いつのまにか自分は。。。

いつの間にか少女はは、TONが昔好きだった揚水の歌。
その話ではなくいつの間にか自分は。。。はなのだ。

自分というのは一番わからない存在。鏡に映る自分はホントの自分ではないし、最近は動画が簡単に使えるからと言っても、一から十まで全て映しきるなんてよほどできることではないだろう。じゃどうしたら自分を知るの?と言えば相対的に観察するしかない。人間つまり「じんかん」で相手に映し出される表情や人間関係の中に自分を映し出すしかない。

昨日はおふくろの13回忌を行なって暫くぶりに姉夫婦とその子供達夫婦その子供たち姉からみれば孫たちが全員勢ぞろいした。
コロナの時代もあって12年前の母の納骨式に勢ぞろいした時以来の顔合わせとなった。

以前は姪や甥たち、その各親がいて小さい子供達がそれぞれいて、出っこみひっこみで、まだまだ大人の責任が大きかった時代の風景。
それがいつのまにか大人の集団に成長していた。
自分の所も入れれば20人近くがみな遠い親戚ではなく母の下何とか育ったたった2人の姉弟から出てきた群れなのだと思うと感慨深かった。

何処の人もそんな風に思うのかもしれないが・・・。
前の晩偶然出てきた親不孝していたころ母からもらった手紙を改めて読み返した。
「無学な親だけど2人にかけた愛情はだれにも負けない」・・・昔思わず落涙した事を覚えている。
そうなんだ。わかってる。そんな思いが姉に伝わり僕に伝わりして今がある。
だから集まった20人の群れは母の思いを継いだ一族となっていくのだろう。

お山もそろそろおしまいか。。。

富士山の閉山は今月10日。
今年ほど富士登山に問題提起の多かった年はないのではなかろうか(TONが知らないだけかもだが)。
弾丸登山。海外からの観光客による無謀とも言える軽装、行き当たりばったり無計画な登山スタイル。ゴミの問題。。。
山開きの時期に頂上付近での登山者の事故?死がしょっぱなから暗雲を投げかけた格好だった気がする。

TONの記憶に間違いがなければ、富士山が以前ブーム(4、50年前の話し)となった時、日本人の若者がハイヒールで入山したりの軽装登山は問題視され週刊誌などをにぎわした記憶がある。外人ばかりを責めるわけにはいかないような。。。
かく言うTONも似たり寄ったりの記憶がある。

半ドンのあった時代、当時は仕事が終わる土曜日の夜に富士山に向かい、五合目を夜中に出発する今で言う弾丸登山真っ盛りの時代。
とにかく人が多かった。押されるように前に進み道に迷うことなどあり得ないコンベアのような始末。8合目9合目で疲れれば、そこらでごろんと横になって星空を眺め、下界からずっと続く登山者の懐中電灯の明かりをボーっと眺めながら疲れを癒しまた頂上めがけて登りだす。
団塊以上のお兄さんお姉さんたちには青春の記憶としてあるのではないだろうか。ぜったいあるはずだ。

TONはおまけに愛車を担いでいた。12㎏。今時のマウンテンバイクなどなかった時代。サイクリング車から余分なものを外し、ドロップハンドルをオールランダ―バーに替えただけの代物。
担いでいるとどこを走るの?と登山者に何度も尋ねられる。けれど走れる所は何処でも走ると応えた。現地に入ると案外登りでも走れる所は随所にあった。一番の目的は下りだったのだが。。。砂が。。。深い。


頂上から9合目に向けて走り始め。。。このあと空中一回転。

富士登山に規制がかかるとしたら、サイクリストにもかかるようになるんだろうな。

浅草のそら

むか~し技術屋だったころの話し。
まだ新米技師のくせに、計画から施工まで一人でできる仕事をやらせろーっと談判してまかせられた仕事が河川計画だった。

その川の流域面積を出して、流出係数を決め(アスファルトいだらけの都市部と田園地帯では降った雨が川に流れ込むスピードが違うのでそれを考慮する)そんな係数を考慮して川の設計断面を決めていくのだけど、そのもとになるのは計画降水量。
一時間に何mmの雨が降るかを過去のデータ―から読み解いて決定する。TONは絶対に洪水で被害を出したくないと時間80mmで設定した。それでも少ないと思ったのだが。。。
設計を凛儀してもらうと見事先輩技術者にNOを食らった。係長も課長もNOだった。

