精神安定剤

ここんところ毎日2時近くに床に着く。

朝はお決まりのコースを走りたいと思うから12時前には寝たいのだが、決算作業やら、システムの入れ替えやら、商店会の作業やら、なんやらかんやらやっていると、この時間になっても全く仕事は終わらない。

もういい!

とばかりに途中で投げ出して寝てしまう。
だが、なんとも夢見が悪い。

毎日似たような夢を見続けている。
ストーリーは全く違うのだが、感触と言うか、夢見ごこちというのか、味わいがよく似ている。
あまり目覚めがスカッとしない。

ついに今日は寝坊をしてしまった。
いつもなら鶏と一緒に(いればの話)目覚めるものを、すでに8時を回っていた。
今日は休もうかと怠け心の誘惑も湧いてきたが・・・

しかしながら、このまま走るのを止めたら、ますますスカッとしない一日になってしまうと予測した。だいたいそうなる。

思いきって飛び出した。
せいぜい一時間だもの。

何かの本で夢は、前日受けた感情の揺り返し、中庸作用と読んだ事がある。
子供の頃は、夢を見るのが楽しくて、しかもリクエストどおりの夢を見て一日のストレスを発散していたけれど、今の僕にとっては、夢を見ることは疲れることと同義語になってしまった。

たびたび責任感を新たに感じてしまうそんな夢ばかりなんだもの。
中庸を保つ為の夢なのだとすると、いかに普段ちゃらんぽらんと言うことなのかな・・・

でも少々重荷だ。

同じコースだけれど、隅田川を一周ぐるっと一周してくることが精神安定剤になっているのかもしれないな。

理解できない

浅草を思い浮かべた時、人は何を連想するだろう。

昭和モダン。エノケンやビートたけし、渥美清、欽ちゃんを排出した喜劇やエンターテナーの町。飲み屋街。商人の町。斜陽の町(さすがにもうこのイメージはなくなったと思うけど)。花柳界。スカイツリーの見える町・・・

僕には寺町の浅草が唯一無二のすがたに見える。
商売柄というより、郷土史にのめりこむのが好きだからなのかもしれない。

郷土を愛するってよく言われることだが、どうしたら愛せるようになるんだろうか。
愛するためにはまず「知る」ことだろうと思っている。
そんな動機が発端で土地の歴史を調べる。調べると興味が湧く。興味が湧くからますます調べたくなって自分との関わりが見えてくる。

ひょんなことから浅草発展の基となった土師中知(はじのなかとも)の屋敷跡が町内にあることを知って調べ上げた。
地元で聞いても屋敷跡が明治初期まであったことをだあれも知らない。そもそも土師中知と聞いてピンとこない人も多い。

これじゃあ・・・ 次世代に伝えられないよ。
せめて説明板でも立てておかないと完全に埋没されてしまう。
そんな思いから区の教育委員会に打診してみた。
電話ではけんもほろろに予算がないからと断られた。

粘った。
友人も出かけて説明してきてくれた。
数ヶ月してじゃあ伺いますとアポイントを受けた。
ようやくまともな話ができると喜んだ。
当日は二名の担当者に来訪いただけた。

待ってましたとばかりに今までの資料を渡そうとするが受け取るそぶりを見せない。
あれ?っと違和感を感じた。
説明をしても意に介さない態度。おかしいな。

もしかしたら・・・
的中した。

次に出た言葉は、「看板を出すのは難しいですね」
「歴史的跡地というけれど、なにも残っていないじゃないか」というのが理由らしい。
「予算もないし」二言目にはこれだ。

「じゃあこちらでつけますから、教育委員会の名を入れていいですね」
というと、それも困るという。

「じゃあどこまでやってくださるのですか」と聞くと、
「監修することはします」

「じゃあ名前を出してもよいのではないですか」と聞くとダメだという。

質問を変えた。
「浅草の発展の基はどこにあると思いますか」
と聞くとはっきりとは答えない。「観音様を最初にお祀りした土師中知でしょ」ここまで出かかった。

「形あるものが何かあるなら別だが、それのないものには指定は難しいの一点張り。
指定をかけろといっているのではない。そういう浅草発展の基を築いたお方の建造物があったと残しておきたいのだ。

