「ブログが秘めるセラピー効果」という記事

外食はまずしない。
落ち着かないのだ。行くとなると一店に通い続ける。

昼食を外でとる場所は、毎度決まっていて、20年来行きつけの口の悪い店主がいる喫茶店と決まっている。メニューもカレーのみ食べ続けている。
今日はナポリタンを注文し店主の期待を裏切った。
昔ながらのケチャップで炒めたあれである。
一週間に一度程度だから、ちょうど店置きの雑誌も入れ替わる。
で、この時間は週刊誌の表題を拾い読みしておくのが習慣となる。

ニューズウィーク誌の小さな記事だが目に止まった。
それがタイトルの「ブログが秘めるセラピー効果」
アメリカでは、精神医療の現場でブログを勧める精神科医が多いのだそうだ。
カウンセリングの目的は、
 気持ちを吐き出させる。
 自己顕示欲を満たす。
ということなのだそうだ。

ブログを書かせると、「人と話す」という効果と同等の効果を期待してのことらしい。
つまり、悩むときは人と話すことを通して癒される。
その体験に近いものが「ブログを書く」という行為にある。

ハーバード大神経科医アリス・フラハティーは同情してくれる読者に近づけるから癒し効果を生むという。
ジョンスーラーは、ブログの匿名性も効果的だという。

なるほど。
どうりで精神が安定するわけだ。
でも読む側には申し訳ない気もする。

いよいよ目に見えてくるか

塔つづきになるけれど
こちらは、現代の塔、タワー、スカイツリー(スカイタワーにしてほしい)のこと。

新聞(MJ)を手に取ると、一面で特集されていた。

「下町に商機のめばえ」だって。
下町には商機がなかったとでも言うのかえ・・・
っていうつっこみたくなる気持ちはこっちに置いてっと・・・

タワーの話し。

まだ地下の作業をしているからパッとしないが、
きっと基礎のための岩盤調査をしているのだろう。
業平、押上周辺は刻一刻と変化している。
街を歩けばよくわかる。

こうして新聞に大きく取り沙汰されると
フィーバーするプロローグ、前夜祭になることうけあいだ。

あれよあれよと天空に建ち上がり
同時に足元の町々は思い出せないほどの変貌を遂げるろう。

今のうちにこつこつ歩くとしよう。

ひとのふりみて・・・

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080625-OYT1T00821.htm
またうなぎの偽装が発覚。
しかもかなりの確信犯。
これには驚きの一言。

鰻騒動以来、好きで毎週の買出し時に買っていたうなぎはピタッと止めた。
同時に スーパーの棚からも、中国産のうなぎは日ごと減っていき、
ここしばらくは鹿児島産など国内産のオンリーに様変わりしていた。
販売側も大変だろうな・・・

が、国産の衣に着替えて再デビューを果たしていたなんて・・・
聞いてないよ~~

そろそろ気にならない程度まで民意は回復していたと思うのに・・・
また再燃ですか・・・

「商売は誠実が第一」が商売の基本だと仕事を創めるはるか昔に学んだ。
「損得の前に善悪を考える」商売をしなさい。

そう徹頭徹尾叩き込まれた。

この「事件」を見てみると絵に書いたような事例だと思った。

足元はだいじょうぶだろうか。初心を思い出させられる。

スリランカという国

スリランカと聞くより「セイロン」が
頭には叩き込まれていて、時々国名が口から出ない。
1972年まではセイロンだった。

お客様のS師がスリランカに出かけると聞いで
スリランカの今を意識するようになった。

内戦状態にあって、難民も10万規模で生まれるそんな政情にあることも
この機会に認識化した。

要するに名は知るが関心はなかったと言うことなのだ。

国名:スリランカ民主社会杉共和国
人口約2000万人
首都:コロンボと思っていたら、大間違いだった。
遷都されて1985年にコロンボの東南に位置する、
スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ に遷都した。

でも僕がこの国に足を向けて寝てはならないということを知ったのは
戦争責任で、敗戦に土たんを舐めているときに、セイロンのみが以下の決議を採択した。
1951年、国連で蔵相のジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナが
対日賠償請求を放棄する演説を行い日本の国際社会への復帰に道筋をつけたのだ。
仏教思想を「国家」として実践された。
その恩を忘れることはできないのだ。


