やったね!

東武浅草駅を創業当時に戻そうと言う計画が発表された。

TONもずっと言い続けた一人だよ。

あんなモダンな美しい建物に、白のストライプの厚化粧を施すなんて、なんてもったいないことだろうと思っていた。

日本で最古のバー、神谷バーの建物もあり、洒落た東京メトロの出入口の建造物あり、この辺りは昭和モダンの地域になるチャンス

ついでに景観統一させていったら、いつまでも見飽きない風景が演出されるだろう。

ここにLRT(次世代型ちんちん電車)が仲間入りしたら・・・
もっといいのに。

と、思うとゾクゾクするなあ。

ようやく一歩前に出そうな雰囲気だ。

修行

紐房の研究中。

ぐるぐる正絹紐を四つ編みの下で巻いてっと・・・

手を動かしていると、時間の経過を忘れるから・・・
お客様を無視してしまうから店ではできない。
と重いながらも、つい手を動かして何か手先で創っている。

高校時代、弓道部に所属していた。
矢を射るのは飯より好きだったけれど、それ以上に熱を入れて道具創りに熱中していた。
弦に油を切らさないための手のひらサイズのわらじ作りは、弓をやる人ならお手の物と思うが、そのうち雪駄代わりの本格的なわらじも作っていた。

道着を針と糸を駆使して自作し悦に入っていた。

中でも夢中になっていたのが、矢を入れるための矢筒を自作すること。
そういえば、矢筒は荷造り用の紙紐を懸命に巻いていた。
ちょうどこんなふうに。

念珠づくりが本職になった今、短期を起こすこともなくこつこつ巻いていられるのもこのときの修練?が今に生きているのだろうか。

三つ子の魂だ・・・

今にして思うと、自分の預かり知らないところで、天命と言うのはちゃくちゃくとその方向に向いて動かされている気がする。

人は、そういう捕らえ方をする人を運命論者というのかも知れない。
でもね、そう思ってしまうのだから・・・

しかたないだろう。

これも縁

僕のお客様にもうかれ四半世紀をはるかに超える方がいる。
ほぼ友といっても良いのではないのかなとも思うのだが。

あまりにも自然体のお付き合いとなっている。

定期的に顔を見せにいらしてくれるし、決まった商品を同じ量だけお付き合いしてくれる。
だから、お客様の肩書きはいつまでも大事にしたい。

来られると昔話になる。
と言っても、二人ともそんな歳ではないので、趣味の話となる。

実は、彼とは共通の趣味を持つ。

彼は大学時代に自転車レースをやっていた。
社会に出て、仕事に追いまくられ多少遠のいたようだが、仕事を早期退職をし趣味を生かし、古い自転車を組んだりする優雅な生活を送っているようだ。

僕は僕でレースもやっていたけれど、ツーリング派で特にパスハンティング(峠越え)が趣味だった。
同じ趣味を持つとさらに垣根を越えてしまう。
気付くとため口になっていたりするから、多少は自戒しながらブレーキを踏むことにしている。

新しい年となり、暫く振りに来訪された。

いつもどおり定石をおいたあと、何がひらめいたのか知らないが、大学時代のアルバイトの話に及んだ。
彼のバイトはもちろん趣味を生かした自転車屋でのバイト。
スポーツサイクルの専門店で頻繁に出入りしているうちに店員以上の腕を磨いた。
週の半分も学業と平行しながら働いたという。

「あれ?」っと突然思った。

話題になっていた自転車屋は、僕も実はいりびだっていた一人だったのだ。

「何年生の時?」
「じゃあ昭和○○年だよね」
「・・・・・・・!!」

「逢っている!」

そういえば、あのころ店員が二人いて一人は恐そうで話さなかったよ。

記憶がみるみる蘇ってきた。
ほんの数ヶ月のことなのだけれど、確かにその店で起きた出来事の共通する記憶を所有している。

35年前の話し。
今の今まで気付かずにいた。

これも縁かな。

玉を通すということ

小さい玉を108玉糸に通す。

片手なら22玉27玉35玉ということになるし、新作なら糸をつないでいちいち一玉ずつ糸に入れるなんてしないで手を省くことが多い。

でも、最近は持ち込まれた玉。特にパワーストーン屋さんで入手された玉をもたれる方が増えて、その他までの製作が昔では考えられないくらい増えた。
宝石関係の玉の作りはそもそも念珠つまり法具としての念珠玉とは作り方そのものが違う。

