メルマガ出せないよー

メルマガを書かなくちゃ。
準備号を発行して一ヶ月過ぎてしまった。

サボっているわけではないのだが
時間が物理的にとれない。
言い訳だ。
いいわけでしかないのは、充分わかっている。
書きたいことは山とあるのに…

福島から来た友人にも、書かないのはもったいないわよと
釘を刺されてしまった。
まだ、習慣化してないのもあるのだが、
直しと製作に追いまくられている。

職人として、販売員として、WEBマスターとして、店長として、
そしてライターとして頑張らないとね。

もうちょっと待ってて下さいね。

ジンクス、未だ破られず。

この仕事に就いて、20年を経過してしまった。
その間、何台(わが業界では何本と言うが)
仏壇を納めてきたただろう。

初めの頃のお客様は、よく赤飯を炊いて待っていてくれた。

仏壇が、ただの箱物ではないということ。
しかも、死者のみ霊箱の為だけのものでもなかった。
とてもめでたいことなのだ。

本尊と仏さん(ご先祖さん)をお住みになっていただくおうちを新築した訳で
上棟式にお餅やお菓子を、地方によってはお金を撒く、
それと同様のものなのであるわけで、しょうがなく買うというものだはないのである。

だから、こんな若造が(当時の話)、出向いても
「良くぞお持ちくださった」とばかりに
下へも置かない待遇であった。

当時は、たいへん恐縮したものだ。

そうした、仏壇であるから、こちらも細心の注意を払って
お持ちした。

特に天候には気をつけた。
気をつけても、相手はまさに水もの。

思うとおりにはいかない。

あるとき、土砂降りの中、出向く羽目となった。
「施主さんは、雨の日に納品なんて、いやだろうなあ」
と思いつつ車を走らせた。

都内ではあったが、緑が多い。
アジサイや花々に木をとられ雨のことなどすっかり忘れていた。
車から降りると、
むっと、むせ返るような暑さ。
「あれ」雨どころか、雲間から日が差している。

これは好機とばかりに、急ぎ運び込んだ。
運び込みが終ったとたん、まさしく「とたん」に
ザーと、すこぶる強い雨足となった。

その日まで気づかなかったが、「納めのときに雨の中」
ということは、一度たりなかったことに気づかされた。
1年前の話である。

以来、どんな不利な状況でも、
大舟にいつも乗っている。

今日も例外ではなかった。

うとましい

うとましい
国語辞典で調べてみた。

●いやな感じがして避けたい。いとわしい。

と、どの辞典にも大同小異だった。

人間関係には、頭ではわかっていながら、
感情は全く反対に働いてしまう関係って確かにあるにはある。

赤の他人とは、好かんと思えば会わなければよいのだが
怨憎会苦(おんぞうえく…会いたくないのに会わなければいけない苦しみ)
という苦しみも、2500年も昔からあるのだから、
今に始まったことではないわけだ。

ただ、親子の場合は、そうはいかない。

結婚して子供が産まれれば、誰でも自然と親になり
何人いても、子供は皆同じように、かわいいのだろうと独身時代は信じていた。
母性本能、父性本能というものは、自然と噴出するものだろうと・・・

しかし、実際に2人、3人、4人と増えてくると、
同じ愛情を子供それぞれに持つとは、ちょっと言い難い心があることに気が付いた。

親は無条件に子を愛せると言うのは、自分に限ってのことかもしれないが、
あるレベルまでは、懸命な努力が必要なのだとわかった。

親学と言う子供から教えてもらう実践学が必修なのである。

これは、生涯通じて学ばなければいけなようだが、
特に十月十日の間は、集中講義が必要なのだと思う。

さらに言うなら、男親は特に女親以上のガリ勉を要するみたいだ。

母親と子供は、お腹の中にいたときからのお付き合い。

けれど、男はオギャーと産まれてから、「こんにちわ」
とお付き合いが始まるわけで、この時間的、距離的、肉体的感性の違いは、
やはり、遅れをとっているように思う。

子育てを放棄する親の感情って何だろう…

一番大事な、大事な時期に、
子を通して己を育てられなかったつけなのだろうか。

愛情のギヤチェンジを間違えたのか、
チェンジせねまま、今に至ってしまった故であろうか。
ローのままでは、さぞかし苦しかろうて。

これでいいのかなあ

和歌山のお客様と電話で話をしていたら
なんだか話がずれる。
あれ?
何でだろう?

