諸行無常

仙台に住む叔母が亡くなったと姉から連絡が入った。
おまえどうする?と聞くから、「明日母を車に乗せて行ってくるわ」
と応えた。

叔母さんといつも言っていたが、正しくは祖母の妹にあたるのだから大叔母ということになる。

90歳をとうに越えているのだから大往生と言えば言えなくもないが、やはり寂しい。

青春時代は、熱烈な恋をして、恋人を追って阿武隈の山を越えて駆け落ちを企てた。
寸前に捕まえられ泣く泣く戻された武勇伝?をもつ血気盛んな女傑でもあった。
彼女を見ると竜馬の乙女姉さんとダブってしまう。

僕は幼年時代、あまりの虚弱体質に周りから心配されて、この家に預けられた一時期がある。

めっぽう男気の強い叔母ではあるが、同時にすこぶる情の深い人でもあった。
自分の子供と変わらず怒り愛し励ましてくれた。

田舎の水と空気と愛情に育まれて、数ヶ月の田舎暮らしではあったけれど、ものの見事に虚弱体質のキョの字も感じさせない悪がきになっていた。

母親が迎えに来たときそれが誰だか忘れるほど田舎に溶け込んでいた。
(単に薄情なだけかもしれないが)
もしそのまま田舎においておかれたならば間違いなく、別の人格の僕に成長していたことは間違いないだろうと思う。

そんな叔母も夫を先立たれてからは目の病気を患いついに失明し、30年来ひっそりと田舎家に暮らす身となっていた。

逝くことは、順番であるのだ(順番で逝ける事はある面、幸せなことでもあるのだけれど)、もうそこにいないのか・・・。諸行無常というけれど、なんだかとても不思議な思いに駆られる。

ずっと以前から、TON店長は、マイナーな自分の「姓」を求めて俗に言うルーツ探しと言うことに手を染めた・・・というかいまだに継続中である。

偶然(仏教的には必然なのだが)仕事先で回った土地にマイナーな自分の姓が履いて捨てるほどあったことに驚嘆したのがそもそもの発端だった。

その興味の輪は、周辺に拡がっていった。

出張で行く先々でまず挨拶代わりに行なうことは、電話ボックスに陣取るのだ。
何をするかと言えば、50音別電話帳の「に」のページを開けて同姓を舐めるように探す。
全て書き写して持ち帰る。電話ボックスは貸切となる。迷惑な話だ。
隣県に同族と思われる人々が多くいることも知った。

お墓はまず黙って横切れない。
必ず一基一基覗き込んで墓標まで確認していた。
そんな興味が高じてお墓の仕事につこうとは思いもしなかったが・・・

そんなことが20年は続いただろうか。

おぼろげながら、分布が見えてきた頃にインターネットが普及し始めた。

ネットにルーツ探しのホームページを見つけ、苗字探しをライフワークにしている人たちの多さに驚いた。

あるサイトに出会い、全国の電話帳データベースを利用して僅かな金額で調べてくれることを知った。
依頼した次の日、添付メールが届き、全国の世帯数と分布をあっけなく知ることができた。

おかげで丸の内にあるNTTのセンターに行って暫く篭城する計画は中止となった。
二十年かけて未完の作業が一晩で終了した。ちょっとばかりつまらなくなった。
インターネットの怖さも感じた。同時に何かができそうな期待感も生まれた。

マイナーと思われた僕の姓は、全国に約3500世帯の同姓がいた。

今まで自分の研究成果以上の発見は、兵庫県の明石市に極端に多く分布していることがわかった。なぜここに多いのかは今もって解らない。
同時にその地方の方々が揚羽蝶の平家紋を使用していることも知った。
ふ~ん。兵庫県か。

