縁 

子供の授業参観に来ると、
窓の外がやけに騒がしい。

近くの窓から覗いてみるとJRの線路際。
行き来する電車がその原因だった。

そうかと目を左に移してみると広大な墓の波。

寛永寺霊園越しに寛永寺が遠望できる。

窓を開ければ、霊園と寺。

どこまでお寺に縁があるんだろうか・・・

修理品 

光明真言の念珠。
プラスチック製。

四国番外札所(二十ケ寺)を廻ると手に入る念珠玉と
同じ作り方をしている。
四国の場合は、表に寺名、裏面に番号が入っているので、
難なく組みやすい。

が、こちらは梵字のみ、しかも、
バラバラになっていてさっぱり判らない。
梵字が型押しで作られたあと、
クリアーのプラスチックを流して埋めたものなのだが、
梵字にくせがあるのと、金型のエッジがたっていないためだろう、
不明瞭で、老眼の進みつつある目にはつらい。

フツフツ何やらざわめいてくる。
平常心を取り戻しつつ
これも修行と心を入れ替えて…

にらめっこすること1時間。
オン.ア.ボ.キャ.ベイ・・・

「オン」の字がピカッと光るではないか。
と、思ったら
あとは、するすると謎が解けた。

不思議だこと。

ようやく、なんとか形になった。

共に生きる

「この間、脳梗塞やっちゃってね…」
「足が上がらなくてね…」
「腫瘍が見つかっちゃってさあ…」
「最近、老眼で目がみえないのよ…」
店に、訪ねてくださるお客様との会話。
すこぶる多い健康の話題。

黒々としていた御髪は、すっかり初冬の富士のように白くなり、
つやつやのお顔も、深く年輪が刻まれるようになり、
僕を誰かと違えて話こんでみたり、
20年、30年前には、若々しくいたお客さまも、
時の経過は容赦なく等しく、老いというレタッチを加えている。

仏壇という商材相手ゆえに若いときは、
背伸びをしながらの会話が多かった。

足が痛いというのは、どう痛いのか。
目が見えないとどういう心持ちになるのか。
足を引きずってみたり、目に幕を張ってみたり、
実験したり想像しながら、お年寄りの心痛に同調できるよう努力した。

可愛がってくださった大先輩たちは、
順次世を去り、現役を退く年代になった。

まわりの様相も変化した。
会話していてもどんどん等身大の内容に変化していた。
努力するまでもなく、痛みは痛みとして、
つらさはつらさとして、自分も感じるような年齢になっていた。

「諸行無常の響きあり」と詠われているとおり、
天体からミクロの世界まで、変化しない物は、
何一つないのであって、老いさらばえるのは当然の事なのだ。

変化しないものがあるとしたら、
それこそ妖怪変化の口だろうと思うのではあるが、
僕の感覚の中には、実像が存在しなかった。

心のどこかに無常を受け入れていない部分があったのだろう。
これも執着か…。

人の振り見て…で、
上さんとの会話に「あの芸能人ふけたねえ」なんて言おうものなら、
「大して変わらないよ」おまえも鏡見てみろとばかりに、
たしなめられてしまうわけで、
「時」というレールは同じ向きに敷いてあることに気付かされるのだ。

自然の移ろいを当然と受け入れるように、

青春から朱夏となり、過ぎれば白秋、黒冬に移る。
刻まれる年輪もごく自然のこととして受け入れ、
ともに成長するお客様を鏡として、受け入れていくことが楽しみとなる。

これが商売の妙味かなと少し感じるこの頃だ。