なぜ?と問いただすと「経済設計っていうのがあるんだぞ}だった。カチンときた。
人の命にかかわることに何が経済設計だ。と納得できなかった。延々とディスカッションという名の口論となった。見かねて技術専門の上司まで輪に加わって、TONは係長預りとなってしまった。
「何mmの雨が降りました」と大雨の情報をテレビで耳にすると未だに当時の悔しさが思い出されてしまう。もう50年近く前の話なのにね。
上さんにいたってはまたその話?と聞いてくれなくなった。
昨今は100mmを超える雨が当たり前のように降るようになってしまったからね。TONの先見の明?まさかね。。。

ひろいものから

たまたま目についた言葉。
人生は二度ない。
どうせ生きるのなら一秒でも早くこの事に気づきたい。。。

スティーブ・ジョブズが残した最後の言葉

他の人の目には、私の人生は
成功の典型的な縮図に見えるだろう。
しかし、仕事を除くと
喜びの少ない人生だった。
人生の終わりには、富など
私が積み上げてきた
人生の単なる事実でしかない。
病気でベッドに寝ていると
人生が走馬灯のように思い出される。
私がずっとプライドを持っていたこと
認められることや富は
迫る死を目の前にして
色褪せていき
何も意味をなさなくなっている。
この暗闇の中で生命維持装置の
グリーンのライトが点滅するのを見つめ
機械的な音が耳に聞こえてくる。
神の息を感じる。
死がだんだんと近づいている。
今やっと理解したことがある。
人生において十分にやっていけるだけの
富を築き上げた後は
富とは関係のない
他のことを追い求めた方が良い。
もっと大切な何か他のこと。
それは、人間関係や、芸術や
または若い頃からの夢かもしれない。
終わりを知らない富の追求は
人を歪ませてしまう。
私のようにね。
神は、誰もの心の中に
富によってもたらされた幻想ではなく
愛を感じさせるための「感覚」
というものを与えてくださった。
私が勝ち得た富は
死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。
私が持っていける物は
愛情に溢れた思い出だけだ。
これこそが本当の豊かさであり
あなたとずっと一緒にいてくれるもの
あなたに力を与えてくれるもの
あなたの道を照らしてくれるものだ。
愛とは何千マイルも超えて旅をする。
人生には限界はない。
行きたいところに行きなさい。
望むところまで高峰を登りなさい。
全てはあなたの心の中にある
全てはあなたの手の中にあるのだから。
世の中で、一番犠牲を払うことになる
「ベッド(賭け)」が
何か知っているかい?
シックベッド(病床)だよ。
あなたのために、ドライバーを
誰か雇うこともできる。
お金を作ってもらうこともできる。
だけれど、あなたの代わりに
病気になってくれる人は
見つけることは出来ない。
物質的な物はなくなってもまた見つけられる。
しかし一つだけ無くなってしまっては
再度見つけられない物がある。
人生だよ。命だよ。
手術室に入る時、その病人は
まだ読み終えていない本が1冊あったことに気付くんだ。
「健康な生活を送る本」
あなたの人生が
どのようなステージにあったとしても
誰もが、いつか人生の幕を閉じる日がやってくる。
家族を大切にしてください。
パートナーを大切に
友人を大切にしてください。
そして自分を丁寧に扱ってあげてください。
人を大切にしてください。

浅草の空 79回目の終戦記念日

早朝、寿に行ったついでに雲の様子をパチリ。
ダイナミックな雲が浮かんでいた。今日は79回目の終戦の日。

僕の子供時代は戦争経験者ばかりの中で育ち年中その空気感の中に包まれていた。
横浜の本町辺りには空襲で焼け崩れ焦げたビルがまだ目についたし、防空壕がそこら中の崖面に空いていて、ぼくら子供達のいい遊び場、隠れ家になっていた。それが普通だった。
戦争の話しも兵隊さんたち、銃後の婦人たち子供だった人たち、様々な角度からの情報が氾濫していた。
戦中の話しはしたくない人が多かったような表現があるが、聞くのがうまかったのかTONには何のこだわりもなく話してくれたものだ。ただそれでもまだまだ聞き足りなかったと今は後悔している。そうして聞いてきた耳からの情報によって形作ってきた戦争観と学校で教えられる近代史観にいくつもずれを感じ育つにつれて容易ならないものになっていったのも事実だ。