大きな地図で見る

こんなですが

<事務連絡>
わかりますか。

テグスのトップを全部を図のようなループにして
固結び(3回程度繰り返し)アロンアルファで固定します。

鶴を吊った分同じ作業をして
それら全部を別糸(組み紐など)で通して結束します。

これでどうでしょうか。

古代はロマン

だいぶメジャーになったけれど青森のキリストの墓。
インディージョーンズを見て、思い出し、しらべてみた。

青森県新郷村(旧戸来村)
http://www.net.pref.aomori.jp/shingo/07sight/sight-christ.html
村にとってもよい観光資源だと思うが、竹内古文書がもととなり昭和10年に発見されたというのだからまんざらでもない。興味は尽きない。ミステリーだ。

キリスト祭

この歌詞、「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ」がヘブライ語だと「汝の聖名を褒め称えん、汝に毛人を掃蕩して、汝の聖名を褒め称えん」と訳されるのが面白い。

ユダヤ失われた10部族の古代ロマン。
また、日ユ同祖論を読み返している。

いろめがね

秋葉原の事件後様々な波紋があるという。
ネット上に、避難の声に混じって、同調する声、予告する声、殺人者を褒め称える声
様々な責任、無責任な書き込みが後を絶たないという。補導されたものも現れたとか。
それもまた、メディアの恰好のソースになっている。

メディアの姿勢を見ていると、
そら恐ろしく感じる最近の若者像を創っていく。

けれど僕の周りには1人としてそんな人は見かけないゾ。
鼻にピアスしていようが、タトゥーをこれ見よがしにしていようが、
ズボンを地べたに引きずるように下げて歩くことはあっても
個の表現がそうであるだけで、素直な日本人さ。

世の中がどこかおかしいと言う前に、
色眼鏡をかけさせられている自分に気付くべきが先。

知らずうちに、いろめがねをぼくもかけている。

褒めて育てるのか、
けなし、欠点を指摘し続け育てるのか。

口に苦い塩もたまには必要だが、
長所を伸ばす教育がよいといわれ、だれしもそうだなと納得しているご時世ではないか。

メディアもおなじ。
塩はちょっとでよい。

娑婆世界の大変さは言われなくてもわかっているのだ。
1%のよさでも0.1%でも0.01%でもよい。

よさが見出せる出来事があるならば、もっともっと流したらよい。
それこそ、針小棒大はメディアの得意分野ではないか。

小さな奇麗事を探し見つけだし、膨大に報道し続けたらよいのだ。
夢を語ったらよいのだ。

方向を示したらよいのだ。

良いことを保護したらよいのだ。

繰り返し、人間の暗部を穿り出し、垂れ流しするのとどちらがよいか、

明白ではないか。
これ以上若者、幼きものを腐らせない、白けさせない為にも。

縁とは不思議・・・

市電好きに気が付いたのが、そもそも遅くて、
故郷横浜の市電全廃時である昭和47年の春。
僕らの世代には、フォーク熱やサーキットの狼で火がついた
スーパーカーブームが表面化してきた頃だった。

高校になりたての頃だった。
市電なんて過去の交通手段くらいに思っていた(その情報すら興味もなかった)
けれど、子供の頃からかかわりの深かった足でもあった市電
「行かないと後悔するよ」と姉の言葉に押されて家を出た。
高校生が12時近くに・・・

最後の最後、最終の花電車に間に合った。
桜木町駅前から1150型のお別れ電車の最終電車に飛び乗ることができた。
滝頭車庫までの20分程度の時間がいつまでも終わらなければいいのに
と思いながら乗車した。

終点に到着し通常ならば乗客は、車庫前で降ろされるのだが、
最終電車は車庫内まで僕ら乗客を運んでくれた。
満員の車内の乗客は、これが最後と感じたのだろう。
何を思ったのか、「記念だ」とばかりに今の今まで吊り下がっていたつり革を
ねじり切る者が現れた。
1人が始めると連鎖的に我も我もと車内備品を持ち帰ろうと騒然となった。

