当店は人に恵まれている。
人材の宝庫?博物館ともいえるだろうか?
まあ個性の品評会と言ういいかたもある。

元レンズ磨きのプロもいれば
下町の八百屋さんも、酒屋さんも
血液型は全て揃っているし(いたし)
超常識派もいるかと思えば、微常識派も
海の女王もいれば陸王の妻もいる。

縦横無尽の思考がここには凝縮されている。
全く違う発想が集まるから、
だから、おもしろい。

コーラスを以前やっていた。
短い期間ではあったけれど、思う存分声も出したし、
プロを交えたコンサートにも何回か参加した。
これからと言うところでやめてしまったけれど、
面白みだけは体感させてもらうことはできた。

私の声+合唱する他の男女の混声。
未経験者でも通常に考えるとそこまでは想像できる。
けれど、実際に歌う側に立ってみると、
第三の声、第四の声・・・
が、聞こえてくる。
天空から、足元から、両脇から・・・
あろうはずのないパワーに押されるように、
潜在している自分の中の何かが引き出される興奮を感じた。

ハーモニー・・・
調和・・・
歌声だけにとどまることではない。
人間関係にも、自然環境にも、学問にも、文化にも
見渡せば、いくらでも第三第四の声を響かすことのできる
ハーモニーはころがっているはずなのだ。

ただし、心を合わせるというチューニングが必要なのだが。