「この間、脳梗塞やっちゃってね…」
「足が上がらなくてね…」
「腫瘍が見つかっちゃってさあ…」
「最近、老眼で目がみえないのよ…」
店に、訪ねてくださるお客様との会話。
すこぶる多い健康の話題。
黒々としていた御髪は、すっかり初冬の富士のように白くなり、
つやつやのお顔も、深く年輪が刻まれるようになり、
僕を誰かと違えて話こんでみたり、
20年、30年前には、若々しくいたお客さまも、
時の経過は容赦なく等しく、老いというレタッチを加えている。
仏壇という商材相手ゆえに若いときは、
背伸びをしながらの会話が多かった。
足が痛いというのは、どう痛いのか。
目が見えないとどういう心持ちになるのか。
足を引きずってみたり、目に幕を張ってみたり、
実験したり想像しながら、お年寄りの心痛に同調できるよう努力した。
可愛がってくださった大先輩たちは、
順次世を去り、現役を退く年代になった。
まわりの様相も変化した。
会話していてもどんどん等身大の内容に変化していた。
努力するまでもなく、痛みは痛みとして、
つらさはつらさとして、自分も感じるような年齢になっていた。
「諸行無常の響きあり」と詠われているとおり、
天体からミクロの世界まで、変化しない物は、
何一つないのであって、老いさらばえるのは当然の事なのだ。
変化しないものがあるとしたら、
それこそ妖怪変化の口だろうと思うのではあるが、
僕の感覚の中には、実像が存在しなかった。
心のどこかに無常を受け入れていない部分があったのだろう。
これも執着か…。
人の振り見て…で、
上さんとの会話に「あの芸能人ふけたねえ」なんて言おうものなら、
「大して変わらないよ」おまえも鏡見てみろとばかりに、
たしなめられてしまうわけで、
「時」というレールは同じ向きに敷いてあることに気付かされるのだ。
自然の移ろいを当然と受け入れるように、
青春から朱夏となり、過ぎれば白秋、黒冬に移る。
刻まれる年輪もごく自然のこととして受け入れ、
ともに成長するお客様を鏡として、受け入れていくことが楽しみとなる。
これが商売の妙味かなと少し感じるこの頃だ。