東北応援フェアいよいよ開催


7月2日(土)・3日(日)に開催。
被災地から来ていただいての産直品の販売と地元のお店のコラボです。

【心ひとつに】 雷門一之宮商店会東北応援フェア
-私たちは東北の食材を使うことで応援しつづけます-

居酒屋 長屋門
  日本酒 青森県産 じょっぱり
     岩手県産 浜千鳥 虎舞辛口
     宮城県産 浦霞  本仕込み
     福島県産 福賑栄 特別純米酒
     茨城県産 月の井 辛口
     千葉県産 腰古井
     千葉県銚子港を利用しています。    
そば処 丸屋 
お米 宮城県産 ひとめぼれ 
   日本酒 岩手県産 あさ開

もんじゃ 満月
   日本酒 岩手県産 南部美人
       宮城県産 一の蔵 浦霞

居酒屋 はなの舞
   日本酒 福島県産 千駒
   東北応援のために7/10までフェア開催中【がんばろう日本 東北フェア】

四万六千日
   日本酒 宮城県産 一の蔵
   いわし 千葉県銚子港を利用しています。   

立飲み処 呑呑
   日本酒  水産物 千葉県銚子港を利用しています。
   ほたてひも刺 岩手県産

ひかり寿司
お米   福島県産               
   鮮魚   千葉県産
   干しかれい  岩手県産
   飲むヨーグルト 岩手県産

セブンイレブン浅草雷門店 
        7/2・3 東日本大震災被災地の特産品ギフトを販売いたします。

舟和 浅草雷門店
          芋ようかん  茨城県産さつまも使用。  
クローバーカフェ
ミルク 岩手県産
ドトールコーヒー
   使用食材を千葉工場で生産
中華 東秀
   東秀グループで被災地支援

人力車 涼松  1,000円商品券(雷門一之宮商店会で限定使用可能)をサービス
※お電話でご予約承ります。090-9154-3715

こんな感じですが、いかがあいなりますか・・・・
頑張ろう。

菊は強い

以前は女の子の名前に菊の字をつけることが多いような気がする。

実際調査したわけではないので感覚的なものでしかないけれど、日本的だから菊の一字をつけるのかなくらいの認識でしかなった。
菊、菊子、字を変えて音だけの紀久子、喜久子、男名でも菊雄、菊夫、喜久雄、菊三郎などなど・・・
番町更屋敷のお菊という特殊な立場もあるが。

毎月写経の例会に仏前に華を供える。仏花というものである。
何年か前までは、フリージアだのカーネーションだの洋花でほんわりしたイメージの花が主流であった時もあった。

が日持ちがしない。

きっちり毎朝、水を取り替えてあげても、せいぜい一週間もてばよい。

特に夏場はどうしようもなく水を腐らせしおれてしまう。

いつの頃か、昔ながらの菊が主流になってきた。

スーパーでもお彼岸になれば仏花が売られるのだから、手に入りやすいと言えば手に入りやすいからなのだろうし、安いという理由も考えられる。

菊が用いられるようになって解ったことがあった。

彼らは少々の水の濁りにも充分持ちこたえる。

強い。

一緒にそえてある用花が次々に脱落していく中で、しっかり芳香も保ちながら、花の照りを失わない。

はっはーん!
なるほど、菊というのはこういう強さがあったのか・・・・

畏れ多いことですが、天皇家が菊の御紋章になさることに深く納得させられるまでもなく、日本人の菊好きは、こんな花の清楚さながら粘り強い生命力を好んだのかなと妙に感動したTONでした。

小田原行き

小田原のお寺に大掛かりな十三仏のお届けに出かけた。

遅れてはならじと少々用心が過ぎ、1時間以上も前に小田原入り。余裕が出てしまった。
どうしようかな。お昼を回る時間。
かといって食事をする気にもなれない。
いつも納品や訪問時のときは、食は抜いておじゃますることにしている。

小田原は市内から松田にいたるまで多少土地勘がある。
友人も多い。

そうだ。あそこに行こう。

と言うことで栢山(かやま)に足を向けた。

二宮尊徳の生家

自分の記憶にあるこの一帯の川面は、町中にありながらとにかく一跨ぎできるほどの小川も清き水が流れ、すくって飲めそうなほどの記憶があった。

生家も当時はぽつねんと田んぼの中にあって、ややもすれば見過ごしてしまいそうな風景だった。記念館の裏手に出るとやはり残念ながら水は濁って東京ほどではないにしろ口に入れたいとは思えなかった。

哀悼の気持ち

山岡荘八の小説太平洋戦争を読み始めて、もう少しで半分。

分厚くズッシリ重い愛蔵本から、手のひらサイズの文庫本を手に入れることができて実に肩と腕に優しい。

でも時間がないから、昼食の時間とトイレタイムに集中する。
トイレタイムは避難の嵐となるからそこそこにしたいけれどつい・・・ね。

現在戦場はニューギニア戦線に突入したから、終わればビルマ戦線に移る。
緒戦の勝ち戦さは終了し、ミッドウェー海戦以降、何万と言う将兵が玉砕していく場面の連続だから、正直な所は、本を放り投げたくなるくだりばかりで、日本人として実に読むに堪えられなくなる。

