無理解

子供の頃から思い込みしやすい傾向が強かった。

お腹痛くなるかな・・・痛くなる。
そろそろ頭痛くなるかな・・・ガンガンくる。
車に酔うかな・・・間違いなく酔ってしまう。
玉を捕りそこなうかな・・・顔面で受けて鼻血を吹き出す。

のめりこむかな・・・間違いなくのめりこむ。

悪いことばかりではないのだが、どちらにしても心底信じてしまうとそうなっていく。
自己暗示にかかりやすいとでもいうのだろうか。
それがうまくコントロールができなかった。

一時はひどくなる一方でついには、4時間目の授業の鐘を聞いたとたんに気分が悪くなる。
保健室に行く。病気ではないからちょっと横になれば昼休みにはけろっとして教室に帰って何事もないように給食を食べている。
今なら心療内科ものかもしれないが、小学時代は身近にはどこにもなかったから、周りの無理解に一人苦しんだ。

そして相変わらず適当にお茶を濁しておこうというのはどうも苦手で、
行くとこまで行かないと路線を変更しない。
子供の頃は結構これがカウンターパンチだった。

いつの頃からだろう、そんな性格を逆手にとることを覚えた。
あらゆる過去の事例から、事前に自分の行動パターンはこうだから、次にはこうなると描けるようになった。
だから極力マイナスの発想はプラスに切り替える。

酔わない・・・
今日は気分がいい・・・
前向き前向きに思い込むと思い込めるもので、それが自然体になった。

お日様が出てるから今日はいい日になる。
雨だから、雨を楽しもう。今日はいいぞ。
曇りだから、すごしやすいぞ。
要するに天候に左右されない。
目の前の事象がありがたいと信じ込めば幸せになるのだ。
ということなのだ。

今はすこぶるそれが当たり前になった。

ただ・・・
勉強できる・・・は、どうも理想通りには行かなかったようだが。

亀吉のイメージチェンジ

大阪のMさんにいただいた亀吉は、これで2度目のイメージチェンジ。

店のみんなに愛されて、カメなのに毛が生えてしまうし、しかも赤い。
眼鏡をかけて主人に似ようとさせるし、

新年を迎えるから金縁の眼鏡にかけかえていた。

次はいかなる変身を遂げるのだろう・・・

生きざま死にざま

大好きな父親のような師匠が胃の全摘出の手術をした。

貧血が続くので検査入院のつもりが緊急手術となった。
全身の血液が本来の三分の一しかなかった。
そんな体を引きずって前日まで国士として東奔西走していた。

師は韓国と日本の間に横たわる溝を僅かでも埋めるために四半世紀、文字通り供養の行を行ってきた。
初めて訪れた韓国では袋叩きにあうような位置からの出発だった。
耳塚、鼻塚の霊を韓国仏教界と手をとりあい故郷に戻し、靖国神社内に眠っていた、かの大戦の戦利品として軍が持ち帰っていた、北関大捷碑(国宝)を故国に戻す偉業を自らを顧みず果たされた。

文字上は数行で片付けてしまいそうなことであるのだけれど、国を越えた積年の恨みを供養することと、現実問題として国の面子のかかったことを打破することがどれほど難しい道程であったか、言語に絶するものがある。
やってみろと言われて、どこにも遺恨を残さず、むしろ未来に希望をつなげて達成できる者があるだろうか。

用事があって久しぶりに訪ねた。

いつもの狭い仏間のソファーにちょこんと座し待っていてくれた。
細身ながら格闘技で鍛えた筋骨隆々さは影をひそめていた。
60kgあった体が40kgに落ちてしまったと口にされていた。想像以上に体力が落ちているのは目に見えていた。

「今まで生き様を見せてきたけど、
今度は死に様を見せていこうと思うんだ」

人は、いや生きとし生きるものはどうあがいても間違いなくいつか死をむかえる。死に向かって生きているなどと言う言い方もある。
どう人生の幕を降ろすか・・・障害の課題でもある。

遺言を受け取った気がした。

今日は何の日

仏教の成道会(じょうどうえ)。

つまりお釈迦様が悟りを得た日なのです。
なんの苦労もない一国の王子として生まれ、結婚し、一子をもうけ何不自由ない暮らしをかなぐり捨てて、苦行の道を選ばれた。

釈迦苦行像に見られるように死を覚悟した末も悟りを得ることはできず、半死半生のところを、村の娘、スジャータの乳がゆに一命を取り留めた。
その後、菩提樹下で禅定に入られ悟りに至ったというのだ。