僕には到底できない蛮行を気持ち悪さを感じながら見ていた。
車掌(車掌はいなかったかな)も止めるそぶりを見せなかった。

まあそんなことがあって翌日には早速、早朝の車庫に足を向けた。

昨夜のこと、もう主のいないレールのみが、何事もなくそこに走っていた。
それが日を追うごとに、錆をふいてくる。なんともいえない光景だった。

そこからが市電マニアとして熱が上がっていく。
すでに故郷には存在しないわけで、俄然、周辺都市に興味対象は広がらざるをえなかった。

その点、都電は格好の対象となっていくことになる。
須田町交差点で初めて見た東京の市電(都電)はでっかかった!
6000形のでか顔をはじめ、7000、7500、8000形の独特の表情を持つ車輌の
行きかう東京は、一面ホッとする町でもあった。

一日だけ仮病を使い学校を抜けて、都電に会いにきたことがあった。
須田町ー浅草ー柳島車庫ー福神橋 錦糸掘車庫・・・
とにかく丸一日乗り続けた。

(まさかここに住むようになろうとは・・・)因縁とは、げに恐ろしい。

しかし昭和49年には荒川線を除いて東京市電(旧市内線)は全廃となってしまう。
僕も行く場を失い、さらに外に走り出すようになっていった。

今東京に住み荒川線も目の前にありながらも、どこか違う。
当時とどこかが違うと思いめぐらすのだが、
最近ようやく理解できた。

車輌の仮装ボディーが乗せかえられているもの、
当時のボディーにはあったステップが、ホームが縁石一つの高さから
高床に変更されたことで、きれいにカットされたもの。
と、郊外型電車の様相になってしまっている。
もちろんカラーリングも違う。
それでどうも思い出の糸がプッツンと切られた感じだったのだ。

最近7500形が3年後に全廃されると聞いた。
聞いたがピンと来なかった。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080507/trd0805072018015-n1.htm

が、このサイトを見ていてようやく理解できた。
http://homepage1.nifty.com/chianzu/toden/photo/s45/t_photo_18.html
全廃前の都電最後の新造車のあれね。
とばかりに頭の回路がようやく修復しはじめた。


7500形の代替新造車8800形

ああ野麦峠

秩父に気を良くして、満願したら次の行き先も決めている。

野麦峠。

自転車人生のスタート地点なのだ。
はじめての峠越え。

山本茂美の「あゝ野麦峠」
女工哀史を読んで、どうしても行きたくなった。
19歳の夏。

当時は、社会にひたすら疑問を持っていた時期だった、
胸を打たれての衝動的行動。

当時住んでいた横浜から名古屋経由で高山まで輪行した。

レーサーシャツにキュロット+レーサーシューズのいでたち。
今思うと、何とも恥ずかしくスタイルなのだが

当時としては、かなり突拍子も無いスタイルに映ったことだろう。

駅前で組み立て、多少日が高くなっていた高山の街を出発した。
ああ野麦峠の史実に沿って走るために、本番の野麦峠の前に
美女峠という比較的低い峠が待っている。
最初の関門が待っている割には、スローなスタートだったようだ。

美女峠は、なだらな坂。多少戸惑いながらも難なく越えたと思う。

ただ、本命の野麦峠へのアプローチに入る頃には、
正午をとっくに過ぎていた。

飛騨側の路面は、多少荒れてはいたけれど、全工程舗装路。

買ったばかりのケルビムのオレンジのロードを駆って、
勢い頂上まで・・・

と行きたかったが、それ、練習不足の体には、つらかった。

途中、水のみのため、
写真撮影のため、
と称しては休み、峠に立ったときは、日は、3時を過ぎ西に傾き初めていた。

すでにオレンジ色に染まり始めていた。
建て直されたお助け茶屋は、予想に反し近代的(観光的)で、居心地が悪く
お茶を一服いただいて早々に辞した。

泊まりの設備もあったように記憶するが、明日には戻らなければならない。

松本方面への下り道を探した。
山道は、あっという間に暮れることをフッとよぎったが、
後は下りとたかをくくっていた。

「下りだろ。大丈夫。ままよ」
勇み、泊まり客の間をすり抜けて、
弱き心を振り切って、松本側に滑り出いた。

さあ・・・。
それからが、地獄の一丁目の始まりだったのだ。
初夏とは言え、山の日暮れは早かった。
夜間を走るつもりはなかった。
雨になろうことも、これぽっちも頭になかった。