そんななかの一つには、学生として教科書から学んできた終戦の姿、無条件降伏と教わってきたけど、軍は無条件だけど国としては無条件降伏ではない。全てが無条件に丸めこまれたいきさつも資料をつかんだ。近代史っていかにいい加減なのか。。。と思わされる。

靖国神社に毎月昇殿参拝させてもらってきたけど、この日は一度も伺った事がない。
きっと騒がしいのだろうな。と想像するとどうしても足が向かないのだ。むしろそっとしていたい。

浅草は変わらず騒がしい。

そうだ!母の日。

もうずいぶんあげてなかったな。。。

上さんのお母さんも、TONの母親も震災の後、続けて亡くなってしまったから。。。

仏壇にカーネーションの香りをあげることにしよう。とは思うけど。

目の前で直接受け取ってもらえる方がもっといいよな。。。

受けてくれる人がいると言うことは、幸せなことなんだ。

受け取ってくれて「わー!ありがとう」と言ってくれることは、自分自身が喜ばしいことなんだ。幸せとは人を介して人からもらえるものなんだ。

母にわたせないということがこんなにつまらないこととは。。。。。

お盆なのだが。。。

お盆のいろはですが案外知られていないのが実情です。

以下はある方のブログからお盆の起源についての記事を拝借した。

お釈迦(しゃか)様には十大弟子がいる一番弟子は舎利(しゃり)弗(ほつ)で、智慧の第一者である

二番弟子は目蓮(もくれん)で、神通力(じんつうりき)を悟って如来(にょらい)になった。神通力とは 過去・未来 

そして相手の心さえ、見通すことができる能力である。

神通力を得た目蓮は、最初に母親の事を考。えた、もう他界しているが無事に天界に着いているかどうかずっと気懸りであった。そこで目連は、得意の神通力で他界した母親を見ることにした。仏教では人の住む世界を六つに分けている、いわゆる六道である。上から、天界・人間界・修羅(しゅら)界・畜生(ちくしょう)界・餓鬼(がき)界・地獄(じごく)界生前、自分にはとても優しくて立派だった母親だからきっと天界にいるだろう。そう思って探してみるが、一向に見当たらない。ひょっとしたら 人間界かも知れないそう思い必死で探してみるが 人間界にもいない。修羅界にも畜生界にもいなかった。落胆した目蓮は なかば諦めながらも、餓鬼界を探してみた。そこでようやく自分の母親を見つけることができた。餓鬼界は地獄界の一つ手前である。餓鬼界にいる母親は、いまや見る影もなく痩せ細り 骨と皮ばかりである。自分は釈迦如来の弟子だから母親を救うことくらい容易いはずだ。そう思い神通力でご飯を渡そうとするが母親が手に取る前にパッと火がついて燃えてしまう水を渡そうとしてもすぐに煮えくり返えってしまい 到底飲むことが出来ない。しかも 母親は逆さ吊りにされている目連は母親を助けようと試みたが、結局 手も足も出なかった。困り果てた目連は 釈迦如来のところに相談に行った。「どうか私の母親を助けてください」と必死ですがる目連に釈迦如来は「お母さんは助からない」と静かに告げた。「なぜ あんなに優しかった母が餓鬼界に落とされてしまったのでしょうか!何かの間違いに違いない」一所懸命に 目蓮は聞き返す「母として子供には尽くしただろうが他人に布施をしなかっただから助からない、諦めよ」!それでも目蓮は納得できない。何としても母を救いたいと、執拗(しつよう)に釈迦如来に尋ねた。「方法は一つだけある。七月十五日は坊さんが百日の修行を終える日、伝道(でんどう)に出るから、お坊さん方に供養(くよう)してみなさい」その言葉に従って、目蓮は精根(せいこん)をこめて供養したすると、もうムリだと思っていた母親が救われたのである。あまりの嬉しさに目蓮は、母親と抱き合って踊り狂った。それがお盆の供養、盂蘭盆会(うらぼんえ)と盆踊(ぼんおど)りの由来になっている。人間は、ついつい貪(むさぼ)る欲がでるものである。それでは幸せになれないので仏教では 布施をしなさいと教えている。