実は神戸の付近には一方ならぬ深い縁があったのだ。

子供の頃のことゆえ今はどこにどうしているものやら所在も生死すらも不明なのだが。
いつか見つけてみたい人がいた。

そんな意識を持ち始めてからやたらと西に縁ができた。

縁とは不思議である。
出逢う人出逢う人、慕わしくて仕方がない。

原因があるから、結果がある。
もしかしたら、ご先祖が随分とお世話になっていたのかもしれないな。
冗談交じりに聞こえるが案外本人は真剣だったりする。

どういう縁に触れて、どういう結果に誘導されるのかはわからない。
けれど、とにかく僕にできることは、今を最良の出会いと感じて、最善を尽くすだけ。

そう思いながら出逢わしてもらう。
何とも言葉にできないほど実に楽しい。

今日はどういう縁のつながりなのだろう・・・
と思いながら次の出逢いを期待する。

ひさびさ

テレビ東京のガイアの夜明けを久しぶりに見過ごさず(寝過ごし)にすんだ。

http://www.tv-tokyo.co.jp/gaia/backnumber/preview090609.html
見なさいとばかりに上さんがチャンネルを回したのだ。
(今は回すといわないかな)

自転車がテーマだった。
通勤族に自転車が見直されていること。
自転車のユニクロ「アサヒ」の躍進のこと
アシスト自転車が原付の販売台数を上回ったこと
新システムの駐輪スペースのこと
などなど興味に尽きる内容だった。

ただね・・・

抜本的な自転車が既存の交通体系の中でどこを占めていて、現実どうなっているのかという投げかけがなかった(エピローグに一言だけあったけど)ことは残念だった。

もちろん自転車乗りからすれば、自転車は軽車両であって、車道を走り都市間交通の一助と思っている。

でも自転車を操作するほうにどれだけ意識をもって乗っているかと言う意識の格差は、ことを複雑にしている問題と思う。

交通マナーの問題で取りざたされる事だって、低速車と高速車をニ系統で考える所までいっていないし、実際の自転車レーンの問題だって、どうみても付け焼きとしか言いようのない姿に映ってしまうのだ。

朝のジョギングコースでも自転車を猛スピードで疾走させてくる通勤族の猛威にさらされている。いつかぶつかるぞ。

もうそろそろ行政も本腰を入れるときなのじゃないのかな。

変わったあ

表参道に足を伸ばした。

何年きてなかったろう・・・
同潤会アパートが取り壊されてからは全く来ていないから
10年以上ということになるか。


浅草のおじさんが来る所じゃなくなったみたい。

それでも一本道を入れば、閑静な住宅街はそれなりに残っていて喧騒さは逃れられる。
お客様商売していながら、人ごみは好かないのだから矛盾しているのかもしれない。

お坊さんの紹介で、創作家具の職人の個展に出かけたのだ。

こんな仏壇も洒落ていていい。


素朴な無垢材を使用して堅牢に造られていた。
さすがに家具職人の作だ。

浅草考

ここ最近自分の中のトレンディーは、なんといっても浅草の歴史。
兎に角かなりの時間を割いている気がする。

もともと歴史(日本史)は大がつくほどのめりこんで好きな分野だし、
仕事の一環で戸籍や過去帳も調査してきたし、それこそ墓石の設計依頼を受けて、菩提寺廻りも長い間携わってきた関係で寺院やお墓はそれこそ好奇心に磨きをかけるよいきっかけになってきた気がする。

調べれば調べるほど浅草の歴史は面白い。
貴重な物証は、残念ながら明治の廃仏毀釈と関東大震災、そして先の大戦で焼け野が原になったこともあって致命的に失われてしまった感もあるのだが、そこにロマンが生まれる要因もあるのかもしれない。
研究の余地がいくらでも残されている気がする。

のめりこんでいくに従って、それに比例して、
浅草寺日並誌など貴重な蔵書も手元に増えてきた。

蔵書名でお気づきのとおり近世の浅草文化史というのではない。

僕の関心事は、ただただ浅草寺篤信者第一号である土師中知つまり浅草神社で祀られている一之宮と浅草の曙のことに尽きる。
何しろ伝説的な部類の話しが実歴史をオブラートに包んでしまっている。
そこがまた神話っぽくて面白くもしてくれてはいるのだけれど。

浅草の語源にもなったという説もある藜(あかざ)の生い茂る湿地帯。
それが推古天皇36年当時の浅草の姿だった。
浅草観音を海中(浅草浦)から網で拾い上げ祀ったといわれる藜堂。
10人の童子の手によって庵は造られた。

