副産物

店を一日閉め工場見学をさせてもらったが、
思わぬ副産物として、下町散歩の時間を与えられた。

当初は浅草から車を運転して全員を運ぶつもりで計画したが
集合の時間の早さに恐れをなし、現地集合となるにおんだ。
一人残される。

聞こえは寂しそうな余韻があるが、運転しない気楽さはありがたい。
なら自転車で行くかということを何気に口に出た。

自分の足で池袋までは行ったことなかった。
例の如くママチャリ号の出動と相成った。

片道14~5km程度だからたいした距離ではなかろうと思いつつ、
主催者が間に合わないとどうなるの。パンクしたらどうするの等々不安さも残るが
Aの仮面をかぶったB型人間は、エイと飛び出した。

東京と言うとどこまでも平坦なイメージがあるのだが、
自分の足を使うと意外とだらだらと坂道が多い。

最近国道何号線とか都道何号線という呼称から、
江戸通りなどの愛称の通りがよくなった。
それに伴う形で○○坂という古来の名称が復活してきて、「坂」が東京にはごまんとあることに気付くのだ。

車では、巡行速度4~50km。
路傍の道標も気付かぬままあっという間に見過ごしてしまうし止れない。
けれど、徒歩や20km前後の自転車からの目には、
面白いように様々な情報が飛び込んでくる。

以下道草の数々。

不忍池から観音堂を望む。枯れた蓮とすすきは無情を現すのにちょうどよい。

少し予定を早すぎたので、時間調整に護国寺に寄る。
本堂主任が変わってしまってからは、トンと縁がなくなってしまった。
警察出身の素敵な住職だったけれどどうしているかな。

雑司が谷では都電を待つ。

大塚でも都電を待つ。

寒椿が沿道を装う。

千駄木では、表通りを避け路地裏を走る。
こんなところにと思う袋小路に桜の古木と出会う。
花をつける頃にまた来よう。

上野ではコリアタウンをのぞき、
30年通う店に顔を出し好きなエゴマを仕入れる。

とまあ、思わぬ副産物が付いてきたけれど、
自分の住む町を違う角度で見られたのは収穫だった。
交通弱者に心配りのない道ということも含めて勉強になった。

何年ぶり?

何年ぶりだろうか。
今日は店を閉めて社内研修をした。

鎌倉の香司に行こうかとも思ったが、
まず香の素材や製作工程がわからないと
と言うことで、業界NO1の日本香堂の池袋工場に決めた。

断腸の思いで貼って出かける。

有楽町線の要町駅から歩いて数分の住宅街の中に
池袋工場は位置している。

店のみんなは駅で待ち合わせながら工場に集まる。
僕は自転車で現地集合。

浅草からママチャリでも40分あれば着いてしまうのだから
近い近い。
こんな都会の真ん中のしかも住宅街のまんまん中に香りの工場が、
どんとあるわけで、知らない人は、ホント驚くよ。

工場に近づくと以前と様子が違う。
外見は、日本香堂のNKロゴがあちこちで自己主張している程度の変化はあったが
何も変化しているようには見受けられない。
しかし・・・絶対何かが違う。

そう。

周囲に漂っているはずの線香の匂いが極端にしないのだ。

あとで工場内部を案内されて、ようやく納得することができた。
つまり、脱臭のシステムを駆使して、線香の匂いを表に出さない努力をしているのだ。そうすることで環境を守る努力をしている。


(材料の話し)(材料を練る工程を案内された)

製作工程を見学後、今度は場所を青雲記念館にかえて線香の素材のレクチャーを受ける。

普段は製品の姿となったものしか目にしないから、
なかなかここでしかお目にかかれない素材体験は貴重だ。

龍涎香(りゅうぜんこう)や麝香などは最たるものだろう。

マッコウクジラの結石だ。

消化されないイカのくちばし部分が結石化したの塊というだけあって、近寄って見るとまさしくその通り。


麝香鹿の香のう・・・

なかなかお目にかかれない珍品だ。

などなど、伽羅の数々も含めて、材料の豊富さには
何度見ても感心するばかりである。

さあ明日から、販売現場で何か変化あるかなあ・・・

オーダーストラップ

追加ありがとうございます。

左から、
1.ぺリドットの小さい玉がありましたので、水晶を主玉にして、
 二天に入れてみました。
2.ルビー主玉で赤メノー二天、親玉で組んでみました。
3.水晶を主玉にラベンダーを二天、親玉で組み込んで見ました。
4.青メノーはちょっと大きかったけれど、
 男性が持たれるのでちょうどよいかなと思い、水晶を主玉にして組んで見ました。

え!雪

きれいさっぱり消えてなくなったのもつかの間。
名にやら米粒のような白いものが落ちてきた。

見えるかなあ・・・

そうこうしている間に、
牡丹雪の様相に変化した。

こうなると積もるのだ。

明日は、工場見学で久しぶりに臨時休業。
車で行こうと思っていたが・・・
また自転車になるか・・・

白髪抜き

子供の頃、コタツでテレビをみていると、
「そんなに暇なら白髪でも抜いてょ!」

と、お声がかかり、
母親の白髪抜きの手伝いをさせられた。

前髪よりも頭頂部、頭頂部より側頭部のやや後ろ側という
本人からは死角となる位置ほどどういうものか、
その白いものは多かった。
人は一人で生きていけないということかもしれない・・・

頭髪を掻き分け見つけたときの喜びは、
深山に宝を発見したような感触を受けたものであった。
宝を探し当てたことは実際はないのだから、予想でしかないけれど。

とにかく、いったん親指と人差し指で挟んだら最後、
頭骸骨に対し垂直に、全身全霊の力を込めて思い切りよくいっきに引っ張らないと
すこぶる痛いものらしかった。
その点ぼくは何故だか上手くて、
「おまえのは痛くない」と評判だった。

姉がたまに抜くと「あ痛っ」っと母の大声と、
痛みを分散する為に、頭を擦るしぐさをいつもながら目にした。
黒毛を抜きそうになって躊躇するからそうなるのである。
かまうこたあないのだ。
「抜けたよ」と白いものだけ選んで見せてあげればよいのに。

歳をおうごとに宝物を発見する確率は高まった。
そのうち頭髪を掻き分けなくとも、
誰の目にもごっそり見えるようになってきた頃、
僕の手を借りることなく、毛染めする母の光景を目にするようになり
それは卒業した。

僕の頭は父親似だから、剥げることはあっても白髪には縁がないだろう。

そう思い続けてきた。

四十路を過ぎるころ、鏡の前に立つと、「あれ?」と、白いものが・・・
頭ではなく、鼻の中に・・・
どういうわけか鼻毛が白くなった。
日増しに割合は増え、五十路を過ぎるとついに
もみ上げ部に白いものが見えはじめた。
はげることはあっても・・・と思い込んできただけに、嬉しかった。
そのうち月を追うごとにごそっという単位で増えはじめた。

当初お宝と思っていた白髪もこう増えちゃもうプレミアは付かなくなった。

白髪抜きを卒業した、母と同じ歳になったことに気が付いた・・・

妙な気分になった。

もう春

もう菜の花が手に入るの?

春の風がふわっと吹いた。

春だなあ・・・