巡礼と霊場念珠

最近、霊場回りをして
巡礼先の寺でいただいきてきた(もちろん布施が必要だけど)
念珠玉を仕立てさせていただくことが増えた。
数年前と比べるとだいぶ増えた。

こちらは、坂東観音霊場の玉。
出たばかりのようだ。

観音経の一部を抜粋し
玉に一文字彫りこんでいる。
集まれば、つまり三十三観音=33玉の念珠が完成する。

まあ良く考えたものだと思う。

その元は、四国にあると思うけれど

それがこちらの念珠。
四国番外20番。

よく持ち込まれる。
どこで仕立てることができるか、わからないんです。

ここにあるのです。
ここ(^^

記憶の糸

鉄道ファンの友人の日記上で交流しているうちに、
ちんちん電車好きという自分は、
どうも「鉄」とはちょっと違う、亜流のように思い始めた。

僕とちんちん電車とのつながりは、母を抜きにしては考えられない。
母はすでに80歳の山を越えた。
その夫は僕が生まれて3年後に早々黄泉に旅立った。
送り出して、手元には500円札一枚が残った。

昭和33年の当時、母子家庭が生きるための方策は
生活保護を受ける道があったようだが、
気丈な母はそれを拒否し続けた。

昼、夜の仕事を見つけては、遮二無二働き続けた。
和装の腕を買われて着物の仕立ての内職をしたり、
昼間は捺染の仕事に蒲田まで出かけたり、
保険の外交のおばちゃんをこなしたりと、

いったい、いつ眠りについていたのだろう…
と、今考えても、記憶にないほど働いた。

保険外交の仕事で交通局に出入りするうちに、
僕がちょうど4歳頃だろうと思うが、
横浜市電の電車庫で清掃の仕事に就くことになった。

当時のアパートから程遠くない、
麦田車庫に勤務することとなった。
「麦田」は横浜の人間でないとあまり馴染みのない地名だが、
元町から本牧に抜けるとき必ず通るトンネルがある。
山手の山を貫くトンネルを抜けたあたりが麦田の町である。

横浜市電開通当時は最大の難工事時だったと聞く、
市電唯一のトンネルである。
その麦田側に電車の車庫があった。

車庫から山沿いに子供の足で10分程歩くとあった、
柏葉幼稚園という小さな幼稚園に姉と僕は通った。

昨今なら年少の保育も認められているが、
当時4歳の僕は、正式には認められない年齢だった。
なのに、通えた。

つまり、
みそっかす入園だったのだ。
幼稚園側の配慮で、母子家庭ゆえに預かってくれたのだ。

今時なら、到底考えられない園長の判断だった。

僕は二つ年上の姉に手を引かれ、
おぶられ、渋々幼稚園に行きたい思いもなくお供した。

その帰り道、姉と決まって立ち寄るのが、麦田車庫だった。

数十輌の車両を母一人で清掃する姿を作業の終わる時間まで、眺めていた。
いつも人とモーター音で賑やかな電車が、
全ての戸を開け放ち、日の光を浴びてのんびりしている光景は、
子供心にも安らぎを与えられた。

