狂乱のあと

いつもの日課としている朝の一っ走り。
昨夜の花火の競演後ゆえ河原はどうなっているかと興味を持って隅田川沿いを走った。

TONのコースは、駒形橋から白髭橋までの両岸を右回りしたり左回りしたり、その日の気分と体調で変わる。

岸から眺める隅田川に励まされ半年続いた。

脱線するが特に左岸側の桜橋を過ぎて白髭橋を望むあたりは、桜並木が枝を川面に伸ばし手を入れられていない土手風景と相まって、護岸を引っぺがしてしまえば江戸の風景を想像するに難くない風情がTONにとってベストスポットなのである。

台東区側は、きれいに片付けられてバリケード以外通常の姿に戻っていた。
白髭橋を渡り、ホームレス区域を過ぎ、ベストスポットに入ったとたん、違和感を覚えた。

昨夜がまだ続いていたのである。しかし主権を主張した主はいない。
道路には、己のテリトリーを主張するかのように、ガムテープで誰の誰べえと名を記したまま取り残されている。
どこに迷い込んだかと錯覚するほどなのだ。
おまけにシートも置き去る輩もいる。

食器、残り物となった残飯類が山となり、スーパーのビニール袋はあたりを構わず風に舞っている。

目を覆う光景なのである。

箒とゴミ袋を持ち合わせていなかったことが悔やまれた。
その状態は言問橋が頂点で東武橋まで続いた。800m程度はあろうか・・・

東武橋にたどり着く頃ようやく清掃作業のプロの方々とすれ違った。

ふと考えた。
隅田川花火大会は規模と実行範囲はもうすでに区の枠を超えている。
交通規制は人の流れすら自由を効かせず(そのことが商店の売り上げに不公平さすら生んでいる)。

だからと言って、反対をしているのではない。
東京マラソンと同じく、たとえデルタ地帯になり商店が軒並み売り上げを落とすからといって反対するわけではないように、全体の利益ために一部の商店が犠牲になっても仕方ないと言う論法も10000歩譲って呑んだとしても、情報の交流させる場がないこと、もしくは吸い上げる機関がないことの方が脅威ではあるとは思いはするが。

ちょっと脱線してしまった。
そろそろ堤防の一等地も、ただで見れるというのを脱却しない限りいつまでもこんな無責任な状態がつづくのではあるまいか。

清掃作業は区の職員や地域ボランティアが動くのではない。
税金が使われるのだ。
しかも無秩序の場所取りが大会1週間も前からガムテープ合戦となり小汚い風景をさらさせるのではなく、土手沿いの一等地は区割りし、区画いくらと公示し抽選をする。

そして大会終了後、美化判定をし、きれいに使うことができない方々には次回の抽選の権利がなくなるくらいにするならば、今のようなガムテープの散乱した蜘蛛の巣地獄は見ることがなくなるだろう。

下町の裏通りにござを敷き、ビルの合間に垣間見る火の菊花を家族で愛でる光景が心に沁みて離れない。

もちろん自家の延長の道路にはゴミの散乱など無縁の光景なのだ。

ひとこえ

今年初めてセミの鳴き声を聞いた。

朝。隅田川沿いにて。

「ビーン」
ミーンではなかった。
一声でやんだ。

何故か全然セミがいない。どうなってんだろ。

変遷

子供の頃から地図を見るのは大がつくほど好きだった。
まだ見ぬ地形や風景を地図から予測する。

そんな中から自分の姓と同じ地名を九州と新潟と四国に見つけ、さらにのめりこむことになる。
いつか地図を作る土木の世界に入っていったのだから、好きが高じていくと何らかの見返りもあるものだと思う。

土木の世界からはスピンアウトしてしまったけれど、相変わらず地図はよく眺める。

一時期、路面電車と近郊電車の世界にのめりこんだ関係で古いとは言っても明治期程度の地図と現代地図を見比べることにがっちりはまった。

さらに最近は、江戸古地図との比較に興味は広がった。

明治期から現在は、関東大震災後の復興計画で大幅に街路の姿が変わった。
さらに大戦後の混乱で都市計画もままならないまま無計画に町の仕様が変化した。
そしておまけに行政の無策さは、由緒ある町名を消した。