東京は、明日でお盆は終る。
和歌山のかたは、お盆に間に合えばよいという。

ん?
そうか…

日本の大部分は8月盆だったんだよね。

日本人として奥底にある感情としては
旧暦にそっての行事のほうが合点がいくことが多い。

お盆はその最たるものだろう。

明治新政府によって、太陽暦に改めた時点で
多くの日本の文化が改変された。

主要都市、特に東京は、政府のお膝元ゆえに
7月盆はいやおうなかったようだ。

仏壇屋にはありがたいことであるけれど
心情は、8月盆に軍配が上がる。

声を出したら言いのだろうが、勇気はない。
「もうそろそろ、文明開化の呪縛から逃れてみては?」って。

モチベーション

昼食は、何年もの間、近くの立ち蕎麦屋で
ぱっと済ませてしまうのが日課だった。

昼食といっても、お店の混み具合は水物。
お客様の入り具合を見ながら合間に昼食となる為に
お昼にはまず食べられない。

若い順に昼食に入るから、自分の番は、2時3時は当たり前。
4時過ぎもありなんなのだ。

もう夕食?とよく聞かれるが
「いや昼食」と意地でも言うことにしている。

熱いそばはいらない。

ざるそばは、あんなチョロチョロの海苔だけのために、
100円も高いのは解せないから、
ここは至ってシンプルにもりそばが定石。

ちょんと汁を付けてズット吸い込む。
あまり噛まない。
一枚食べ終わるのに1分で済む。
そのかわり蕎麦湯を飲む時間が4分かかる。
しめて5分。

通ったときは2年間ほぼ毎日通った。

立ち食いの時は、そばをゆでている厨房越しのカウンターが
僕の定席。
そこで、来る日も来る日も、同じ作業を見ている。
そばうち作業を見ていると、面白いことがわかってきた。

見ていて、楽しそうにそばを打っている店員の
そばは、旨い。
リズムがある。
踊っているようにさえ見える。

何が楽しいのか、つい秘訣のひとつも聞き出したくて
声をかけてしまう。
そのうち仲良くなっていくから、僕の顔を見ると
念を入れて作ってくれるので、よけいにおいしく感じる。

反して、そうでない店員に当たると、半日気分が悪い。
形だけで打っている。

果たして、水っぽい。
腰がない。
要するにまずい。

これは本当に際立つ違いだと思った。

自分の仕事では、大丈夫だろうか?

いつも楽しむ仕事にしているだろうか?

水っぽい、腰のないそばを平気で出せる、高慢な姿勢に
なっていないだろうか。

値上げに思う

去年の6月から線香業界は
値上げにつぐ値上げラッシュ。
2割り3割増しはあたりまえ。

理由は、小売店としては、理解している。

伽羅は、言うまでもなく、沈香のワシントン条約入り
老山白檀の高騰ダブル、トリプルパンチを浴びせられっぱなしの
原料急高騰は、線香業界を震え上がらせている。

仏像を彫るにも5寸以上の坐像は白檀では無理なのだ。
原木がない。
特に光背を作る幅広の白檀がまったく手に入らない。

そんな状況だったから、線香類の価格が改定されないはずはないだろうと
考えていた。

「よくやっていられましたね」とむしろ同情する。

けれど、うちは、足並みはそろえなかった。

何故?。

納得できなかったからに他ならない。

当店のように、香り用品を三本柱の一つに据えているような業態のお店の場合、
足並みをそろえないと言うことは、本当は死活問題なのだ。

ほとんど利益のないものを、有料の梱包材を使って
さらに、ネット販売の場合、
送料をお客様と折半しているような料金体系なので、その負担分も含め
下手をすると、売れば売るほど赤字になってしまう。