という。

お盆はみんなで楽しい思いだけをするためのものでも、旅行に行くだけのものでも、まして盆休み中を寝て過ごす日でもない。

父母、先祖に孝庸を尽くす日なのであること夢々悪るるべからずなのだ。


蟻の町のマリア

浅草界隈は住んでみるとえっ!と驚くことの多い町だ。

浜っ子を生涯捨てる気はないTONとしては、この町に迎合する気はさらさらないのだが、ふと懐かしい横浜の子供の頃の空気感が漂うときがある。野毛のドヤ街、馬車道から伊勢佐木町へのごちゃごちゃ感、吉浜町あたりのだるま船の溜まり場、水上生活者感・・・いまだにここ浅草で懐かしくて立ち止まり振り向いてしまう一瞬すらある。そんなことがここを離れられなくなってしまった一因なのかもしれない。
もう横浜では感じられない空気、見当たらない光景。

蟻の町と聞いてピンと来る人は地元の人でも少なくなってしまった。

浅草、下谷地区合わせて約350ヶ寺の寺がひしめき合っている。関東大震災や先の大戦で引っ越してしまった寺院も多いが、各宗派の坩堝となっているのは事実だ。おまけに10万人の遺骨を預かる東京慰霊堂がお隣の墨田区にはある。新宗教も軒を連ねる。まさに宗教、慰霊の群雄割拠の地なのだ。

以前、「蟻の町」不思議を響かせるその名を聞いて何処のありやとあちこち探し回ったことがあった。なんのことはない灯台下暗し、毎朝早朝に走り回っていた隅田川沿いのコース上だった。戦争被災者など廃品回収の人々の部落とでもいうバタヤ部落。バタヤという言葉も死語の部類か。。。

そんな彼らが肩を寄せ合って住んでいたコロニーの一つが蟻の町だ。

その部落に単身飛び込み神様の愛を実践し若くして昇天された清い命もあった。

そんな浅草も知っておいてほしいなぁ。。。

https://www.youtube.com/watch?v=JcQzJctAxuE

生きる。

大きな幹を切り落とされてても。。。たくましい。
雅子妃殿下に因んだ桜木「雅」が芽を吹いていた。 向島にて。
以前なら向島の町会有志のテントが軒を連ねるはずなのだが、ぼんぼりの姿も見ることはない。
枝がこんなに落とされちゃっちゃぁ・・・桜本来の美はどこにいってしまったかわからない。

記憶の糸とは

そうだったのだ。

10年前の今日を思い出した。石巻の猫島に行った日だった。

浅草から10tトレーラーで大猫のオブジェと支援品を持って商店会の仲間と藝大の院生とで足を伸ばしたんだった。

人で賑わっていたであろう石巻駅前のスーパーも商店街も地盤沈下と津波と内水の影響で見る影もなく荒れ果て、小高い丘の上に不規則な石ころが転がっているかのように遠目に見えたものは凝視すれば墓石の成れの果てだった。子供たちが渡っていたであろう小学校前の歩道橋はその上部までゴミが引っかかったままだった。

夕べ車内で仮眠した石巻港の渡船場で朝眼を覚ました時の光景の凄まじさは生涯忘れることができない。

大好きな潮の香りも流れ出たオイルと相まるとこんなにも嫌な臭いに変化するとは、凄まじい光景と相まって記憶にしまいこまれた。初めての経験だった。

でもまだたった10年前の話か。。。

猫島は1mの地盤沈下で港が使えない状態。オブジェを船から下ろせるかがまたまた問題。
大船渡に北上する途中での光景。思わず泣いた。