藜堂の位置は二つの説がある。

一つが現在、戒殺碑の残る駒形堂がそれであり、
いま一つは、「一之権現社」として今の花川戸公園付近に近年まで存在した、
顕松院という浅草寺の一院であった。

残念ながら顕松院は明治中期に廃院となってしまい、自動的に藜堂も消滅した。

史跡(観音像を始めて祀った場所)としてこれほどまでに重要な堂であったにもかかわらず、いくら廃仏毀釈の嵐の中とは言え、何故、石碑ひとつ残さなかったのか不思議でならない。
そういう意味では駒形堂が藜堂の跡地である可能性が大であると思えてならない。

江戸期には三社祭りも今とはだいぶ様相を異にしていた。
船祭りとしての三社祭りの形態をとっていた。

浅草寺を出た神輿は浅草見附(浅草橋)まで渡御され大川(隅田川)に出る。
そこで羽田在住の猟師たち(先祖は浅草寺周辺の大川で漁をしていた)の漕ぐ舟によって川を遡上する。行き先はもちろん昔、浜成、竹成兄弟が観音像を掬い上げ上陸した地点である。

その地点が二通りあったという説に従って、上陸地点もそのとおりに行なわれていた。
駒形堂前から上陸する年と一之権現から大川に突き当たったところの舟付き場(東参道を東に隅田川の突き当たり)から上陸する年と二箇所を交互に行なわれていた。

二通りの説を江戸の人々は素直に信じて実行していたことになる。
実におおらかなものだ。

一之権現があるなら二、三之権現もあったのだろうがこちらは、はっきりしないようである。

そして藜堂造庵に加わった十童子も十社権現として浅草寺北側に江戸末期まで存在し、信仰を集めていた。

しかも、その末裔も浅草に代々連綿と続いていた(明治期まで嶋田家初め7家系確認できたという)のだから驚きである。

40年ほど前の毎日新聞の特集に浅草の歴史を特集した記事を発見した。

そこには、明治の廃仏毀釈がいかに凄まじく、国策として問答無用に寺院つぶしの嵐として我がもの顔に吹きまくられたかが記されていて、興味深い。

浅草寺と対を成していた浅草権現(今の浅草神社)を大鉈を振るって切り離したいきさつ。

代々浅草寺を守り続けてきた土師中知の子孫であった専堂家もここに消滅したいきさつ(ただし直系ではなくなったが傍系として守られてきたこと)。

代々秘仏として守られてきた観音像を時の権力で開扉させられたこと。
その調査官一行のその後の悲惨な末路など、寺と官権との攻防は、後世に語り伝えられねばならない事として山とあると感じた。

横道にそれたが、僕の店が立地する雷門2丁目18番地先は土師長夷(土師中知の末孫)の屋敷があった場所に位置する。

土地の古老ですら、記憶にない。しかしこれも立派な文化史跡なのである。

文化史跡が浅草には溢れている。

正しくは「溢れていた」なのだが・・・
黎明期のものは地中深くに眠っているだろう。
中世から近世のものは、先の大戦でことごとく消滅したように見えるが、どっこい無形な姿で残されている。

明治大正昭和の急激な近代化の中で吸収していった外来文化を花開かせたのもこの浅草の一面ではあるのだが、その陰に1400年以上続いてきた歴史が土台としてある。
これがまた浅草なのである。

だからここ浅草は懐が深いのだとも感ずる所以かもしれない。

ようやく

毎日カレンダーに朝の体重と体脂肪を書き込んでいる。
もちろん、歩くか走るか体を動かしてからの作業なのだけれど。

1月28日つまりお不動様の縁日から始めたから、今日でちょうど4ヶ月続いたことになる。
脳内麻薬が出るようになったのか、朝の空気が気持ち良いためなのか、こんなに走ることが続いた経験がなかっただけに楽しい。

何たって、小学校の校内マラソンの練習中、全校生徒を前に校庭の真ん中で堪らず吐いてのびて、一躍注目を浴びることになったことは、子供心に深く傷ついた。
そんなだから余計楽しいのかもしれない。考えると心的傷は随分としつこく直りにくい傷だと思う。

