青臭い

最近盛んに加齢臭が取り沙汰される。

「お父さん何だかにおうよ」の一言で、
最近自分でも気になり始めた。

香りの商売をやっているからと言うわけでもないけれど、もともと匂いには敏感なのだ。

でも、いざ自分の匂いとなると、なかなか気が付きにくい。
親しい間柄だから忠告してくれるが、実際どうなんだろうとちょっと慄いてみたりもする。

ところで、加齢臭というが、若い頃に発散する匂いはなんて表現すればよいのだろう。

以前、上さんは塾を経営していた。
会社の二階が夜間に空いているのはもったいないと10年ほど続けた。

もともとはギャラリーができるようにと手をかけて作ったスペースなのだけれど、塾を開くにはちょうどよいということで、子供相手にはもったいないと思いつつも、泣く泣く上さんに明け渡した。

お香の香の立ち込めるムーディーな空間が、次の日から蛍光灯ぎらぎらの学びの館と化した。

子供たちもそれなりに集まって比較的優良塾となった。
朝の掃除は僕の分担だった。
ある日、二階に上がると、何とも表現のしようのない匂いが漂っていた。

「なんだろう・・・」

ガスでも漏れているのかな・・・
生魚とボンベのガスがまじったような匂い。
異臭である。

あいにくこのビルには都市ガスは使われていない。
じゃ何?

全ての窓をオープンし、匂いを追い出し、お香をいやというほど焚いた。
次の日も、その次の日も。
でも日曜になると匂いはしない。
日曜は塾は休みだった。

ということは塾が原因?
疑念が湧いた。

次の日ちまり月曜日に塾の営業?中、二階にあがってみた。

うわ!
咽てしまうほどの青臭さ。

異臭の元は子供たちから立ち上っている。
初めて気がついたのだった。

「青臭い事と言うなよ」とは言うけれど、ほんとに若いと青臭いんだ。
そういえば「青春」とも言うしな・・・

匂いが脳に働きかけて、人体に現象を起こさせることはフェロモンの実験に代表される。もしかしたら、年齢ごとに違う臭気を吸うことで、お互い何らかの補完関係、関わりを持っているのかもしれない。

青臭さは、老人の活力の元になっていたりして・・・

すると、三世代で暮らすのはよいというのは情緒的な面だけではないのかもしれない。

なんて・・・たわいもないことを思いながら、線香に火をつけている。

もう送り火

早くも東京近辺はお盆が終ってしまった。
月遅れのお盆で動いているところから見るとなんとも変な感触を受けるようだ。

かくいう僕とて同じ思いなのだ。

明治8年の太陽暦導入は日本文化に多大なる影響を与えた。
明治政府のお膝元である東京はその意向を強く受けながらも新暦に従った。
山梨県はそれより早く条例化して新暦で盆を行なうようになった。

首都圏は7月盆が多いが、都市部を離れればまだまだ農業を主体としていた当時は、その意に反して旧暦や月遅れの形がそのまま残った。

日本の文化行事は旧暦を中心に行なわれていた。
永く続くにはそれなりの根拠があったのだと思う。
自然体として人の情の発露でなければ、いづれ淘汰たされていただろう。
が千年を越えて面々と引き継いで継続してきたということは何らかの自然現象と情的なものとが合致していたからこそなのだと思う。

頭の中だけでこねくり回してこうだと規律されたものでは、よくて形ばかりのみが残っていくことになる。
精神性を伴わないものは、形骸化し、いづれ朽ちてしまうのではないのかな。
ちょっと心配だ。

一昨年も同じようなことを書いていた・・・
http://http://http://ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/image/ton.wp-x.jp/wp-content/uploads/imageblog/e/10218168.writeback

とにかくもう送り火だ。

みそはぎ

昨日、四万六千日にあたり混み会う店内で、はたと考え込んでしまった。

というのも初盆なので盆棚を飾りたいからと白提灯やらまこもやらお買い求めいただいたお客様に、みそはぎは?蓮の葉は?どこで手に入れるのと聞かれたからだ。

昔なら花屋の店頭に並んだし、並ばずとも田んぼに行けば邯鄲に手に入ったのだから。
まあ今でも地方に行けばまだまだ必需品として容易に手に入るものなれど、東京ではどうすればよいだろう。まさか不忍池に行って蓮の葉を刈り取って、田んぼに行ってミソハギを取ってこられたら?とは言えないし。