その記念すべき日が今日。

仏教徒にはとてもとても大切な日。

そして、もうひとつの意味合いが真珠湾攻撃が決行された日としての12月8日。

日中戦争が太平洋戦争に拡大した分かれ目の決戦は、現在の評価はさまざまだけれど、日本の置かれた当時の状況下の中、よくよく世界情勢を調べてみれば(大国にはめられた感はぬぐいきれないけれど)、やむにやまれぬ行動として起こさざるを得なかったことも日本人として理解できる。

そんな日が重なる今日は何だか考えさせられる一日なのだ。

らくだ

若い頃は季節にかかわらず、いつも薄着だった。

真冬の寒風吹きまくる河川や海岸淵を測量するときでも、ペラペラの作業着を着ただけで、長靴を履いて丸一日川面を走り回っていた。

冬になると毎週のように行っていた徹夜のスケート場でもジーパン一枚(もちろん上着は着ていたが)だった。それでも寒いなんて感じた記憶がない。

ツーリングで雪道を自転車で走っていたときも、ニッカーボッカの下はよほどのことがない限り素足だった。

あの頃はいったいどういう体だったのだろう。

まあ、小学校時代は一年中雪が降ろうと半ズボンだったのだから、年(歳)毎に厚着になってきたと言える。

こうして想像しているだけで背筋がゾクゾクしてくる。

今は店に立っているだけなのに、底冷えしてきてしまうから、当たり前のようにズボンだけではすまない体になってしまった。

ズボン下は日常生活の必需品になっている。
特に好んではくのがらくだのももしきというやつである。

若い頃さんざん馬鹿にしてきた「らくだ」なのだが・・・
しかしこれは問答無用で暖かい。
と言うことで手放せない。

でも・・・あれ?おかしいなあ・・・

今年は、まだお世話になっていない。

これも温暖化のせいだろうか。 それとも・・・

情報

SNSのコミュの方から知らせをいただいた。
小学校の恩師が亡くなられたという。

6年生の途中での突然の転校だったから、担任として最後の最後まで心配してくれた。
突然の引越しで音信不通となって41年過ぎた。風の便りでご健在であることは聞いていたのだが、何処におられるかは知るよしもなかった。

突然の知らせをもらって、いささか狼狽した。

当時の話しを聞きたかった・・・。
今としては、どううにもならない。
けれど、何だか・・・記憶の糸が繋がったような不思議な感覚になる。

インターネット・・・便利なツールだ。

再認識させられた。

0系引退

0系新幹線引退!

・・・知らなかったッス。

http://0kei88.com/

昭和39年のオリンピックにあわせて開通した新幹線は、夢の超特急の名がすべてを表現している。
小学生の僕の目にも特急つばめを除けば流麗なシルエットに国鉄のイメージを払拭するほど天地がひっくり返る驚きだった。

東神奈川からの横浜線もまだまだ小豆色のローカル電車。
新横浜の周りは目の高さほどの青草に覆われていた。
田園地帯を疾走する0系。

40年の冬休みに神戸へ行くとき初めて乗ったあの滑るようなロングレールの快感。心配していた乗り物酔いも全く心配ない頼もしい存在だった。

あれから44年かぁ。

どうりで。

北帰行

流氷を見たくて冬の北海道に出かけたのが高校2年の冬。

毎日の昼飯代と日曜日のバイト代をコツコツ貯めた。
周遊券の冬割と学割で交通費は5000円、ユースホステルを利用して1週間全てひっくるめて15000円前後だった気がする。今思うと信じられない安さだが、それでも予算ぎりぎりの旅だった。

途中、札幌で山岳部の親友と合流し、1泊だけユースを共にした。
あとは一人旅だった。
親を安心させる為、二人で行くと理由にした手前の方便でもあったのだ。そのくせ現地で落ち合ったときの安堵感はたいへんなものだった。これほど人恋しくなったのも一人旅の仕業だろう。

残念ながら、流氷とは会えなかったが、函館、札幌、旭川、仙台とチンチン電車の写真を撮り歩いた。特に旭川は、廃止予定を知らないで数日前に出くわした。最北端の地に根付いた鉄魂に片鱗に触れることができた。

北風の吹く時期になると、「コトン、コトン」という北行きの線路の音が聞こえてくるのだ。

感傷

姪が今月結婚する。
悩み多き年頃に、叔父としてして何もしてあげられなかったのが悔やまれるのだが、中学時代から毎年正月には僕の店にアルバイトに来ていた頃を思い出しては感傷に浸ってしまう。

