桜は北へ・・・

SNSの青森の友人がそろそろ弘前城の桜も開花するよと教えてくれた。

熊本の地震以降、桜の話題がピタッと止まってしまった。

余震なのか本震なのかわからないような地震の続くなかで花見もあったものではないと思うのも無理はない。

でも自然の摂理はそんな事情も構わず、規則正しく季節の変わり目を教えてくれるのだ。

画像は2008年4月、今と同じころだ。

母親を連れて病に伏せていた宮城の伯母のもとに見舞った帰り道。

桜のあまりの神々しさにいつもなら、白石インターチェンジから高速に上がってしまうところなのに、一般道にむかい、江戸の昔には国の境だった峠道を走った。

散る桜の中を車が疾走すると桜吹雪でなんとも口で表せない演出。少し塞ぎこんでいた母親も思わず「きれいね!」と感嘆していたのが印象的だった。

生きて伯母と会えたのもそれが最後だったが、我々への伯母の答えだったように思えてくる。

たこたこたこ・・・

しばらくやわらかい糸でばかり念珠を組んでいて、暫くぶりに紐組みでしかも下ろしたての正絹紐で組むと、手のタコが柔らかくなってるせいもあって、痛っ。。。となった図。

痛いのも構わず組み続けていればまた固くなるんだけれど。。。

えーい、根性無し。。。


TONの得意の華籠編み

TONのお店は仏壇屋なんだよ・・

昨日は毎年恒例の業界の春の展示会だったこともあり、久しぶりに出歩くこととなった。

羽田近くの会場と浅草寺に近い会場と二箇所を回った。

自分がこの仕事に就いた頃と大きく様変わりしてきていることは出品社の数からも言えることだが、展示される仏壇やご供養用品の考え方に天地の開きを感じる。

戦前の海軍が大鑑巨砲主義から空母を軸にした航空機主力の戦争に様変わりしたようなものだ。なんのこっちゃ・・・・

とにかくでかい、たかい、が飛ぶように売れた時代だった(我が社はつつましかったのでそういう事は知らない)1千万円クラスの巨大仏壇が所狭しと並んでいたし、創価学会の仏壇メーカーも鼻息が荒かったし。
出店会場も一社一会場なんていうのは当たり前だったから、広い会場を何箇所も回ると一日があっという間に過ぎる。おまけにカタログ+お土産で重いことこの上ないものだった。
が、それはそれで春の恒例行事として新年度が始まるという気分にさせられろよい契機ともなっていたような気がする。

今はどうか。

手元供養といわれる新ジャンルが鼻息を荒くしており、仏壇がとにかく小さくなった。
仏壇と言うより葬祭壇の小型版とでも呼ぶにふさわしいものが何処の会場でも見当たる。
何処でもと言うなら、家具調仏壇があたりまえになった感も忘れてはならない。
タンスか?というデザインはさすがに少なくなったようではあるが。

30年前は、そんなものが出展されていたら、だれが振り向いただろうか。
箱か?タンスか?「売れませんよそんなもの」かもしれない。

大鑑巨砲は空母の艦載機にしてやられたのである。撃沈の感がする。

TONは、天邪鬼である。

世が無煙無香をお線香の主流に置こうとするならば、だんぜん有煙天然材料でありたいと思うし、世が家具調が主流だというなら、伝統工芸仏壇が主流だと思う。

小さな家族で行っている会社の社長と立ち話しをした。

伝統工芸品クラスの仏壇を制作して入るが、その内面性と技術を今に生かしたいとして現代風にアレンジしたいと言う。TONも同意した。

出発点が大切だと思った。

車好きでなくともスカイラインGTRが伝説のスポーツカーとしていまだに憧れの的となっていることはしれた事実だろう。一度はシートに深く身を沈めてみたいと思うのはTONだけではないと思う。

64年鈴鹿サーキットで行われた第二回日本グランプリにてプリンススカイラインを駆った生沢徹が世界のポルシェを負かした。戦後のスポーツレーシングでは伝説のGTカーレース。
GTRはそのエンジンをデチューンして市販車とした。そこに当時の若者が魅了された。

