今日は蒲田のそら


空はどこでも一緒かというと、そうでもないみたい。
浅草で隅田川の上をのぞくのと浅草寺の境内から見るのとここと・・・
微妙に違って見える。

心のせいかもしれないが・・・

子供の頃、母親の働いていた江戸染め物の工場がここ蒲田にあった。

当時は国鉄を使って横浜から通った。
子供心には冒険旅行そのもので、ワクワクとドキドキが同居していた。

親のそばが唯一、安心のバックボーンだった。

しかし、肝心の工場で母親とはぐれた。
「ちょっと待っていてね」と声をかけられた記憶もあるのだが
心細さに頭の中は真っ白になってしまった。

工場のおばさんたちの慰めも制止も全く耳に入らず泣き続けた。

二度と母とに出かけることはなくなった。

そんな記憶がつい昨日のことのようによみがえってくる。

この町にはそんな想い出がある。


京急蒲田の立体工事が着々と進んでいるみたいだ。

随分町の表情が変わるなあ・・・

今日の一言

「青春はまってくれないぞ」

はいはい。
分かっていますとも・・・さ。

こういう一言って意外に府に落ちることが多い。
根が素直なのか単純なのか・・・
表現は自由だが、とにかく「そうだね」と思える受容できる自分が好きだ。

迷うときやここぞと思うとき、
心に念じ、本をパッと開く。
案外そこに的確な言葉が載っていることがある。
ないときは三度までくり返す。

心を軽くしてくれる言葉を探す。

お試しあれ。

お化けが出るかな

足元に35㎜のフィルムが転がっている。

大晦日の大掃除のときにどこからか転がり出て、そのまま年を越したのだ。
HUJIFILM ASA400-24枚撮り、使用済み。

2000年にはネットショップを始めていたから、カメラはデジタルに切り替えた。だから少なくとも9年はたってしまっていることになる。

中身はなんだろう・・・
概ね自宅で撮っていたものだとすれば、子供成長記録だろうか。

今更という気もするし、見たい欲望もでてくる。

中身を見たいいう欲求と、お化けになっていたらどうしようという葛藤があるのである。そっとしとこうか・・・いやいや、今ならまだ救えるかも・・・くだらないと思われるかもしれないけれど躊躇している。

しげしげ見ていると、たった24枚撮り、よくても36枚捕りの中によくまあ収まったものだ。
被写体を撮りたいという欲求を当時はよくこの枚数で我慢できたものだと思う。

中学時代はリコーオートハーフが我が家の唯一のカメラだった。
解像度は滅茶苦茶に悪かったけれど、フィルムを小さくこま割りしてくれるから通常の2倍枚数を撮ることができた。
高いフィルムを買えなかったBoo家では非常に重宝した(おまけにモータードライブだったし)。

それでもせいぜい36枚撮×2+α=80枚程度が限界。
子供心にこれは凄いと感じた。ついでに現像代も凄いことになった。

今は僕の携帯電話ですらメモリーが1ギガだから・・・3000枚以上は撮れる勘定。
普段何気なく使っているけれど、改めて考えると技術の革新は凄いことだ。

フィルム時代は限られた資源、資産のバランスの中で、渾身の一場面にチャンスを絞って画面を切り取っていた。フィルムがもったいなくてやたらと撮れなかった。
好き放題に撮れないだけに、一枚一枚に魂がこもっていた。
デジタルになって何となくこの一枚に対しての思い入れが希薄になったような気もする。こんなこと感じるのぼくだけかなあ。
まあシャッターチャンスに賭ける勝負の世界は同じなのかもしれないが。

気に入ればとっておく。気に入らなければ捨てる。デジタルならでは自由自在の世界。自由な反面これって日本人の美徳を失わせたかもしれない。限られた資源の中で工夫を凝らすと言う発想に鈍化をもたらしたのかもしれない。
まあこれもデジタル文化かな。などと、どうでもいいことにあーだ、こーだとこねくり回す思考がそもそもおじさんなのかもしれない。