またさらに質問を変えて、
「浅草の歴史を調べ蔵書を何冊も出されているA氏の説に対してはどう思われますか」
と浅草の歴史はこの方(故人)の右に出る者はいないA氏の名を出し聞いてみることにした」
「あれはA氏の一説です。私はそうは思わない」

なんだ・・・自分で異説を唱えているから首を立てに降らないのか。

しかも、「土師中知が実在した人間かもわからない」とまで言い出す始末。

状況証拠は、江戸期の古図にも、明治初期の沽券図にもはっきり顕されているというのに、しかもそのことを地元も忘れ去られてしまっていて、伝えられてきていない。

浅草発祥の基になった恩人を地元も知らないというのだから。
それを絶やしてはいけないと僕は考えるのだけれど、
手をこまねいていれば、歴史は全く埋没されてしまうではないか。
どうも意見が合わない。

辟易した。いったんお帰りいただいた。

文化行政っていったいなんだろう。首をかしげた。

ローソクです


焼酎二階堂とワンカップ大関

いづれも、おさけ…ならぬローソクにござる。

故人の好きだったものをという遊び心からの商品ということになるのかな。

「んなら、本物でもよくな~い・・・」

とな。

ムムム・・・

あとで呑めるし・・・だって?

ところで仏前に差し上げたものって香りや味が変わるのをご存知だろうか。
お下がりをいただくと、時間が経っていないのに香りも味も弱くなる。

あくまで僕の経験である。
子供の頃、父親の仏前に毎日お供えをして、母親の目をかすめてよく食べた。
それでもお下がりといえばお下がりだ。
ただ、正式な手続きを踏んではいなかったのだが・・・

隠れて食べるのはちょっとしたスリルとダレよりも口にする楽しみが倍増してどことなく美味しい。

でも仏前のお下がりを口にすると
なんて味が薄いんだろぉ。
小豆の匂いがしないなぁ。

不思議だった。
でもおやつに出されるおはぎは香りも味も濃厚だった。
まさか仏前に供えるものと、子供に出すものとを別けてつくれるほど母は器用ではない。

それでも盗み食いするたびに臭わない果物、おかずを隠れて食った。

「仏様はね、香りを食べるんだよ」
「だから初物を、まずさしあげなさいというのだ」

ずーーーーとあとで耳にした。

深くうなずいたのは、えらいお坊さんの言葉だっただけではなかったと思う。

中ゴムです


「もうくたびれました」

ゴムが悲鳴をあげて僕に訴えかけてきた。

「がんばったね」

ぽろんと泣いた。

感動ということ

「新井淑則」という中学校の国語の先生を知った。
ある情報番組の中で紹介されていたことがきっかけだ。

全盲にもかかわらず昨年15年振りに、普通学校の教壇に立ち中学生に国語を教えている。
彼は生まれつき盲目ではなかった。
新任の教師として使命感と情熱の絶頂期に文字通りある日突然「網膜はく離」という病魔に襲われ全てを失う。ある日突然光を失う恐怖がどれほどのものか、想像だにできない。

死へのいざないと呪縛を振りほどき懸命に希望という光を見出し、夢を持ちそれに向かって歩き始めたきっかけは家族によるところが大きい。

また、同じく盲目ながら教鞭をとっていた先輩教師仲間との出逢いが彼を奮い立たせた。

見えて当然。
勉強できて当然。
働けて当然。

同じ生活が10年先も20年先も変わらず送れるなどと全く保証はないはずなのだが人はその中に安寧としたがる。
しかしその当然が消えた時、確固とした堅牢な土台と思っていたものが、実は何の根拠もない砂上の楼閣だったと知る怖さ。