それでも上代価格を抑えてきたのは、
納得できなかったからなのだ。

お客様に対し、メーカーとしてどれだけ周知しているだろうか?
これは、小売店としても同じかもしれないが。

原料が高騰している事実を(材料は確かに高騰を続け
この一年でも2倍以上上がっているのだが)広告する努力もしないで
土壌が熟成することもないのに、種は蒔けないもの。

けれど、それをやっちゃった。

それに追随して量販店も、一部の大型店もかまわず値上げしてしまった。
でもこれでいいのかなあ…

どうしても納得できずいるうちに、
主力にしていたメーカーも4月に値上げしてしまった。

そろそろ考えないといけないか…

モチベーション

時間の流れが早い。

あれこれ予定しているのに
何にも手付かぬまま、日が過ぎること、過ぎること。
このジレンマから脱出しないと…

しかし、体力が続かない。
四万六千日や花火大会など、夜の10時11時まで元旦など

中田の引退で「モチベーション」の言葉がよく取りざたされている。
「サッカー界ではよく使われている言葉です」って
アナウンスされていたけれど、そうだったかなあ。

モチベーションはどんな分野でも大切なことでしょ。
「やる気を起こさせる内的な心の動き」
Hatena diaryの解説である。
「意欲の源(みなもと)になる「動機」のことです」
三省堂ワードワイズの解説である。

動機一つで、結果に影響する。天地の差が出る。

モチベーションには5段階あるとか 。

戦後の食べられさえすればという、自己生存の動機というレベルから
中田にみられるように自己実現への欲求の段階まであるそうな。
(我が家は、子らをたべさせなあかんから、第一段階だ)

商売をしていて、仏壇屋が物を並べていて
簡単に食べていける時代ではなくなった。
このことは、痛く感じる。

密教法具や経典、経典解説書、写経等々関心を持たれるお客様が
すこぶる多くなったこの現実。

考えるまでもなく、数字は語っている。
このことは、自分なりにも肌で感じさせてもらえる。

「モチベーション」を調べているうちに
面白いサイトに出会った。
http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/Teian1_4/iikaego.html
国立国語研究所「外来語」委員会の書替え語提案。

最近カタカナ語、多すぎるものね。
知らんけれど何となく使っている言葉って多い。

また後で読んでみよう。

また寄り道が増えてしまいそうだ。

オーダーで思い出すこと

オーダーのご依頼が多くて、お客様にご迷惑をおかけしている。
たいへん心苦しい。

創作は、もともと好きなので、いつもぞくぞくするくらい楽しい。

自分流は、納得しないと、即、やり直ししてしまうものだから
待たされる側はたまったものではないだろうなあ…といつも思う。

お客様側から見れば、ただ、時間ばかりの経過が目立つことだろう
と、心が痛い。

昔、趣味の自転車で、
あきれるほどフレームをオーダーしては、散財していた。

ある日、憧れだった日本一と言われる職人集団に
清水の舞台から飛び降りて、注文をおこした。

夢を描きながら、何度も何度も設計しなおした。

シートチューブが何mm、トップチューブが何mm、角度が何度 etc
と、自分の特殊な体形似合わせ、細かく細かく指定しお願いした。
一言もなく受け取った。

仕上がりの予定を聞いて唖然とした。

「1年は、お待ちくださいね」と鼻からくじかれた。
そう…まあ、納得のいくものが欲しいから、どうぞよろしくと頭を下げた。
1年、ワクワクしながら待った。

予定日が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ
少し記憶から薄れていた。
ワクワク感はどこかに行ってしまっていた。