あいにく僕には4人の子供全てが男だったから、最初で最後の感傷になるのかな。
こんな性格だから、神様は女の子を授けなかったのだろう。

なんて考える。

古物商

小学校6年の夏休み。
休みを前にするワクワク感は、その年僕には憂鬱だった。
夏休みの計画に興じる友人たちの輪に入ることができなかった。
家の事情で夜逃げ同然で引っ越すことになったからだ。

横浜でも東横線沿いの斉藤分という下町から、京浜急行添いの商業地域の井土ヶ谷の下町に引っ越した。

同じ「下町」でも大学と農家をバックボーンにした下町と、ドヤ街のような忙しない商業地域の下町とでは人心にもたらす影響はすこぶるあるように子供心にも感じた。

親に押し切られる形で転校してみた学校はすでに修学旅行も終わり、すでに卒業ムードにあった。ちなみに転校前の学校では就学旅行は秋だった。日光には後々まで縁がなくなった。

とにかく行けないとわかるとますますしょげた。

半年だけの母校には、どうも馴染めなかった。
友人はすぐにできはしたが、借りてきた猫状態は抜け出せないままだった。

観音霊場で有名な弘明寺は自宅から子供の足でも30分圏内にあった。
数少ない友人が弘明寺にいたこともあってよく遠征した。

何をして遊んだのか全く記憶にないのだが、川沿いの古い映画館を覗いてみたり、弘明寺の境内を散策したり、まだそこらじゅうにあった防空壕に秘密基地を造ろうとしたりと結構子供心には刺激が多かった。

ある日曜の朝、友人の自転車に二人乗りをして上大岡まで出かけた(当時は上大岡も恐ろしく田舎だった)途中、鎌倉街道と旧道の分岐点あたりで小さな古物商を発見した。
「今度来てみよう」そう思わせたのは、古銭マニアだった僕の目には古物商と見ればキラキラ光る宝石箱に感じたのだ。

日を改めて、その宝石箱に1人で出かけた。
「銀鱗堂」トタンにペンキ書きされた看板を見た。
半間程度の窮屈な店舗に入りきらない品物が歩道に溢れていた。
その一つ一つが僕には宝物に見えた。

建付けの悪い戸を開き店内に入ると、独特のかび臭さ。
薄暗い店内に、初代水戸黄門役の東野英二郎そっくりさんの店主がぎょろりと目を光らせた。

小学生が古物商に訪ねる用などない。と、言わんばかりにその目は語っていた。
胡散臭そうな空気に気まずさを感じながらも、
「古銭は置いてないのですか?」と勇気を奮い立たせて尋ねた。
案の定返ってきた答えは
「ここは子供の来る所じゃない」と一蹴。
背中を押されて店外に出されてしまった。

(くそおやじ!)
声に出す勇気もなく、しょぼしょぼ来た道を戻った。

次の日も同じように「銀鱗堂」に懲りもせず出かけた。
同じように追い返された。
何で懲りなかったのだろうか。今考えると思い出せない。
とにかく古銭さえ見ていると楽しかったのだと思う。

楽しいことは、多少の無理解にもめげなかったのだろう。

そして次の日も出かけた。
その日は外に展示してあった江戸時代の古銭額に目が留まった。
その説明書きをせめてメモしておこうと書き写していると、

「熱心だね」背後から声がした。

水戸黄門が忍び寄っていた。目には笑みがこぼれていた。

「そんなに好きなのかい?」

素直に「はい」と答えた。

「お茶でも飲んでいきなさい」と店内にようやく招かれた。
所狭しと無造作に置かれた古物の溢れる店内。
奥まった場所に水戸黄門の定席と丸椅子一つが客用として用意されていた。

茶しぶのこびり付いた古物商らしい湯のみに茶を注いで、どうぞとすすめてくれた。

小学生がこんな所に何しているのかと聞くので、好きなんですと答えたのを皮切りに、僕の生い立ちを聞かれ、母子家庭ということに深く同情し、僕はすっかり打ち解けてしまった。
古銭の話は、日々舐めるように見ていたコレクター本の知識をここぞと得意に話した。
同情されたり、同趣味に興じる仲間としての自慢話。何とも言えないひと時にすっかり居心地のよさを感じてしまった。

気付くと外は真っ暗になっていた。

改めて数えると、たかだか1年にも満たない僅かなお付き合いだったのだけれど、不慣れな環境で抱えるストレスはここで解かれ、癒されていたと思える。なんとも懐かしい場所なのである。

跡形もなくなった今でも、当時の光景をふと思い出す。
白髪の老人と小学生の自分が同じ趣味談義に興じる姿を。