異体同心 ぼくが仕事を始めた頃

最近、2社から取材を受けた。

一社は業界誌、もう一社はメジャー誌
今までも、媒体は様々だったけれど、
何度か取材していただいてきた。

おもしろいことに、質問は、だいたい同じ内容
そして、同じリアクションになることが多かった。

今でこそ歳相応の顔になったけれど、
30代や40代の頃は、業界的には、歳が若かった。
(もともと若く見られがちではあるのだが・・・)
それが責任者をやっているのだから、
仏壇屋の跡継ぎと思われてもしょうがない。
見るからに極楽とんぼだったことは言うまでもないが…

「代々こういうご商売をされてきたのですか?」
だいたい、この質問から入る。

僕が元エンジニアであり、仕事に誇りもあったし、
心から愛していた。
反面、絶対やりたくなかったのが商人だったと話すと
ほぼ、身を乗り出してこられた。

なんで畑違いの業界で起業したのか?
しかも70軒も群雄割拠している浅草に。

十中八九そんな質問になる。

「僕が学生時代からの親友を自殺で失って、
それまでの価値観が音を立てて崩れちゃったんですよ。
そのときが人生を見直すきっかけになった」

と応えると、同情はできるけど、
仕事を替える理由にはならないのでは?
とでも言いたそうな…
何ともいえぬ空気が、その場を漂う。
キョトンとしながらも、何となく納得してくれる。
そんなものかなと言う顔に変わる。

そんなバかもいるのかと思ったのかもしれないし
あくまで取材だと割り切っちゃうのかもしれない。
それとも、そんな方程式を誰もが心に持っているのかもしれない。

でも事実、自分でも不思議なのだけれど
本当にそう思っていまったのだから仕方ない…

理想の足が外れたとき、人はどう対処するのだろう
どう思い、どう動くのだろうか。
興味がある。

当時、妻や子供への責任が伴っていたら、
たぶんこの仕事への縁は生まれなかっただろう。
あらゆる縁が重なり合って今に至る縁が生まれた。

死ぬほどの心の痛みを持ちながら、
相談に乗ってやれなかったトラウマは、
ある時期まで、この仕事への原動力になっていたと言える。

電キチ

新交通システムの日暮里ー舎人線
暫く見ない間に、すでに、全線完成していた。

各駅舎の工事が急ピッチにすすんでいるようで
買い物に行っているドイトあたりにも駅が出来上がり
車を使用しなくても来れるゾと内心喜んでいた。

橋梁部分が、なかなかのスポットだと思う。

センターピアのすっきりした橋脚で
交通の邪魔にならない。

新たな路線完成間近に、
つい、電キチ(または「鉄」ともいう)の血が騒いでしまった。

僕のジンクス

夕方、懐かしいお顔に…
というより「頭」に再会した。

ツルンとしたこの頭は、
あ!やっぱり。

有名な大寺院の住職なのだが、
仲間の待ち合わせに時々当店を利用される。

つい最近も暫くお逢いしていないなあ・・・
などと考えていたばかりだから
お!と息を呑んだ。

逢いたいなあと思うと、
決まって判で押したように出会わせてくれる。
自分で驚くくらいだから、たいした予知能力でもないのだが。
ぼくとしてのジンクスなのだ。

けれど、思い続けていると、
本当によくよく出会わせてもらえるだ。

こんどは、誰を思い続けよう。
(あ!打算ではだめなんだった…)

向学心

念珠直しは、僕にとって格好のアイデアの素となる。

人が変われば、考え方も変わる。
作り方も、手順も、玉の選びも。

感心したり、畏れ入ったり、
「人の振り見て…」も、けっこう多いが、それはそれで
次に作るときの肥しになる。
経験値は唯一の財産なんだ。

取引先の営業マンに、
若いけど宝石の鑑定士の資格を持つ者がいる。
アメリカまで学びに行っていた。

「いいね、基礎ができているから」
と投げかけると、
「経験にはかないませんよ」
ときた。

そうね。経験だけは人一倍してきたけどね。
とは思いつつも…
学生に今一度戻れたらなとの思いを、
本音のところには、消えることなく温存しているのだ。

巡拝軸の横軸

マンション生活には、床の間がない。
(神の寄る床がないなんて建築屋さんなんとかしてよ)
すると、どんな立派に仕立てても、祀る場所がない。

誰もが考えてしまうポイントだろう。

結局、空いている壁に吊り下げることに
ならざるを得ない。

そんな現代の住宅事情には…
横軸

表装も生地によって
イメージは全く変わってしまう。
いつも金襴ばかり目にしているから
緞子(どんす)で表装するのも素朴でいい。

かみなり!

時ならぬ稲光に飛び上がった。

それなりに心の準備が整ってからにしてね。
座っていた椅子からずれ落ちた。

滝のように雨は降ってくるし・・・

危うく自転車で出かけるところ
ぬれねずみにならずにすんだ。

さっきの浅草の空を見てくださった方は、
不慮の雷と雨に遭わずに済んだでしょう・・・きっと。

浅草の空

暗いなあ。
秋の長雨の雰囲気?

秋に向かってのプロローグと思えばよい。
だんだん涼しくなっていくのか…

秋…

なんだか、おなかがすいてきた…

文化の秋は程遠い

十一面観音と

難波敦朗氏画の墨絵。
正しくは十一面千手観音菩薩だが、
開店のとき記念に頂戴した絵だ。

仏画が好きで30年、事あるごとに見てきた。

気が付くと、十一面観音が、
あるときやたらと身の回りに多いことに気づいた。
気づきがめばえると、輪をかけて意識しだすようである。

正面のみから眺めるのではなく
横は当然のこと、真後ろも見たくなる真上からも
真下からも除いてみたくなる。
国宝だ重要文化財だというだけでなく
お寺にあるものですらひっくり返すわけにはいかないのだから、
ないものねだりと言わざるを得ない、
だだっこのようなものであると心得てはいる。

さておき、どうして十一面観音に心が惹かれると
心の奥底で感じていてもほのかな恋心であって、
誰に口にするわけでもなかった。

「あなたは十一面観音様がお守り下さっていらっしゃるわね…」

と、霊感の強い尼さんやお坊さん、霊能者と言う方々から
続けざまに言われたことがある。
口裏を合わそうにも、それぞれ僕を通じてしか全く面識がないのだから
どう疑ってかかってもどうしようもない。
語られた言葉は、事実は事実なのだ。

八方に目を配らないとならないか…
千手まで増えちゃったから、
隅々まで手を尽くさないといけないということか…

などと、思い込むことにした。

10年前の話だ。

このあとネットの仕事に手を出すことになり、
文字通り昼夜関係なく動き回ることになった。

最近、日蓮宗の行者さんに
「この絵は、心がはいっているなあ…すごいよ」
と、久しぶりに感動の声をいただいた。
そして「がんばってね」

どうやら…
まだ暫くは、休ませてはくれないようだ。