仏壇はお寺なのだ。我が家の小さなお寺。伝統の上に成り立たないといけない。一つ一つのパーツに意味が有る。そして祈りやすさ。

東京つまり江戸仏壇を手作りする職人とタグを組んだ時があった。
彼が言うには、
「仏壇の前で手を合わせるのは人なんですよ。だから手を合わせやすい、祈りを醸し出す雰囲気というものがある」と。
だから仏壇の直線一つにもそのものずばり、祈りがある。とね。

その言葉がTONの中に醸造された。

日本の仏壇仏具職人に誇りを持ち続けて欲しい。
伝統の担い手はあなたたちのほとばしる情熱から生まれる技術しか後世に伝わらないのだということを。

会場に若い仏師がいた。
短い会話だったが伝わるものがあった。

隅に黒々していたと思われる綺麗な年輪の木材が展示されていた。
よく見ると仏様の下絵が描かれていた。
「全焼した家屋の大黒柱に仏様を彫るのです」という。
篤信を形に表すとはこういうことだなと思いながら温かい気持ちにさせられた。

やっぱり・・・こうなる

写経の日の朝に、仏花は取り替えてもらえるので、今月は1日が写経会だったことを考えると、なんと22日間、花たちは咲き続けたことになる。

さすが、黄色い菊以外は、みんな絶えてしまっている。

寒い時期だとは言え、大したものだと思う。

キク、菊子、喜久子、紀久子、希久子、貴久子、キク子・・・・

自分の周りには菊に因んだ名前が多い気がする。

昔の人が、生まれた愛しい我が娘に名前を付けるとき、菊をベースにした名前を付けるのは、大輪の菊のように幸多き人を送ってもらいたいとイメーシしたものであろうことを考えるのだが、暗にこの強い生命力にあやかった意味合いも込められているのではなかろうかと、常々想像している。

それにしても強い。

結局花束でもらっても最後はこうなってしまうのだ。

春節に思うこと

おはよーございます&開けましておめでとうございます。ですね。

春節、つまり今日は旧正月の元旦にあたります。

でも江戸時代までは日本も祝ったであろうと思うのですが。。。

明治維新で太陽暦を導入して、太陽暦に慣れてしまい、ご先祖達の感覚が疎くなってしまった現代の日本人にとって、先祖返りつまり、季節感と文化は深い関わりがあるはずで、その感覚が体験できて良いのかもしれません。
農耕民族であるはずの日本人にとっては、太陰暦のほうが都合が良い場合が多いといいます。

桃の節句というけれど桃は咲いていません。
梅雨の時期にある七夕まつりでは、織姫と彦星が出会えることはままにしかありません。

旧暦で考えるならば、合点が行くはずなのです。

日本人は旧暦をもう少し意識しても良いと思うTONにとっては、爆買で意識されてる春節は面白い現象と考えています。

さて、今年二度目のお正月を楽しむとしましょうか。。。

そもそも春節とは何なのでしょう? 春節というのは日本でいう旧暦の正月、日本では旧正月と言われています。実は、かつては日本も“年越し”といえば、旧正月のことだったのですが、明治維新後、政府が太陰暦を太陽暦に変えてから、元旦に正月を迎えるようになったのです。

しかし、アジア諸国では今でも年越しといえば春節を指し示す国が少なくありません。中国、台湾、韓国、北朝鮮、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ブルネイ、モンゴルでは、国の休日として春節を祝っているのです。

幟は世相を反映す

最近届いた幟(のぼり)のメーカーカタログをパラパラとめくってみた。

以前は仏壇屋の幟はわずかしか取り扱っていなかったものが、年毎に増えて今では職業別のカタログにバージョンアップされたようで、たぬきうどんだのうなぎだのの幟はカタログから消えて同業界の関連幟しか載せていないカタログが届くようになった。

