ループタイのお直し

ループタイのヘッドを利用して身につけれるようにとのご希望に
最終的にこうなりました。

ループタイの大穴をどう利用したらよいか。
ここら辺は腕の見せ所?

まあ、なんとか落ち着くことができて一安心。

戸籍の電子化

朝の三時に目が覚めてずっと調べものをしていた。

というのも、昨日NBさんと話をしている中で憤懣やるかたない思いに駆られたからなのだ。
どう考えても理解に苦しんだ。

戸籍を調べに母親と区役所に出かけた。
そこの窓口の反応は、
「お調べの戸籍は見つかりません」というものだった。

「戸主」で調べても、「家族の名」で調べても検索にかかりません。

それはおかしいと問い詰めた。数年前には同じ戸籍課から戸籍の表記の訂正を打診してきたという記憶があると伝えた。
職員は「勘違いじゃありませんか」
という内容のものだったというのだ。

「検索」という単語にもしかしたらコンピューター化?
ピンときたNBさんは、窓口の職員に戸籍が電子されたのはいつですかと聞いた。

職員は、19年に行われたと答えた。職員は動揺したようだった。気付いたのだ。
「それからは私は相手にされなくなって、母ばかりが標的にされてしまった」

結局、平行線のまま役所を後にした。

この町で育ち、仕事をし、嫁ぐ日までの歴史はどこへいってしまったのか・・・
腹が立つやら情けないやら、買った最中を振り回して帰ったと話してくれた。

窓口の職員の不誠意がもろに伝わる話だった。

「よく我慢しましたね」
僕ならそこのトップにねじ込んでしまうだろう。

戸籍が出ません。ちょっとしたミスでした。という単純な問題ではないのである。
その人の一家の歴史に関わる重大な問題なのである。

戸籍が初めて作られたのは明治5年。
明治4年4月4日の太政官布告によるものだ。
明治期に二度、大正に一度、昭和に一度、戸籍は法の改正によって作りかえられた。

戸籍法の改正で戸籍が作りかえられると古い戸籍は即刻処分されるということはない。
80年の保管義務が生じるのだ。
(逆に言えば、80年を過ぎたものは処分してよいということでもある)

その古い戸籍を改製原戸籍と呼ぶ。
(結婚や脂肪で戸籍から抜けた戸籍を除籍簿といい、これも80年の保管義務がある)

電子化される前の紙媒体の戸籍は、改製原戸籍となり80年保管義務が生じるのだ。
それを調べない怠慢さに血が逆流する。

聞きながら、戸籍を扱うものの姿勢を疑った。

僕の手元には明治19年式の戸籍の写しがある。
平成3年に家ルーツ調べで小平市役所に出かけて行ってもらってきたものだ。もう役所には残っていないかもしれない。

家とてヨークシャーのかけ合せで生まれてきたわけではないのだ。
ちゃんと親があり祖父母がありそのまた祖先がいる。

戸籍法が施行されて初めに作られた俗に「壬申戸籍」と呼ばれる戸籍は身分制度の遺産を受け継いでいて人権問題に抵触するという理由から、法務局に封印されてしまっているので、僕の保管している原戸籍が最古のものとなってしまった。
しかし、この資料だけで1844年まで遡れる。代数でいえば7代となる。

達筆な文字でこと細かく記載されているので、読み解くにはなかなか難解だが、内容はとても興味深い。

地名一つとっても、神奈川県多摩郡鈴木新田→東京府北多摩郡小平村鈴木新田→東京都小平市花小金井・・・と同地点でありながら行政の都合で刻々と変化する。

明治の時代に千葉に転出して村を創っていた者がいたり、麻布区に住んでいたりとか一族の歩みの概略も理解でき、同時に町の変化も想像するに難くない。

ということは、この資料は家の歴史のみならず町の歴史ということであり文化なのである。
自分というものが突如として地上に産み落とされたのではないということなのである。
先祖がいて、育てる環境(町)が綿々と続いてきたということなのである。
少しずつ少しずつの歩みが蓄積されて発展し、今があるということなのだ。

事情で過去を残したくない人を除けば、本来それをも含めて宝とならなければならないのだろうが・・・
戸籍には、着実に先祖たちが残し続けてきた足跡が記録されている。

そこのところを、戸籍を電子化する皆さんにはとくと理解してもらいたいものだと思う。

名前一字にも意味がある。つまり思いが込められているということなのだ。
草かんむりも草の廾もあれば十十もある。
徳にも德も徳も意味はことなる。その字にした理由があり思いが込められている。

人や家の歴史を取り扱う事の恐ろしさを感じて欲しい。
と同時に文化を扱っている誇りを感じとって欲しいとも思う。

駒形堂

駒形橋が架かる明治期までは、右に見える浅草通り辺りに鎮座ましましていた。

浅草寺殺戒にあたる。

江戸時代の古地図には広小路の雰囲気と渡しの賑わいが見える。