その両方を併せ持つくらいに変化したのが、都市としての江戸から帝都に切り替わった時であったろう。
この大変貌ぶりは、ドラマチックでさえある。

わが郷土となる浅草はというと、比較的おとなしい変化のしかたではあるが、そこは廃仏毀釈の嵐に荒れ狂った明治初年のこと、大鉈は社寺をいやおうなくぶった切った。

由緒ある寺をも廃寺に追い込み、領地没収による公園化や民家への払い下げなど町の秩序と景観を狂わせた。

下の図は明治初年の地権者入りの浅草の地図。
明治7年となっているのだが、概略は江戸期のものを利用していると思われる。

右端を縦に流れるのは隅田川。右下には駒形堂が記されているが現在地とは異なる(現在はこの図の位置より数十メートル上流に移設されていて旧来の地には浅草通りが東西に通っている)。もちろん駒形橋はまだない。
もちろん国道6号線はなく、奥州街道のせまい通りが川沿いに北上していて、吾妻橋との間が宿場町の雰囲気を醸し出して見える。

浅草寺はほとんどが国に没収の憂き目にあい宝蔵門近辺の一角のみで、本堂付近は公園と化してしまっている。

地図上でピンクに塗った場所がわが念珠堂の含まれるところ。

実はこの広さ430坪の土地が以前このブログ上でも何度か触れている、墨田川からひろいあげた観音菩薩を丁重に祀った浅草寺開基の祖と言ってもよいはずの「土師中知」の子孫が代々清んでいた住居跡である。
江戸時代までは専堂屋敷と呼ばれていた。

代々土師専堂(専当坊)を名乗っていた。ついでに言えば観音像を掬い上げた漁師の兄弟である桧前浜成の末裔は斉藤坊、桧前竹成の末裔は常音坊を名乗り半僧妻帯を認められ浅草寺を取り仕切っていた。

ちなみにここの旧地名、材木町と花川戸町、山之宿町は宮本三町と呼ばれ三社祭りになくてはならない大役を任されていた。

現在の同地点と比べるとその変貌さがわかると思う。


大きな地図で見る

赤いマーキングが念珠堂の位置。
ちょうど専堂屋敷裏の路地が当店前の通りとなる。

浅草発展の功労者、土師氏の由緒がここにあるのに、看板一つ残さず、史跡の名残もないのはおかしなものだと思っている。

だいたいにして「土師中知」と聞いてちゃんと答えられる浅草人が何人いるだろう・・・

青臭い

最近盛んに加齢臭が取り沙汰される。

「お父さん何だかにおうよ」の一言で、
最近自分でも気になり始めた。

香りの商売をやっているからと言うわけでもないけれど、もともと匂いには敏感なのだ。

でも、いざ自分の匂いとなると、なかなか気が付きにくい。
親しい間柄だから忠告してくれるが、実際どうなんだろうとちょっと慄いてみたりもする。

ところで、加齢臭というが、若い頃に発散する匂いはなんて表現すればよいのだろう。

以前、上さんは塾を経営していた。
会社の二階が夜間に空いているのはもったいないと10年ほど続けた。

もともとはギャラリーができるようにと手をかけて作ったスペースなのだけれど、塾を開くにはちょうどよいということで、子供相手にはもったいないと思いつつも、泣く泣く上さんに明け渡した。

お香の香の立ち込めるムーディーな空間が、次の日から蛍光灯ぎらぎらの学びの館と化した。

子供たちもそれなりに集まって比較的優良塾となった。
朝の掃除は僕の分担だった。
ある日、二階に上がると、何とも表現のしようのない匂いが漂っていた。

「なんだろう・・・」

ガスでも漏れているのかな・・・
生魚とボンベのガスがまじったような匂い。
異臭である。

あいにくこのビルには都市ガスは使われていない。
じゃ何?

