浅草にも海・・・

水辺ばかりがうみじゃあない。
かもめも海に浮んでるの図。

駒形橋からの遠望です。
あわてて、橋まで走っていきました。
どちらが上か目が回りそうに・・・

これでも都会に自然はないですか・・・

明日は雨かな。

ブーム・・・とは思えないのだけれど

台湾に初めてでかけた12~3年前、
一番初めに驚いたのは、熱気。
日本とは緯度の関係で、亜熱帯の蒸し暑さであった。

二番目に驚いたのは、家族の結束の強さと信仰心。
日本のお寺は夕刻になれば、おしまい。
下手をすれば門まで閉じられてしまう寺院すら多い。
けれど、泊まっていたホテルを抜け出し夜店見物を兼ねて町にくり出すと、
観音を祀る台北の寺院には夜10時を過ぎても参拝客の足が途絶えず、
線香の煙で大変な状態になっていた。

何かのお祭り日になっているのかと聞くと、日々こうだという。
日本に住む台湾人の友が一日中仏前に線香を切らさなかったのを思い出した。
何も特別なことではなかったのだ。
随分お線香が売れるだろうなあ…などとは思わなかった。

三番目は、腕輪念珠の大きさ。
道行く男女を問わず、道行く人の腕にしっかりつけていた。
ブレスレットかと思うほど腕輪念珠が一般化していた。

15~20mmはあろうかと思う腕輪念珠をきゃしゃな女の子が腕につけてる。
日本ではまだ目立たない小さなサイズしか売れない時代。
いつか日本もこうなるかななどと少し思った。

タクシーのルームミラーには、
やはり念珠がかけられてお守り代わりにしているという。
しっかりと仏教(道教も)が根付いていることが肌身に感じた。

最近、大玉の腕輪がよく売れるようになってきた。
テレビでも場違いなほどの大玉が芸能人の腕を飾っているのを目にする。
そのあたりが、影響しているだろうことも感じはする。

トレンディーと言えばそれまでだけれど、
本質を知ってつけてくれるようになればもっといいなあなどと
淡い期待も捨てていない。

四国番外20ヶ寺のお念珠

四国お遍路に出かけられて机や仏壇に眠ってはいないだろうか。
これは、別格20番札所廻りのときにいただく念珠玉だ。
一ヶ寺一玉づついただいて満願すると20玉手元に残る。

で、その玉を付属の紐で通してつなげば立派なお数珠に仕立てあがると言う寸法。
けれど、以外にそのままと言うケースが散見される。

ここはやはりプロに任せてくれないかしら…
と気楽に思うのだけれど、本当は、自分で念珠を仕立てるのも修行のうち。
(なんてことを書くのは自分の首を絞めるようなものかな?)
とも思いつつ…すいません根が正直なもので…

紐房では飽き足らない方には頭房や他の方法もお勧めします。

バランバランの玉を親玉を中心に、順番どおり根気良くつなげていきます。
玉の上下を間違えないように。

そして、編みこみ終了。
ここまでくれば完成間近。

そして完成!

自分でまわられていただいた玉ならば、
なおさら愛着が湧くというもの。

勤勉の哲学

江戸時代初期の禅僧、鈴木正三(すずきしょうざん)は「萬民徳用」の中で
「人々の心の持ち方が自由になり、人々が心の世界の中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、そんなことは何もしなくても、毎日、自分に与えられたそれぞれの仕事に、精一杯打込んで働いていれば、それが人間として完成していくことになる。」
と、世俗的な職業に励むこと自体が、仏道修行であると説いている。

商活動イコール仏道修行
農活動イコール仏道修行・・・

日本人の行動規範には、そうした仏道修行つまり人格形成の道が
その勤勉さと深くかかわっている。

お釈迦様の生きておられた時代には、出家集団である比丘や比丘尼がおられた。
と同時に、優婆塞(うばそく)や優婆夷身(うばいしん)の男女の在家者もいたわけで、お釈迦様の言葉はそれぞれに語られたようである。

しかし、現在に伝わる経と呼ばれるものは、釈迦入滅後、弟子によって編纂されたわけで、
在家信者に語られた言葉は、そこには表されなかったと記憶している。

戒にしても律にしても、出家者のそれであって、在家信者に向かっての言葉ではなかったことを考えると、職業を懸命に勉ることが、仏道修行であると明確にあることは
在家者にとって、何より励みになることなのだと思う。

近江商人の行動規範を作った石田梅岩の石門心学(せきもんしんがく)には、
商人が儲けを生むことの正当性をしっかり謳っている。

一番やりたくなかった商人を転換させてくれた古人の思想。
ふっと思い出した。

麝香(じゃこう)のお香

本麝香(じゃこう)を使用したお線香はなかなか見つからない。
よほど高価な香には若干含まれているようだけれど、
麝香と銘打つのは、なかなか今の時代、勇気がいるものだ。

入手困難なのだから仕方ないといえば仕方ないけれど、
ないとわかるとますます香りを聞きたくなるのも人情。

お客様の注文に応じ、
京都の香司から細いパイプで取り寄せて聞いてみた。

一箱は、お試し用にとっておくつもり。

ああ。なるほどね。
確かに麝香の甘さが他のベースの素材に引き出されている。

でも麝香が立ちすぎてもちょっときついかな。
僕には大観の伽羅と同時に焚いてみるのが、
よいように思った。

ここも人間社会

最近メールの確認に時間がかかりすぎる。

アドレスを公表していることもあるけれど、
メーラーにフィルターをかけても
飛び込んでくる300通を越すスパンメールを処理するのに
最近は辟易してきた。
海外からのメールもうるさくなってきた。

お客様からの大事なメールを読み落とさないようにと思うから、
読みたくもない下品なコピーも一応は目に障る。
どうせいやでも時間がとられるならその中からも、
人を惹きつける方法とは…
などと、コピーの秘訣を盗もうかとも思うけれど、
あまりの下品さに途中でいやになる。

人間社会である以上、表もあれば裏もある。
ネット社会も人間社会そのものだからこうなるのは
しかたないことだけれど、健全でないことは確かだな。

ネットいじめなんていうのもあるんだね。
まあ道具をどう使うかは、人の自由度だとは思うけれど…

でもそろそろ大人の段階に育っても良いと思うけれど。

観音菩薩

観音像を写仏されて送られた。
仲良くなったシンガポールのお坊さんからである。

真摯な修行のスタイルは、胸を打つものがある。

自らの血をしぼり書写された。