ただ、今月6日に足を痛めてしまう。
左ひざに端を発し、わき腹、右腿、右腰と連鎖反応的に崩れる。
体って絶妙なバランスでもって保っているんだなと学ばせてもらった。

そんなわけで今日までろくに走れなくなっていた。
精神状態は最悪だ。
気持ちの上では消化不良を起こしていたことになる。

外に出ると小雨。
ストレッチをするとあまり痛みがない。よし。今日は思い切って行ってみよう!短い距離だけど桜橋までの往復をゆっくり走ることにした。
多少右足を引きずりながらも完走できた。

え~と、これで体重で-6.2kg体脂肪で-6%。
ピスト(競輪用自転車)一台を肩から降ろした勘定になる。

さて、もう一台降ろさないといけないな。

床屋のはさみ

祭りが終って気持ちの切り替えに1000円床屋に出かける。

ここ最近、あっちにもこっちにもこの手の床屋が浅草にも姿を現しつつあるけれど、
僕は決まって吾妻橋を渡って雲子ビルの根本に行くことに決めている。

1000円で整理券を受け取り、数分待つことになった。
暇そうにしていた髪ぼうぼうの長男を引っ張り出してつき合わせたから、逃げられぬよう奴を先に席に着かせたから、少ない店員のここでは、こういう状況になるのは必然なのだ。

女の店員さんが気を利かせて前の人をすばやく終えてくれた。
僕は正直なところ男性店員のほうが気に入っているから、後でもよかったのだが。

そうとはいえないもの。

席に着くと即チョッキンチョッキンと髪を切り出した。
刈ってもらいながらも、やはり男性店員の順番を待てばよいと後悔した。
恐る恐る髪にはさみを当てるとでもいうのか、思い切りがよくないのが髪を伝わって解るのだ。

上さんにこんな話をすることはできない。どうせ・・・
「細かいんだから」と馬鹿にされるだけだから。

でも、刈られる側というのはそんなものなのだ。

はさみの音ひとつで、感情やキャリアや体調が伝わってくるものなのだ。
うまい人、元気な人、地震のある人が刈ってくれたあとは、多少下手でも店を出た後気持ちよい。
そんなことを期待して床屋に入る人もあまりいないかもしれないけれど、僕は子供の時からそうなのだ。

だから、

「刈る側」と「刈られる側」、原因者と結果者とでは違うものなのだ。

とまれ。
よく考えてみると、僕も店で販売や念珠の製作をしている立場で、同じことをしていないだろうか

理容室ばかりにあてはまるのじゃないものな・・・

かゆいところに手が届く、お客様のニーズを満足してもらえる販売、製作ができているだろうか・・・

気づかせてもらった・・・。

一之宮商店会のデビュー企画

わが雷門一之宮商店会の誕生祭を5月16日、17日の
三社祭りにあわせて行います。

100mの短いアットホームな商店会ですが、
盛りだくさんの催しを企画しています。

梅后流江戸芸かっぽれの100人踊りが見所です。

お囃子は去年も・・・

皇乃会による和太鼓。

そして演歌歌手のお二方も応援にかけつけてくださるとなると・・・


一の宮志乃さん。
一之宮つながりなのです。
しっとりとした歌を聞かせてくれます。

永峰ゆう子さん。
「三社祭」の歌が威勢が良くていい調子です。

さあ!
あとは頑張らなくちゃあ!!

となるのです。

タイムスケジュールは明日アップしますね。

迷う

もう来週は三社祭り。

先駆けて神田祭が始まる。
http://www.kandamyoujin.or.jp/kandasai/h21/index.html

「御仮屋すごいから見ておいでよ」との声に、じゃ見てこなきゃ・・・
とばかりに腰を上げているうちに電話がなって目黒の若旦那じゃないの。

「阿修羅展よかったですよ」
「阿修羅もよかったけれど、もっとよかったのは当時の念珠が展示されて・・・」
当時の技術の高さとほうぐに対する職人の心を語ってくれた。

ふ~~~む・・・

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=A01&processId=02&event_id=6113

さてどうしよう・・・