だからどうしても、一玉一玉糸の先を撚りによって尖らせて丁寧に丁寧に通さないと思うように仕上がってくれないし、玉割れの原因も作ることになってしまう。

手間が恐ろしいほどかかる。

玉を通しているといろいろ考える機会を与えてくれる。

土木の技術者だった頃はよもやこんな小さいことをやるようになると頭の隅にもなかった。
土木でもコンマ何ミリ単位を要求される仕事はいくらでもある。セグメントを何百何千と連ねていく工事なんて、セグメント一つに1mmの誤差でもあれば1000つなげば1000mmつまり1mの誤差になる。トンネル工事や橋梁工事、今人気のスカイツリーなんてどれほど繊細さが必要とされているか・・・

眼に見えないところで神経をすり減らしている技術者がいるんだよね。
グロスな工事なんて何処にもない。

そう考えてみると念珠作りも似たところが大いにあることに気づく。

完璧に玉を作っておかないと108つないだらどうなる。

恐ろしいことだ。

目の前の一つの行為に全神経を集中し完璧に仕上て次につなげる。

それを積み重ねる。

だからおもしろい。

なかなか・・・

昨年の暮れから正月にかけて、からだの不調(大それたものではないのだが)が次々起きてしまい我ながら辟易している。

今日は本来ならば、朝のジョギング丸二年目記念日なのである。

本来ならば記念日には少し遠出をして、葛飾あたりか、江東区辺りまで走って海を見たいと思っていただけにちょっとがっかりな記念日となってしまった。

暮れに歯の抜けた夢を見たら本当に歯を抜くはめに陥る。
いつもなら逃げ回る歯医者も、早く走りたいがために、珍しくまじめに歯医者通いを続けているが、並行して風邪もひいてしまった。

十数年不思議とひかなかったのに、ここにきて・・・何故?

おまけに「抜歯ですね」二本。

抜歯のために痛み止めとともにいただいた抗生物質の入った薬のおかげであっという間に直ってしまう。

いいのか悪いのか・・・

徳川家康も14巻目に入った。
頭の中は戦国時代。

三河武士の荒さを繰り返し読み進んでいると、命のやり取りがいかにも軽く感じてくるのだ。
ぐいと小刀を腹に立て切り裂いて臓物を鷲づかみにし、襖に投げつける・・・
なんとも昔の日本人は凄いものである。

その調子で「おいらの歯くらいスポンと抜いてくりゃれ」と気持ち、気負いは充分あるのだが・・・

治療台に座るとしゅんとおとなしくなるTONなのである。

痛さにはとことん弱いのである。

故郷といいたいのだけれど・・・

用事があって横浜まで出かけた。

便利なもので、浅草から苦もなく一時間もあれば、みなとみらい駅まで寝ていても着ける(いやいや・・・乗り換えは一回だけあったけど・・・)。

パシフィコ横浜の突先から海を臨むと、ようやく「らしさ」を感じることができる。
このあたりの風景ですら激変の場所。TONちゃん幼少の頃、海運事業をやっていた知り合いのおじさんにポンポン船で湾内を航行してもらった辺りで、岸は遠いし波は高いし、小さなポンポン船は木の葉のように揺れてすこぶる怖かった記憶がある。