他業界のことが見えてけっこう面白かったのだが買いもしないものに贈るほど甘くないということだろう・・・

ふと目に入ったのがこのページ。

樹木葬、終活、散骨

近頃の世相を反映している。

墓じまい・・・・。

ますます世相を反映している。。。というべきか。

見返り阿弥陀


宗門の新聞を毎月頂いていると年末になると毎年本山からカレンダーが送られてくる。

年末のバタバタで失念してお布施を忘れていたら、物の見事に今年は届かなかった。ドライといえばドライなものだ・・・と心の片隅でブーたれていたが、ちょうど良い大きさで案外重宝していただけに予定を書き入れていたカレンダーの架かっていたその場所をついぞ見てしまう。

日々書き入れたし、案外こんな店にあうカレンダーが見つからないで難儀していた。

いつまでも難儀していると、なんで一回ばかり失念していただけで、バッサリ切るかと度々ブーがもたげてくるから、もういい。とばかりに自分で作ることにした。

余っていた卓上用のカレンダーを切り裂いて、とんと壁につけたがとんとおかしい。

何だか間抜けな絵ヅラにちょっと思案。

そうね。自分の好きな絵を入れましょう♫

と好きな絵は観音様、阿弥陀様、弥勒様となるわけで、ここ念珠堂の店のあるこの場所が、以前は阿弥陀堂があった場所ということで阿弥陀様にしよう。と相成りました。

一番好きなのがこの阿弥陀様なのであります。

後期平安期から鎌倉期のほのぼのさと写実主義的な両面を併せ持つお顔が「は~~~~」と手を合わせずにはいられなくなる。この表現の力。仏師の信仰の力と技の冴えを感じざるを得なくなるわけで、どうしてくれるんだと思うTONなのであります。

毎日お顔を拝むことが出来るじゃん。。。。

良い機会なので、以下はちょっと調べてみた次第です。

「見返り阿弥陀」と言われる阿弥陀様は、全国に5体存在するのだそうです。
ただ、一体は模刻した現代の作なので古来から伝わる見返り阿弥陀様は4体となるわけです。

TONがぞっこんの阿弥陀様は、京都東山の南禅寺近くにある永観堂のご本尊。
鎌倉初期の作といいます。

また一体は、山形の堂森善光寺。こちらも鎌倉以前から続く古刹のようですが、古い資料は火災にて消失して、寺歴は不明のようです。加賀前田家の前田慶次の供養塔で有名です。
鎌倉期の作のようで緻密な彫りに頷けます。

もう一体は、富山県南砺市にある安居寺

最後の一体は
群馬県高崎市にある萬日堂。
室町時代の作と言われているけど、遜色ないなぁ。。。とTON。

最後の阿弥陀様は、青森市に昭和の御代に開山された青龍寺。
江里宗平仏師の手によるそうです。

当時の仏師を思うと、儀軌に沿いながらも阿弥陀様ならこうだろうと考える自由な表現方法に心躍らされる思いになります。信仰の心から発する美的表現には脱帽するしかなくなるTONでありました。

包む心

正月が終わろうとするときに、毎年の恒例作業がTONにはある。
50軒分程度だがお年賀用の包みが毎年あり、こればかりは誰にも手出しさせない。

単純作業なのだが、TONは嫌いではない。

むしろ頭の中が整理されていく気がする。

作務の中に仏法を感じるというが、庭掃除や便所掃除に限らず雑巾持って拭き掃除や掃き掃除も含めて単純作業というのは、TONにとって気づきを与えてくれるなくてはならない作務なのだ。

だから掃除が嫌い、とか単純作業が嫌いとかいう者の気がしれない。

商品の包装をやっていると二人の人を思い出す。

一人は、以前お店で働いていてくれた丸山という女の子。
TONも初めからなんでも出来たわけではない。

包装なんて大の苦手。逃げてばかりいた。ついに捕まった時にはお客様の目の前でじっくり見られながら包装させられるなんて赤っ恥を書く事もあった。
どうすればよいか皆目見当がつかないし、形を整えるのにやたらとセロテープを使うから、見苦しい姿に出来上がる。