簡単にしかも自由に写真を撮れるのは楽しいものね。

やはり、フィルムの中身が見たくなってきた。
お化けの出現を覚悟で、近くにある現像無料のDPEに出してみようっと。

保身

彼は間違いなく誰も文句の付けようのない正真正銘のヒーローだった。

社会の悪を見過ごせなかった。
強者が弱者を甚振る姿に耐えられなかった。絶対に許すことはできなかった。

いかなるときも弱者の側にいた。
勝ち目のない喧嘩とわかっても矛盾を感じれば、命がけで闘った。文字通り命をぽんと投げ出す覚悟をいついかなる場面でも、失うことはなかった。
ポーズではなくまさに命がけで。

そんな彼を民衆は徐々に理解し、彼のあとについた。いつしか彼をヒーローと祭り上げた。

彼は名声をほしいままにした。

いつしか強者の中にも彼の側に立つものも生まれた。
彼の側に立てば富と名声のおこぼれをいただけると打算する者たちも彼の回りに増えていった。
彼の助言は国の進路を決定する者たちまでもが参考にするほど強大なものにそして危険を孕むものにもなっていた。

彼が語る一言一句は、書き取られ心の指針とされていった。

きらびやかな名声と富の中で彼は美しい妻を迎え入れた。
子供にも恵まれた。
そこに保身が生まれた。

どうすればこの地位と名誉を継続することができるだろうか。
そう考えるようになったとき、彼の一言一句からは光が失われていった。失敗を恐れるようになった。
英断を下し犠牲を最小限に抑えることより、決定を、闘いを先延ばしすることを覚えた。

為政者をも恐れさせた名刀も、保身という錆びが刀身を覆いつくしていた。

冒険を恐れるヒーローに民衆は敏感に反応した。
一人また一人彼は自分たちの友ではないと気付き始めていった。
一度堰が切れると地に落ちる名声は止めようがなかった。

彼は何がそうさせたのか気付くよしもなかった。

と言う所で目が覚めたのだ。

枕元にあった封筒に「保身」とだけ書いて、夢の続きを見ようと目を瞑った。が、外の雨音に目が冴えて残念ながら第二部は見損なってしまった。

昨夜みた「20世紀少年」の影響が少なからずあるかもしれない・・・
単純なやつ。

昔、技術屋を生業にしている頃、もう35年も前になる。
神奈川県の逗子に仕事で毎日のように出かけていた。
自分の担当する現場が逗子駅近くにあったためで、文字通り日参の毎日だった。

昼をまたげば、当然現場で昼食となる。
パン好きの青年は当然パン屋に入る。
駅近くのパン屋に何度か足を運んだ。
美味しい店で、寄り道をして買って帰った記憶もある。

時は現代に移り・・・
2~3日前に店の子・・・といっても同い年なのだが。
昔話になった。

青春の頃は、逗子の海にはよく行ったことや、渚ホテルが潰れたことなどなどと、年寄りのお茶飲み話なのだが。
そうこうしているうちに話は、彼女が逗子のパン屋の親戚筋で子供の頃はよく手伝いに行っていたという話となった。