ついに連絡する。
「どうなっていますか」
「あ、できていますよ」
あまりにもあっけなく完成の返事だったので、拍子抜けをした。

フレームの完成までにと、関東一円をたずね歩き、
集めたオールドパーツを
組み立ててみると、とんでもない事実と直面するのだった。

なに!
ペダルが前輪と接触する…

スポーツ車には、当たり前のトークリップと言う金具が付属する。
なんとそれが、前輪の泥除けとぶつかるのだ。

試しに試運転をしてみると、みごとにカーブに差しかかると
足をとられ、こけた。何度もこけるのである。

ワクワク感どころの話ではなかった。
1年半以上待ったあげく、半年分の給料が飛んでいく…のである。

日本一の職人なら、なんで一言、言ってくれぬのか…
ふっと心をよぎった。

お客様からクレームをいただくときは、
いつもこの昔話を思い出してしまう。

ちゃんと職人としての義務を果たしただろうか…
やれることは、なかったのだろうか。

ずいぶん、できたぞ。新交通システム。

ユリカモメと同じ新交通システムが日暮里にできる。

足立区のドイトに行くたびに、何だろう、なんだろうと
いつも首をかしげていた。

新交通とわかったのは数年前。

でも、いつまでたってもピアーの工事ばかり、
桁がつながらないねーと思っていた。

それが来年19年に開通と聞いてからは、
あれよあれよというまに、ドーンとつながってしまった。

最後の難関だったろう、荒川をまたぐこの区間は、
きゃしゃな造りの他区間と違い、どの区間にも増して
頑強なつくりになっているように見える。
なかなかきれいなカーブと独特な構造で美しい。

来年が楽しみと思いつつも…
でも営業車両には、車掌を乗せてよね。
(運転手はいらないのだろうから)

スローライフには、サービスの低下は、
含まれていないはずですよね。

讃祷歌

今日はどうしたものか、ぜんぜーんお客様が少ない。
雨のせいにはしたくないが、少ない。
おかげで、念珠堂の倉庫の整理に汗を流すことができた。

おかげで、懐かしいものを発見した。

「歌マンダラ 讃祷歌 31回公演」
10年前の公演のパンフレット。
この公演の直前まで新宿のお寺まで練習に3年通っていた。
師の理想に共感したこともあったが
何より旋律の美しさに、魅了されつづけたためである。

さらにさかのぼること8年前(通算18年)にコラムで紹介されていた
讃祷歌と呼ぶ聞いたこともない楽曲に興味を示した。
讃美歌?祷り?さんとうか?山頭火?
?が4つも5つもついてしまう
試聴テープを依頼するも、期待はしていなかった。

まもなく送られてきた。

しかし、一度、耳にして魅了された。
感動した勢いで、感想をしたため、ポストに投函していた。

ある日、お店に電話が入った。

新堀智朝尼ご本人からであった。
はがき一枚の感想文に、作者がわざわざ連絡をくださった。

「こんなにストレートな感想を書いてくださってありがとう」
開口一番、か細くも芯のある声だった。
興味がわいた。

新宿参宮橋の小さな庵に、訪ねるのはまもなくのことだった。

お付き合いすればするほど
どれほどの教訓を与えてくださったかろうか。

早々に彼岸に渡られてしまったことを心から惜しむ。

パンフレットには、96年5月と記されている。
それまでの8年間、実際、歌ったのは3年間ほどだったろうか。
歌の世界には程遠いが、プロの声楽家と曲がりなりにも(大曲だが)
肩を並べて歌う機会を与えてくださり、歌の楽しさを伝授していただいた。

新堀智朝尼。
天才的仏教歌作曲家。

日常生活中、仏前でお勤め中、場所にかまわず、
自然と口からこぼれ出る曲を書き留めていかれた。
亡くなるまでの僅かな期間に240曲を越える曲を書き留めて逝かれた。

音譜一つ書いたこともない、一尼僧が著し続けた業績は大きい。
文字通り「天賦の才」と思っている。

宗派宗教を超えて、歌の世界で融和させようと試みてこられた。

「十年、世に出すのが遅かったわ…」
僕にポロリと、口に出されたことのある言葉だった。
今思えば、ご自分の死期を感じておられたのだろうか。

世の乱れを心から悲しみ、
女学生のような笑顔に似合わぬ、痛烈な(大人社会への)警告、
宗教界への警笛を鳴らし続けられた姿。

70才を越えてなお世界を飛び回られた。

そんな姿を、死の直前まで、間近に接することができたことは、
見えざる宝だった。

次の一歩を出す迷いを感じるとき、師の言葉を規範としている自分に
今も気付く。