携行品と言えば、小さなリュックに、
非常食とヤッケと後続車よけの電装のリフレクターのみ。

そんな状態だから、もちろん前を照らすライトなど
持っているはずもなかった。

どうしてこんな軽装で出かけたのか、全く思い出せない。

ただ、ライトを持たなかったことは、
「後悔先にたたず」を正に地でいくこととなった。

峠を少し下ると・・・
舗装路と思い込んでいた路面が、こぶし大の石がゴロゴロ転がり
雨で洗われるのだろう岩が露出する最悪の路面。

熊笹で覆われる、車一台やっと通れる細い九十九折の林道が
急坂となっていた。
乗って走ろうものなら、石にタイヤが埋まる様相を呈し、こぶし石に乗り上げ数百メーター下がった所でパンクとなる始末。

とても、チュ-ブラーのタイヤで何とかなる代物ではなかった。

ここで、予備タイヤを使ってしまった以上、
松本までの数十キロをもうパンクさせるわけにはいかなくなった。

予想外の展開に、十数分で抜け抜けるところを
1時間以上をかけて歩いて下ることとなった。

しかも、プレートを打ち込んだ、レーサーシューズで。

そんなときに限って、「ああ野麦峠」の一節が脳裏を掠めるのだ。
故郷の土を踏めずに亡くなっていった女工たちの心境まで
みごとに湧き上がってくる。

道は狭く、熊笹に覆われて、足元もおぼつかない。
なんとも心細い話であった。

ついでにカラスの鳴き声まで、不気味に響く。

ようやく浮石のなくなった地点まで下がると、
日はとっぷりと暮れて、夕闇が迫っていた。

冷や汗なのか、脂汗なのかわからぬ汗をかきかき、
ここから始まる松本までの20kmを越えるダウンヒルを
楽しむ。はずだった。本来ならば。

しかしすでに闇。
人っ子一人いない山の中。

ライトは、腕に付けるレフのみ。

ままよと下った。

しかし無謀だということがすぐに理解できた。

新月だったのか、雲で月が隠されたのか、思い出せないが、
漆黒の暗闇で道が全く見えない。

目を凝らすと、
薄っすら、路面のラインがぼやけて見える。

渓谷沿いに下るので、一歩間違えば谷底だ。
恐ろしい話だ。
泣きたくなるとは、こういうことだと思った。

昼間なら、気味の悪い山間の随道も、
このときばかりは、水銀灯のオレンジ色の光に、
命を取り戻す生を感じる心持ちだった。

気味悪くぽっかりと吸い込まれそうな暗黒の口を空くダムを見ぬようにし、
若干の上り下りをとにかく、がむしゃらに猛スピードで通過した。

もし人が見たならば、疾走する僕の形相はどんなだっただろう。
いや、泣きついて「軒先でもいいから泊まらせてください」と申し出たかもしれない。

松本側の島々の町の明かりが見えたときは、
ほぼ放心状態にあった。

松本まで走る気力は、全く消えうせ、
時折人が行きかう新島々駅前のベンチにかまわず横になり
蚊の攻撃も全く意中になく転がって動けなくなった。

生きて戻れた・・・
パンクしなくて良かった・・・
心底思いながら。

足慣らし

なかなか巡礼に出かけられない。

これは、足を鍛えろとの天のおさとしだろうか。
・・・などと勝手に解釈し
走りこんでおこうとばかりに、
暫くぶりにローラー台を踏んでみた。

これがローラー台

自走式なので、前後の40cm巾のローラーの上に
いつも乗っている自転車を乗せて普通に走る。

前後のローラーどうしはベルトで結ばれていて、
ペダルを踏めば、後輪が回ると同時に前輪も回る。
だから、自転車はこけないでローラーの上を走る。

当然のことだが、止まれば転ぶ。
脱輪すれば、足はペダルに縛り付けているから
もろにひっくり返る。

後輪を固定したマシンもあるけれど、
バランス感覚が要求されるのでこちらのほうが
実走の感覚で走れる。

しかし乗り始めは、以外に勇気がいる。

今日30年ぶりに乗ったことになる。
壁に手をついたまま二三回ペダルを回したら
さっとハンドルに両手を移す。

ふらつくこともなく昨日の練習の続きのように
すっと乗れた。

「へ~~」
自分で驚く。
両手離しこそしなかったけれど、なんの戸惑いもない。
一挙に30年の空白が消え去った感がする。

一度身についたものは、しっかりと体が覚えているものだ。

余計な考えは、やたらに持たないことも大事だ。
悟らされた気がした。