もっと言えば盆棚の四隅を囲うわら縄を張るための笹竹すら、あれ?なのである。
造花で間に合わせようと思えば合羽橋に行けば手に入る。
でもね・・・、口が開かなかった。

お迎え用の手持ち提灯に自家の墓所からお迎えすることすら難しい環境。
お墓まで車で何時間なんてまだ生易しい。新幹線でカンテラに火を移して持ち帰ったという話もあるくらい、墓所と自宅が乖離している現代。その相田を生めるものはなんだろうか。

しかしこう考えてみると、農業が身近にあった日本ならではの習慣だなあと思わされる。
それでも路地やマンションの玄関先で、ほうろくで迎え火をたく煙を見ると、なんともいえない暖かさを感じざるを得ないのだ。

ともあれ「ミソハギ」である。

みそはぎを漢字で書くと「禊萩」と書く。
「みそぎはぎ」から「みそはぎ」の名が生まれたとも言われるが

ミソハギにふくませた水でお供えの「水の子」に降りかけ清める。

みそはぎ
みそはぎ posted by (C)kiki ☆

みそはぎの花言葉が「慈悲」「慈哀」というのも盆花にふさわしい花と言う感じである。

墓マイラー

「墓マイラー」が静かなブームらしい。

墓まいり+er ということで、「墓参りする人」らしい。
旧知の線香会社の営業(これが横山やすしに瓜二ついつかご登場願おう)が教えてくれた。
日経の6月20日版の切抜きを渡された。

日経で話題にするくらいだから、ある程度そんな動きがあるのだろうけれど、初めての単語。
じゃあネットではどうだろうかと調べると一万件を越える。
さほどではないが、こんな新造語が浸透していることに驚いた。

墓参りといってもご先祖の墓を熱心にお参りすると言うことではないようで、歴史に登場する名のある方々、現在の有名人等々、古今東西の別け隔てなく見て回る。
しかも若い人たちに人気があるのだという。歴史もののブームはこういう形にも形を変えて顕れるのかな。

巡礼だって、僕の店で巡礼用品を取り扱い始めた頃には、明らかなマイノリティーだった。
写経にしても然り。そもそもの仏教にしても然り。だったもの。
考えれば今の若い人と言う場合、僕が店を始めたころの若い人たちはみな同年輩以上になってしまっている。その子供たちと言うことになるのだ。
時の移ろいと、人の興味は本当に変化するものだと改めて感じさせられる。

もっとも
人の死を深く見つめて、その本質に迫ろうと墓マイラーが動き出したというところまで行けば面白いと思うのだが。

勝負運がよくなるようにと、鼠小僧の墓を削って持っていく不心得者とまでは行かないまでも、花を手向け経の一環もあげてあげるくらいのことをしてほしいな。と思うTON店長なのであった。

せいろがん・・・昭和の記憶

朝、TON店長はおなかが下った。
たいへんな急降下ものだった。

お食事中の方がいらしたらごめんなさい。
そこで正露丸を久しぶりに薬箱の奥の方から探し出し飲むことにした。
鼻につく匂い。相変わらずのクレオソートの匂いだ。
若い人はもしかしたら呑むことなどできないのではないか・・・

考えると、正露丸は子供時代、手放せない存在だった。
なんてったって、昭和の時代の万能薬だったもの。

おなかが下れば正露丸。車や汽車酔いにも正露丸。
当時は寝冷えと言う言葉がまだよく使われていたような気もする。
(今はあまり耳にしないなあ)ちょっと調子がおかしければ、
「正露丸のんどきなー」
家庭の特効薬であり頼るべき存在だった。