「○○堂って言うんです」
今はなくなってしまったけれど、ちょっと有名なパン屋だったという。
「え!」耳を疑った。

まさしく、え!なのだ。

そうでしょうよ・・・だって、そこで買ってたんだもん。

こんなことあるんだねえ。

靴底

毎度思うことだけれど、僕の靴の寿命は短い。
せいぜい半年。
1年持てば御の字だ。

「気に入るとそればかり履く」
と、言う「着たきりスズメ現象」もあるとは思う。
でも気に入らないのは、靴底が片減りし過ぎてダメになることなのだ。

かかとの外側ばかりが極端に減ってしまう。
そのうち外側に足が取られ転げる。

そんなことで靴の屍を累々と作ってきた。

ほんの子供の頃、墓参りの帰り道のことだった。
いとことじゃれあいながら先を走っていると、後からついてくる母親と親戚の会話が耳に届いた。

「うちの子ガニマタだから」と自虐的にも聞こえる話し言葉に少なからず幼心に傷となった。

当時は意味もわからない言葉だったのに。
ただ、「ガニマタ」というイントネーション的に、あまり良い言葉ではなさそうであると直感したのだろう。

子供の耳は敏感だと言うことを親は気付かないといけないいい例である。

今年になって去年の夏頃から本格使用を始めた皮靴のかかとに穴が開いた。
またかと思いつつも、もったいないという思いと「ガニマタ」の記憶がフラッシュバックする。執念深い奴である。

この機会に少し調べてみようと思った。
靴の減り方には整体的な部分があるようで、歩く理想的な減り方と言うのもある。
かかと辺りと親指の付け根辺りの減りがあるのが「歩く」という行為において、体重移動の正常な減り方らしい。
http://www.tiger-japan.co.jp/h_report/008_report.html

が、僕の靴は極端に片減りだから、あまり芳しい状態ではない。

どうやら、靴の減り方の原因にはこの「ガニマタ」というキーワードが少なからず原因となっているようである。

他のサイトには「丹田に力の入らない歩き方をしている」とも書いてあった。

今度はへそ下一寸にも意識をしながら歩いてみようと思う。

お客様と一緒に歳をとるということ

Mさんが店におみえになった。

気が付けば二十年来お付き合いしてさせていただいている。
仏さまを観るのが大好きで、ずっと観音様にも通い続けている。
ちょっと前までは、巡礼にも暇を見つけては出かけいた。

もう八十の坂を超えるが、しゃきっとしていて一人暮らし。
ここに来ると「お話しちゃうのよね」
と、照れ笑いされながら何度も頭を下げて帰られる。

そんなに気を使わなくてもいいのに・・・

うさぎ屋のドラ焼きがいつもMさんの手土産。

うさぎ屋の包みがあると「Mさん来られた?」で99.9%間違いない。

ぬる温かい風はいやと、冬は絶対に暖房をつけない。
「だからこんなになっちゃうの」としもやけした鼻の頭を指差した。

夏は「クーラーの風はきらいなの」と35℃を軽く超えるであろう西日の差す部屋にあっても汗をかきかき過ごす。

そんな姿に凛とした古い日本の女性を見る。
江戸っ子の粋とも意地とも思う。

以前、若い頃の写真を拝見したことがある。
照れながらも僕のお願いに応えてくれた。

丸髷を結った若い姿に時代を感じた。
モノクロ写真は、もうセピア色になっていた。
でもそこには、僕より若いMさんがいた。

ぼくは人生の先輩の若い時代の写真を拝見するのが大好きなのだ。

今は老齢になられていても、
母の胎から生れ落ちた瞬間があった。
文字通りの青春があった。
恋に胸を焦がした時代があった。
子育てに格闘した時代があった。
そのすべてが先輩たちの容姿に刻印されているのだ。

その道程を想像するのが楽しくて、興味深くてならない。

Mさんも暦を刻んで80年。
家族のために懸命に身を粉にしながら戦前、戦中、戦後を生き抜いてこられた。

それ相応の年輪は確実に刻まれたけれど、
心はより人として深みを着実に増していった。

考えていくと時空と言う座標軸なんて、肉体の若さという尺度なんて、なんだか全く意味のないもの、虚しいものに感じてくるのだ。

結果としてMさんにいつも元気付けられる。

考えるに、元気の素を置いていってくださるゲストが実に多いことに気付く。

故に、こうして今まで商いの僅かでも続けられてきたのだと思う。

あるがまま

たまたまかけたテレビで流れていた。

子供名も自分の名すら忘れてしまった認知症の祖母が、唯一覚えていた夫への愛を歌にしたのだという。

唯一覚えているとしたら、もし僕なら誰を覚えているだろう・・・