でも、なんとかやめないでいる。

細切れの日中戦争ー大東亜戦争ー太平洋戦争での局所の戦闘が・・・日本の動き方が、ようやく繋がってきた感じがする。マレーの虎だの加藤隼戦闘隊だの勇猛果敢な日本兵の強靭さがどこで敗戦への分水嶺を迎えたのか、何よりも戦争の原因をしっかり読み解いておかないとと言う思いがこうさせる。海軍と陸軍の戦いの混同など自分の浅学さに道筋を立ててくれている感じがようやくしてきた。

何よりも未だ祖国に帰らぬままの英霊たちの、祖国や家族を思い散華した気持ちにちょっとでもリーチできたらと思うからなのだが・・・・。

沈香という木

なんの変哲もない木くず。

興味のない人が見たら、フッと一息に吹き飛ばしてしまいそうな木片。

けれど、香に関心のある方には、これが沈香ですとお話しすれば、ちょっとは耳を傾けてくださることでしょう。

しかも、これが人工的に種をまいて栽培し腐食させて育てた栽培物ですと答えたら、さぞ驚くことでしょう・・・・

こんなに高騰し続ける香木の世界。
純粋に香の好きな人間には実に辟易させられる問題です。

投機の対象として伽羅や沈香が取引されるか・・・・
成分分析がはっきりわかり栽培方法が確立したらどれだけよいか・・・・天然モノか養殖モノ化を選ぶのは買う側の自由に任せればよい。そんな時が近づいたのかなとちょっと嬉しくなります。

ここ最近大切な方を見送ることが多い。
上さんにも守ってくれる人がどんどんいなくなって寂しい。なんてもらしていたせいか・・・

夢を見た。

そこは、大変お世話になった、またなっているお坊さんの息子の身内だけの結婚式。
自坊。信者さんも数人控えていた。

ぼくが参加するいわれはないのだが、なぜかそこに座していた。
巷の結婚式とはずいぶん異なって、宗教らしさをふんだんに香らせる、荘厳な中、もう鬼籍に入られた安寿さんが式の意味あいを僕に語ってくれた。

何故か、重要な気がして書きとめようとした。

でもペンがない。
書き留めなきゃ・・・

記憶するしかない。

よし。ここは目を覚まそう。
目を覚ました。
でも思い出せない。二行だけ書いて後がつづかない。

と思っているうちにこれも夢だったことに気が付きながら目が覚めた。
時々やるのだ、二重睡眠・・・

もう一度紙に書き留めた。今度は現実の世界だった。

「円の具象」(肖像だったかもしれない・・・夢の中では象像だったようにも)
「網の具象」

頭が冴えた頃、読み返してみた。
なんのこっちゃと思いつつも・・・。

「丸い心となれ、広い心となれ、そういう心を弘めよ」とでも解釈すればよいのかなと思いながらいる。

改めて見ると・・・・

4月に商店会のメンバーと道行く人にお願いし、寄せ書きを書いていただいたり義援金をお願いしたりと忙しかった。

御陰様で800名弱の方々からのまごころは、被災地の大船渡小学校にお届けすることができた。

その結果を、協力していただいた方々に報告するため、仕事の合間にこつこつ写真のパネルを作っていた。

50枚程度の写真をプリントアウトして、黄色いパネルに貼り付けていた。

こうして一枚一枚改めて眺めていると、なんとも言えない気持ちになる。

原発の地域はいまだに手付かずの状態で時計が止まっている・・・
海に持っていかれてしまった瓦礫となったさまざまな思い出は、何百キロ先までも流れているのだろう・・・
堤防や護岸の切れた地域はこの雨の中どうしているのだろう・・・

ぼくらは終ったような感触ですむけれど、被災地はこれからなんだよね。全てが。

いや「これから」とも言えない市にいるのかもしれない。

ずっと現在進行形なのだから。

終っちゃった・・・


連休の最中だと店を抜け出すことは至難の業。

でも行きたかったなぁ。

うちの店を四半世紀前にオープンした時、店は画廊として使えるように設計したのも、絵がすきだったから。

故人となってしまったが、写仏では第一人者の難波淳朗氏の個展をオープンセレモニーとさせてもらったことは、縁の不思議さを感じる。
   

さらに言えば、オープニング時に讃祷歌を主催しておられた、新宿の智韻寺住職、新堀智朝尼と詠唱団の中心メンバーに、讃祷歌を南極も唱和し清めていただいたことが昨日のように思い出される。


写仏教室は講師が鬼籍に入ることで準備段階で挫折してしまったし、讃祷歌浅草支部ですよと話すといつも喜んで下さっていた智朝尼も、早や13回忌を過ぎてしまった。

でもふと当時を思い出すと、念珠堂という店のあり様や生き方、個性を知らず内にしっかり主張していた、恵まれた出発だったなぁと、今でもしみじみ感じるのだ。