胃腸のことは何がなんでも正露丸に行きつくことになっていた。
そのせいかこのクレオソートの独特の匂いがいつも生活の中に漂っていた。

ラッパのマークには大変お世話になった。

そのクレオソートが体に良くないのだとか、まことしやかな噂が流れた時期もあった。
けど、あの根拠はどうだったのだろうかな。

クレオソートの匂いにパブロフの犬(ブタ)状態のTON店長は、
匂いを嗅ぐだけで、おなかの中が固まりそうな気がするのだからたいしたものだと思う。

事実、もう調子はよくなりかけている。

それでもなお

20年来お付き合いのある問屋さんが閉店間際に飛び込んできた。
今日来店するとのアポイントもなかったからちょっと驚いた。
もっと驚いたのは、いつにもなく雄弁であって、切り口上であったことだった。

昭和一桁だし耳も遠くなったから声のでかいのは仕方ないにしても

「もう仕事辞める」
という。

80歳近い歳になって、仕事を受けるため人間関係を保つのに疲れたと言う。

「80歳近くて仕事ができると言うことはそれだけでも感謝でしょ。」
僕が言うと、知らん振りしている。

閉じた耳には届かなかった。

「でもここに来るとホッとするょ」

少し気を楽にして帰路に着いた。

いつか見た空

去年の暮れに足の骨を折った粗忽息子の足に埋っている金具をとるための再手術の打ち合わせに、朝一で赤羽の病院まで付き合わされた。

赤羽はやはり遠い。

半年振りの病院は8時の開始時間にも関わらず超満員状態でほぼ半日つぶれてしまった。

とにかく時間が有り余るだろうと、昨日買った船井幸雄の「資本主義の崩壊最終ラウンド」という本を持って行ったが、意に反して半分の時間は爆睡して過すことになってしまった。

8月の上旬に手術と決まって、愚息はため息を漏らしながら肩を落としていた。

きっとこんな心境かも・・・

そろそろ

ふと気づくともう一年もまともに自転車に乗っていない。
秩父を半分終えてからすっかりおとなしくなった。

僕の中ではママチャリは自転車のうちに入らないので、ロードかランドナーでの自転車ツーリングのことなのだが。

禁断症状が出てもよいのにこう長くじっとしていられるのは、朝のジョギングにエネルギーがそがれているからだろう。とも思う。

30年ぶりに復活したマイ自転車は、いつでも乗れるようにスタンバイ状態なのだけれど
乗らない二番目の理由がある。

握力が落ちた。
あきれるくらい落ちてしまった。
以前は一人で大型の仏壇くらい持ち上げていたのが夢のようだ。

要するに、握力が弱くなると言うことはつまるところブレーキの効きが悪苦なることを意味している。
最近のブレーキシステムは30年前と全く異なっていて、自動車で言えばパワーブレーキみたいに僅かな力で大きな制動力が得られる。

僕の時代の自転車は、人の力:制動力が1:1、下手すれば、1:0.5なんていうのもざらにある。
よくこんなブレーキで山道を70km80kmで下っていたものよと驚く。今にして思うと。

独身時代とい身軽さもあったのかもしれないが、スピードがとにかく怖くなかった。
何キロ出ていようが砂利道だろうが、すっ飛ばしていた。

こぶし大の石があろうが、大穴が口を開けていようが平気のへいちゃらだった。のにー。
変われば変わるもんだ。とあきれる。

以前、子供たちと伊豆修善寺のサイクルスポーツセンターの山周りコースを走ったとき、貸し出しの慣れない車と言うハンディーもあったけれど、子供らは親の心配をよそにノーブレーキで急な下り坂をすべり落ちていった。「怖くないんか!」心で叫んだ。

今の自転車で巡礼を一回り終えたら、最新の自転車を作りたいなあ。

もちろんブレーキ操作の楽なやつで。

最近・・・

最近仕事を家に持ち替えても、玄関のドアを閉めて荷物を降したたとたん、もうかばんを開ける気力がなくなる。

持ち帰らなきゃいいじゃんと思うのだが、持ち帰らないといけないかなと焦燥感を感じて、つい重いかばんになる。

けど、家に帰ってしまうと、バッタンキューとなってしまう。

このくりかえし。

そろそろ見切りをつけなきゃと思うのだが・・・