一昨日に引き続きまた教えられた気がした。

http://atarimae.jp/crosstalk/010/

彼が病気のいきさつとそれを克服していった境地を本にまとめているということを知り
本屋に飛んだ。が、残念ながら置いていなかった。

また探そう。

あたりまえなんてないんだ

秋風が吹いて朝は気持ちの良い気候になりました。
吸い込む空気の実に軽いこと。
ようやく走るのに嬉しい季節の到来だろうか。嬉しくなります。
今年の1月から続けている朝のひとっ走り。

紆余曲折はありましたが、7ヶ月続いています。

さて、今日も時間通り、目覚まし時計より正確に5時に目が覚めて、起き上がろうとすると、
ん?ん?NN・・・

腰が痛い。なんと!
そしてまたも右足がそれに呼応するかのように痛い。
暑いうちはうそのように消えていた足の痛みが、前触れもなく突然復活してきたのです。

平気でほいほい走っていると、痛みの苦労を忘れてしまう。

痛くないのが当たり前のように感じ。

当たり前のように、食事をし、

当たり前のように水を飲み、

当たり前のようにトイレに行き、

すべてできて当然と思う。

気づくと、
当たり前のように生活してしまい。

当たり前のように一日を終えてしまう。

当たり前のように床に入り、
そして、朝になれば当たり前のように目を覚ます。

どれひとつとして、自分ではどうすることもできない事なのに・・・
本当は千載一遇の出来事なのかもしれないのに・・・

もしかしたら、感謝が足りなくなると出てくるのかな。
この痛み。

感謝!痛み。

ふ~ん・・・

早朝ちょっと目覚めが早すぎて、NHKをつけた。
あいにくニュースはやっていなかった。

かわりにドキュメントが流れていた。

終戦のわずか20日前、昭和20年7月25日。
大分県の豊後水道に浮ぶ小さな島、保戸島での出来事だった。

島にある小学校が爆撃された。
500名の児童のうち1年生と5年生の125名の児童と教師2名が米軍の爆撃と機銃掃射によって亡くなった。

何故こんな小さな島にアメリカ軍は攻撃目標としたのか番組ではアメリカ軍の資料をもとに分析した。
他の都市を攻撃する予定を変更しての爆撃だった。

目的は、保戸島にあった海軍施設を撃つためととなっていた。
だから、この悲惨な出来事はその目標物を見誤ったために起きた事だろうと説明していた。

しかし、空の上からだって児童とわかる逃げ惑う者たちを機銃掃射した理由はわからないと説明した。
127人もの命を奪っておいて、わからないままでいいの?
軍の資料まで探しだせるリサーチ力があるんなら、当時のパイロットを探し出して、一人でもインタビューをとれよ。って言いたくなる。

番組の結びとして、海軍施設を島民の知らぬ間に建設していたことが、誤爆の原因を作ったのだと語り番組を終えた。

ふ~ん。
非戦闘員を攻撃した敵国よりも、島に軍施設を作った日本軍が悪かったんだ。

僕はそう理解した。
同時に、結びでドキュメントの流れをこんな形でリードできるコピーを考え付くなんて、さすがNHKだと思った。

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2009_124848244534.html

もう立秋です。
秋が立つというのに、
なんでこんなに暑いのか。
まして梅雨の様相すらまだ抜け切れていないというのに。

調べました。

何故何故?

立秋は二十四節気のひとつ。
季節の変わり目を指すわけでありまして、ではどこの季節を指すかと言うと、二十四節気が生まれた地方の季節が元になるわけです。

ではどこで二十四節気が生まれたかと言うと中国殷の時代に成立したものといわれていますから、大陸の黄河中流域の気候にあわせた変わり目ということなのですね。
と言うと島国日本との気候の違いは歴然。ここに肌で感じる季節のギャップが現れてくると言うもののようであります。