全ての窓をオープンし、匂いを追い出し、お香をいやというほど焚いた。
次の日も、その次の日も。
でも日曜になると匂いはしない。
日曜は塾は休みだった。

ということは塾が原因?
疑念が湧いた。

次の日ちまり月曜日に塾の営業?中、二階にあがってみた。

うわ!
咽てしまうほどの青臭さ。

異臭の元は子供たちから立ち上っている。
初めて気がついたのだった。

「青臭い事と言うなよ」とは言うけれど、ほんとに若いと青臭いんだ。
そういえば「青春」とも言うしな・・・

匂いが脳に働きかけて、人体に現象を起こさせることはフェロモンの実験に代表される。もしかしたら、年齢ごとに違う臭気を吸うことで、お互い何らかの補完関係、関わりを持っているのかもしれない。

青臭さは、老人の活力の元になっていたりして・・・

すると、三世代で暮らすのはよいというのは情緒的な面だけではないのかもしれない。

なんて・・・たわいもないことを思いながら、線香に火をつけている。

もう送り火

早くも東京近辺はお盆が終ってしまった。
月遅れのお盆で動いているところから見るとなんとも変な感触を受けるようだ。

かくいう僕とて同じ思いなのだ。

明治8年の太陽暦導入は日本文化に多大なる影響を与えた。
明治政府のお膝元である東京はその意向を強く受けながらも新暦に従った。
山梨県はそれより早く条例化して新暦で盆を行なうようになった。

首都圏は7月盆が多いが、都市部を離れればまだまだ農業を主体としていた当時は、その意に反して旧暦や月遅れの形がそのまま残った。

日本の文化行事は旧暦を中心に行なわれていた。
永く続くにはそれなりの根拠があったのだと思う。
自然体として人の情の発露でなければ、いづれ淘汰たされていただろう。
が千年を越えて面々と引き継いで継続してきたということは何らかの自然現象と情的なものとが合致していたからこそなのだと思う。

頭の中だけでこねくり回してこうだと規律されたものでは、よくて形ばかりのみが残っていくことになる。
精神性を伴わないものは、形骸化し、いづれ朽ちてしまうのではないのかな。
ちょっと心配だ。

一昨年も同じようなことを書いていた・・・
http://http://http://ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/image/ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/imageblog/e/10218168.writeback

とにかくもう送り火だ。

みそはぎ

昨日、四万六千日にあたり混み会う店内で、はたと考え込んでしまった。

というのも初盆なので盆棚を飾りたいからと白提灯やらまこもやらお買い求めいただいたお客様に、みそはぎは?蓮の葉は?どこで手に入れるのと聞かれたからだ。

昔なら花屋の店頭に並んだし、並ばずとも田んぼに行けば邯鄲に手に入ったのだから。
まあ今でも地方に行けばまだまだ必需品として容易に手に入るものなれど、東京ではどうすればよいだろう。まさか不忍池に行って蓮の葉を刈り取って、田んぼに行ってミソハギを取ってこられたら?とは言えないし。

もっと言えば盆棚の四隅を囲うわら縄を張るための笹竹すら、あれ?なのである。
造花で間に合わせようと思えば合羽橋に行けば手に入る。
でもね・・・、口が開かなかった。

お迎え用の手持ち提灯に自家の墓所からお迎えすることすら難しい環境。
お墓まで車で何時間なんてまだ生易しい。新幹線でカンテラに火を移して持ち帰ったという話もあるくらい、墓所と自宅が乖離している現代。その相田を生めるものはなんだろうか。

しかしこう考えてみると、農業が身近にあった日本ならではの習慣だなあと思わされる。
それでも路地やマンションの玄関先で、ほうろくで迎え火をたく煙を見ると、なんともいえない暖かさを感じざるを得ないのだ。

ともあれ「ミソハギ」である。

みそはぎを漢字で書くと「禊萩」と書く。
「みそぎはぎ」から「みそはぎ」の名が生まれたとも言われるが

ミソハギにふくませた水でお供えの「水の子」に降りかけ清める。

みそはぎ
みそはぎ posted by (C)kiki ☆

みそはぎの花言葉が「慈悲」「慈哀」というのも盆花にふさわしい花と言う感じである。

墓マイラー

「墓マイラー」が静かなブームらしい。

墓まいり+er ということで、「墓参りする人」らしい。
旧知の線香会社の営業(これが横山やすしに瓜二ついつかご登場願おう)が教えてくれた。
日経の6月20日版の切抜きを渡された。