その異空間で母が近くにいる安心感からだろう、
寝転んだままよく居眠りした。

高校時代、市電全廃の報を聞いたとき、
(当時、交通局の弓道場に通っていたのも縁だと思う)、
とっさにその記憶が蘇った。

時代遅れの乗り物。
まだ走っていたの?と冷ややかに、と言うよりも、
記憶の隅から消えてなくなっていたかのような事柄だったのに、
一瞬にして鮮やかに当時が蘇った。

高校一年の春。
市電最後の拠点である滝頭車庫に入庫する、
超満員の最最終のさよなら電車の車内につり革を持ちながら、
目頭を熱くし揺られていた。

昭和の猫

昭和ブームがここまで影響している。
コンビニに昼飯を買いに入ると。
タダで出てこれない。

つい
つい
つい…できごころで

決して可愛いわけではない。
30年頃にはいたな・・・
こんな猫。
と、つい手を出してしまうのだ。

たばこ屋ねこを手に入れるまで。
それとも、横道にそれるかも…

こんな腕輪もあります。

直しでお預かりしたものですが、
プレゼントされたものだとか。

どこかで見たことあるなあと思っていたが、
どう見ても自分の仕事だ。

どこをどう巡ってきたのかわからないけれど、
こうして再会することができた。

ふしぎだ・・・。

ゴム糸で編みこみ。

大人と子供

つい手が出そうになる。

「いやいや、買ってどうするの」
もう一人の僕が制止する。

「見ても楽しいじゃない」
「それからどうするの」

「走らせる」
「それでどうするの」

「・・・」
「ほらみたことか」

で、
大人のふりをして立ち去ってしまう。

ちょっと反骨

「東京タワー」といってシャンプーをつけた髪の毛を立ててあげると
「ぼくも」「ぼくも」と子供にせがまれたのを
コマーシャルを見ていて、ふと思い出した。

タワーには特別の感触、思い入れがある。

濱っ子の僕にはマリンタワーいつも見える。
心の内にも誇りとしていた。

世界一(当時)の東京タワーに大しても、
「マリンタワーがあるじゃん」
といつも、敵愾心をもっていた。

映画「三丁目の夕日」で昭和30年代が脚光を浴びているが
タワーの建設途中の姿を見るにつけ、
ちょっと斜に構えていたそんな時代の郷愁を感じる。

ふくまる旅館も総動員?!

「西田がいるー」
若い女の子の通りすがりの一言。
ん?と振り返ると、

良く見た顔がいる。


え、まさかね。

いつも菊花展と合わせて開く野点のような茶店。
今年は、ふくまる旅館になってる。
何でも動員されちゃうんだね。

浅草寺で観音霊場の出開帳があると聞いたのが遅かったためとっくに跡形もなかったが
人の出の多さには辟易するほどの状態だった。

人の出には特に外人の多さが目に付く。
バックパッカーの中高年もはとバスの観光客も
とにかく、人種の坩堝(るつぼ)と化していた。

ブーム・・・とは思えないのだけれど

台湾に初めてでかけた12~3年前、
一番初めに驚いたのは、熱気。
日本とは緯度の関係で、亜熱帯の蒸し暑さであった。

二番目に驚いたのは、家族の結束の強さと信仰心。
日本のお寺は夕刻になれば、おしまい。
下手をすれば門まで閉じられてしまう寺院すら多い。
けれど、泊まっていたホテルを抜け出し夜店見物を兼ねて町にくり出すと、
観音を祀る台北の寺院には夜10時を過ぎても参拝客の足が途絶えず、
線香の煙で大変な状態になっていた。

何かのお祭り日になっているのかと聞くと、日々こうだという。
日本に住む台湾人の友が一日中仏前に線香を切らさなかったのを思い出した。
何も特別なことではなかったのだ。
随分お線香が売れるだろうなあ…などとは思わなかった。

三番目は、腕輪念珠の大きさ。
道行く男女を問わず、道行く人の腕にしっかりつけていた。
ブレスレットかと思うほど腕輪念珠が一般化していた。

15~20mmはあろうかと思う腕輪念珠をきゃしゃな女の子が腕につけてる。
日本ではまだ目立たない小さなサイズしか売れない時代。
いつか日本もこうなるかななどと少し思った。

タクシーのルームミラーには、
やはり念珠がかけられてお守り代わりにしているという。
しっかりと仏教(道教も)が根付いていることが肌身に感じた。

最近、大玉の腕輪がよく売れるようになってきた。
テレビでも場違いなほどの大玉が芸能人の腕を飾っているのを目にする。
そのあたりが、影響しているだろうことも感じはする。

トレンディーと言えばそれまでだけれど、
本質を知ってつけてくれるようになればもっといいなあなどと
淡い期待も捨てていない。

和蝋燭

燭台の試験をずーっと続けている関係で
和蝋燭を何本も燃やし続けている。

こんなに和蝋燭を燃やし続けたことは過去にない。

でもおかげで和蝋燭の炎のよさを改めて認識させられた。

見れば見るほど、炎の高さと言い、揺らめきと言い
美しいなあとうっとりしてしまう。

これから、冬に向かって心がしぼむようなことがあったら
炎の暖かさに、心をなごませよう・・・

あ!そうか!

和(なご)む蝋燭だから、
和蝋燭 か。