デパート出身のこの子は、折り目正しく商品に包装紙が吸い付くように折る。
セロテープは最後の一箇所しか使わない。

なのに商品の角かどがきちんと包装紙が当たって綺麗に仕上がる。

「何でなの」と聞くと、TONは技術的なことを聞いているのだが、その丸山さんは、
「お客様にあ!っと驚いてもらうため」とこともなげに答えるのだった。

そしていま一人は、もう30年近く家族ぐるみでお付き合いしてくださっている立川さんというお客様。

まだ体だった頃は、若かりしTONの包装するところをつかまえては、
「こうしたらいい」んだそうで、見るに見かねたのだろう。
だから、彼の見えないところで包装したものである。

口を出したくなるのよくもわかる。
若い頃はアルバイトで有名デパートの梱包係に配属されていた。
研究熱心な彼は、100個でも200個でも包装した荷姿があまりにも美しく、20、30と重ねた商品の包装紙の模様が寸分の狂いなく、ぴったり一致する。
各売場にヘルプし引っ張りだこになるのは当たり前の話。

「みんなの驚く顔が見たいんだよね」

どこかで聞いたセリフをここでも耳にする。

そんな良き二人がTONの「包む心」の師匠である。


うでが落ちたなぁ・・・・

これがおわると七草、そして小正月。。。。

光は西から・・・・

今朝はTON恒例の元旦初日の出ランです。

自由に使える時間の有り余っていた頃…要するに暇な頃は、ウイスキーのポケット瓶をサイクリングバックに忍ばせて、自転車で房総へ行ったり、紀州へ行ったりと初日の出のスポットまで走っていたのであります。が、とてもそんな時間の取れない今は、近場に目星をたてておいて、ここと思う場所まで二本の足で走ることにしています。

こんなことを7年も続けています。

とにかく日の出が遅いので6時になってもこんな状況です。


暗いです。空はしらじらし始めているのに・・・
一番寒い時間です。

ゆりかもめも寒そうです。

しら髭橋を越えて南千住のスーパー堤防上がここのところのTONのお気に入りです。

都会の日の出はいつまでたっても顔を出しません・・・トホホ
あっそうだった。
北からはお日様は出ませんね。


(北からの風が・・・寒い。吹きっさらしですから)

そう・・・

こういうビルが邪魔物なのですねーーー。
7時を過ぎても未だにお日様の顔は見えません。

そうこうしているうちに正反対の方角からピカーーーー!

やや・・・・

なんと!
今年、初の日の出であります。

光は西からやってきた。

今年は頑張れということか・・・な。

東からの正式なお日様です。

慰霊の町

毎朝TONのランニングコースは墨田川沿いの堤防沿い。

調子良ければ南千住まで走るが潰れた腰椎と相談しながらなので、今年は数える程しかない。
少し前までは、なぜ手をつけないの?と思うほど草ぼうぼうの堤防道路が続く場所も残っていて、都会の中のエアポケットと思うTONのお気に入りコースだった。

最近は隅田川テラスと称してカミソリ堤防の川側に5mほどのさんぽ道が整備されて、今まで遠かった川面がぐんと身近になって、陽光の川面のきらめきを視界に入れながら気持ちよく走れるようになった。

が、一ヶ所だけどうしても避けたくなる場所がある。

そう。言問橋下がそこ。

なにも考えなければよいのだが、曇り空や早朝の薄暗い時間のテラスコースは
絶対に通らない。

スカイツリーの絶景ポイントであるこの場所が、70年前東京大空襲で多くの無辜の命を散らした場所ということは、少し情報が一般化されてきたが、まだ多くの人は意識していないだろう。

橋の際に空襲の慰霊碑と当時の橋の縁石が供養されている。
その縁石に残る脂じみは、亡くなられた多くの人の脂染みと記録されている。

元土木技術者として橋の構造がよく見える位置からの桁というのはゾクゾクするほど好きなのだが、違った意味の身震いが決まってしてしまう場所なのである。

だからここを通過するときは、心にある思いを持ちながら通過することにしている。

あまりアバットの部分なんて、まじまじ見る人は少ないだろうね。

こんなきれいな川面なのにね。何もなかったような美しさだ。