日経で話題にするくらいだから、ある程度そんな動きがあるのだろうけれど、初めての単語。
じゃあネットではどうだろうかと調べると一万件を越える。
さほどではないが、こんな新造語が浸透していることに驚いた。

墓参りといってもご先祖の墓を熱心にお参りすると言うことではないようで、歴史に登場する名のある方々、現在の有名人等々、古今東西の別け隔てなく見て回る。
しかも若い人たちに人気があるのだという。歴史もののブームはこういう形にも形を変えて顕れるのかな。

巡礼だって、僕の店で巡礼用品を取り扱い始めた頃には、明らかなマイノリティーだった。
写経にしても然り。そもそもの仏教にしても然り。だったもの。
考えれば今の若い人と言う場合、僕が店を始めたころの若い人たちはみな同年輩以上になってしまっている。その子供たちと言うことになるのだ。
時の移ろいと、人の興味は本当に変化するものだと改めて感じさせられる。

もっとも
人の死を深く見つめて、その本質に迫ろうと墓マイラーが動き出したというところまで行けば面白いと思うのだが。

勝負運がよくなるようにと、鼠小僧の墓を削って持っていく不心得者とまでは行かないまでも、花を手向け経の一環もあげてあげるくらいのことをしてほしいな。と思うTON店長なのであった。

せいろがん・・・昭和の記憶

朝、TON店長はおなかが下った。
たいへんな急降下ものだった。

お食事中の方がいらしたらごめんなさい。
そこで正露丸を久しぶりに薬箱の奥の方から探し出し飲むことにした。
鼻につく匂い。相変わらずのクレオソートの匂いだ。
若い人はもしかしたら呑むことなどできないのではないか・・・

考えると、正露丸は子供時代、手放せない存在だった。
なんてったって、昭和の時代の万能薬だったもの。

おなかが下れば正露丸。車や汽車酔いにも正露丸。
当時は寝冷えと言う言葉がまだよく使われていたような気もする。
(今はあまり耳にしないなあ)ちょっと調子がおかしければ、
「正露丸のんどきなー」
家庭の特効薬であり頼るべき存在だった。

胃腸のことは何がなんでも正露丸に行きつくことになっていた。
そのせいかこのクレオソートの独特の匂いがいつも生活の中に漂っていた。

ラッパのマークには大変お世話になった。

そのクレオソートが体に良くないのだとか、まことしやかな噂が流れた時期もあった。
けど、あの根拠はどうだったのだろうかな。

クレオソートの匂いにパブロフの犬(ブタ)状態のTON店長は、
匂いを嗅ぐだけで、おなかの中が固まりそうな気がするのだからたいしたものだと思う。

事実、もう調子はよくなりかけている。

それでもなお

20年来お付き合いのある問屋さんが閉店間際に飛び込んできた。
今日来店するとのアポイントもなかったからちょっと驚いた。
もっと驚いたのは、いつにもなく雄弁であって、切り口上であったことだった。

昭和一桁だし耳も遠くなったから声のでかいのは仕方ないにしても

「もう仕事辞める」
という。

80歳近い歳になって、仕事を受けるため人間関係を保つのに疲れたと言う。

「80歳近くて仕事ができると言うことはそれだけでも感謝でしょ。」
僕が言うと、知らん振りしている。

閉じた耳には届かなかった。

「でもここに来るとホッとするょ」

少し気を楽にして帰路に着いた。

いつか見た空

去年の暮れに足の骨を折った粗忽息子の足に埋っている金具をとるための再手術の打ち合わせに、朝一で赤羽の病院まで付き合わされた。

赤羽はやはり遠い。

半年振りの病院は8時の開始時間にも関わらず超満員状態でほぼ半日つぶれてしまった。

とにかく時間が有り余るだろうと、昨日買った船井幸雄の「資本主義の崩壊最終ラウンド」という本を持って行ったが、意に反して半分の時間は爆睡して過すことになってしまった。

8月の上旬に手術と決まって、愚息はため息を漏らしながら肩を落としていた。

きっとこんな心境かも・・・