ちなみに殷の首都近くの中国太原市と東京の温度差は10℃近くあるようで、そのまま日本に伝わった二十四節気の概念では感覚に誤差が出るのは当然と言うわけですね。

なあるほど。

ともあれ暦の上だけでも涼しくなる約束を取り付けたような気になってちょっとは涼しくなるかも。です。

四季

早いもので、東京の7月盆もあっという間に過ぎ、月遅れのお盆もあと一週間あまり。
いよいよ民族大移動の時期が近づいてきた。

そして、お店で展示している盆提灯もいよいよお別れとなる。
ただ、浅草はサンバカーニバルが終らないと夏の雰囲気は抜けることはない。

町中を飾るあの黄色いサンバの提灯が、いやでも気持ちを盛り上げてくれるからだろうか。

が、店内は盆提灯の占めるの割合が大きいから、なくなるととたんに夏の終わりを否応なく感じさせられてしまう。

そんなこんなで、この時期はいつも悩むのである。

カンカンに照りつける太陽の下、秋のディスプレーにはまだ早いし、夏を惜しむ気持ちも手伝って次への行動が取れないで金縛り状態になる。

じゃあ今年はどうしよう・・・か。

冷夏の影響ですでに秋の様相も無きにしも非ずだけれど、かと言って真夏を過ごした!という実感も乏しいから秋への様変わりは逆効果を生みそうだ。

考えるに日本の四季は、きっちり入れ替わるからいいのだと思う。

春になったんだかならないのだかはっきりしない。
梅雨が明けたんだかどうだかうやむやにある。
夏なのか?秋が・・・、冬が・・・

まるで亜熱帯の住人のような感覚に近づきつつある。

冬夏のそれぞれの厳しさを味わうからこそ、季節の変わり目に喜びを享受できるというもの。
喜びの大きさは、日本人の感受性の豊かさを増幅させてくれたのだと信じる。
こんな季節の変わり目のおぼつかない日本では、これからどうなるのだろう・・・

つまりは、喜びの質を変えないといけなくなるのだろうか。それとも・・・
老婆心ながらそんな危惧すら感じる昨今なのである。

ともあれ、若干少なめの蝉時雨を聞きながら、日本の変わっていく姿を想像している。

沽券

沽券図と言う言葉をはじめて知った。

「沽券(こけん)にかかわる」つまり人の値打ち、プライドに充てた言葉の元となる言葉。

江戸時代から土地の売買の証文のことで、いくらで売り買いするという時の証文のことだという。
50歳を過ぎてもこんな言葉も知らないの?と思うなかれ。恥を忍んでの話しなのだ。

その沽券がどうしたかというと、明治初年、詳しくは明治4年12月27日に大久保利通によって地租改正に先立ち、沽券税という形で始まった。
つまり土地の所有者から等しく税金を取る法律が施行されたのだった。

これは実に画期的なことで、江戸時代までは市街地の土地は無税だったのだから。
武士も町民も別け隔てなく、税金を納めることができるようになったのだ。

資料によれば、

沽券(土地の売買証文)に課せられた明治初期の「沽券税」の領収証が、津市一身田町の醤油(しょうゆ)製造会社「下津(しもづ)醤油」(下津和文社長)から見つかった。国税庁税務大学校税務情報センターは「沽券税の執行を示すものはこれまで確認されておらず、極めて貴重な史料」としている。
沽券税は、廃藩置県に伴って明治政府が1873年(明治6年)に実施した地租改正に先立ち導入された。72年後半から、それまでは無税だった市街地の土地に沽券金(売買地価)の1%を課税した。

長々とお読みいただいて恐縮だが、何を言いたかったのかというと、この税金の元となったのであろう図面が公文書館に保存されていた。

そして、その沽券台帳なる図面にわが社念珠堂が立地しているここ、この場所が、1400年をはるか昔、大川からすくい上げられた観音様を私邸に祀った第一号の篤信者である土師中知の子孫が代々、ここに邸宅地を構えていたそのことが記載されていたのである。

見ると明治6年当時四百数十円であった土地は、大正2年の同図では1000円を超えていた。

じつに面白くもあり、不思議にも思う。これも一つの歴史である。

こんなに大切な歴史が人々の記憶から忘れ去られていることに、寂しさを感じてしまうのはおかしいだろうか。