紅白の灯台は目の前に見えるし、湾が実に小さくなった感触がある。

みなとみらい駅までは、電車が何処をどう走ってきたのか、駅で降りて、どう歩いたかもさっぱり検討がつかない不思議な町に来た感はどうしても否めない。

僕の横浜感は、伊勢崎町や本牧や本町や野毛に集約される。
せいぜい広くて二車線の通り。手を伸ばせば届きそうな軒の連続。

3車線も4車線もある大通りなんて、日本大通りくらいなもので、それでも目線はうんと低かった。そんな人間の背丈の町並みが故郷の横浜なのだ。


こんな風景、僕には外国でしかない。

いつまでも・・・

WEBの友人(お客様?)が二人今年初めて店に来てくれた。
ここんところ体調が悪くて午前中は転がっていたので、すれ違いで逢えず、午後の帰り際によっていただいたおかげで寒中見舞いをいただくことができた。

それでは前日、東京マラソンのおニューのパンフレットを東京マラソン財団の人が持ってきてくれたので、お土産のお返しに(たいしたものじゃなくてすんませんでした)。

東京マラソンの話しが契機でランの話になった。
友人は一人は100キロマラソンに出場するような猛者、もう一人も持病を持ちながらもハーフを飄々と走る人。TONにとっては貴重なアドバイザーなのだ。

この真冬まだ短パンで走っているのかと尋ねられた。

そう。
長いパンツが見当たらなくて、短パンというより膝までので走っていますよ。と答えるとアキレス腱、気をつけてよと忠告。

話のついでに、ベスト式のウインドブレーカーで走ってるから腕が寒いのなんの。
おまけに手袋も走っている途中ではずしてしまうから、両手の感覚はなくなっちゃうと言うと、これまた大きい目をさらに大きくして、故障するよ。あったかくして走らなければダメとさらにダメだしの忠告を受けてしまった。

もう故障しているんだけど・・・

そうか・・・
真冬、袴に素足で練習していた時代なんて、もう・・・40年も昔のことだった。
アイスバーンの山道を自転車での峠越えなんてのも30年も前の話。

ガチガチに固まった体が冬の醍醐味なんて思っているのがそれこそ時代錯誤だったのかもと反省に及んだ。

体の調子がよければ受け取り方も多少違っていたのかもしれないけれど、えらく沁みたタイムリーなアドバイスだったのでありました。

阪神淡路大震災

もうすぐ・・・

17日。

95年1月17日
あれからもう16年を数えるんだ・・・。

こんな寒い季節だったんだなといまさらながら思う。

こあんな時期、突然の天災に家族を失い、住む家を失い、何もかもを失って絶望の淵に立たされた被災者、その家族知人を思うと、身をよじるほどの心の痛みが襲いかかる。

身につまされる。

当日僕はちょうど関西方面に出張中だったので、家族はえらく心配して帰郷を待っていた。

当時、神戸の友人たちと研究会を持っていたので僕は僕なりに彼らを心配していた。

半年後に久しぶりに神戸の町に出かけた。
横浜育ちの僕には、子供の頃の記憶に市内の各所に色濃く残っていた戦争の傷跡や瓦礫のまま焼け焦げたビル郡は独特のにおいを漂わせていた。そんな匂いを知っているだけに、神戸の町はどこか似通った匂いと風景をダブらせるに充分だった。

驚愕したあの日から、
もう二十年に手が届こうとしているのか・・・。

影ぼうし

昔から影って好きだったんですよね。

影踏みに興じていた頃の夕暮れに変化していく茜の空はなんとも言えずよかった。
影はどんどん大きくなっていき、のろまな弟をあざ笑う狡猾な姉の影も難なく踏めるようになる。

自転車で旅をしているころ、山道の夕刻と言うのは、迷ったり、道が荒れていたりで予定通り宿に着かないと、昼間は快適な林間コースであっても、かなり心細くあせるものなのだ。そんな時でも、数メートルにも伸びきった相棒の自転車の影を見ると、頼もしく思いながら追いかけて行ける。なかなかおつなものだった。

都会の雑踏も人人人で息が詰まりそうな空間であるのに、ふと目を落としてみると、朝の活力に満ちた影法師が、夕刻の赤い日に伸びた影法師が、時と場所を忘れさせてくれる。

どこに想いのチャンネルが潜んでいるかわからないものだ。

全てお日様のなせるわざ。

やっぱりお日様は偉いわ。