恨みの連鎖を絶つということ

「淵田美津雄」と聞いて、
「あーあの人ね」と答えられる方は、相当のミリタリーファンか
昭和一桁以前の御仁か親族かと思われる。

かく言う僕とて、ゼロ戦や戦争漫画の好きだった子供時代を除いて、
ミリタリーファンでもなければ、戦前に生まれたわけでも、
ましてや親族でもない、単なる凡人であるから、
その名は全くもって知らなかった。

彼の名を知ったのは、たまたま書店で手に取った一冊の本によって
知りえたに過ぎない。

彼、淵田美津雄は、太平洋戦争の開幕となった真珠湾攻撃、
つまり「トラトラトラ」の映画を観た人なら「あーあの」と思うかもしれない。
航空母艦「赤城」を発艦し、第一次攻撃隊を率いて最前列の機に乗っていた
その人である。その指揮により奇襲を成功裏に導いた。

最近、本を読むよりweb上の資料を読むことの多い僕にとって、
昼食の僅かな時間がささやかな読書の時間となっている。

長編も短編もこの時間にこつこつ読む。

「真珠湾から66年目の初公開」「真珠湾攻撃総隊長の回想自叙伝」
という表題に思わず手が出たのだが、半年も前に買っておきながら、
他の本に現をぬかして「つん読」状態にあった。

丁度読む手頃な本がなかったことで、ようやく単行本の厚い装丁の表紙を開く機会を得た。
数ページ、目を通した。
海軍士官学校時代、総隊長時代の写真、いかにも軍人の面構えだ。
そして伝道活動中の写真・・・え!伝道って?

そう・・・彼は戦後、東京裁判、公職追放、等々の荒波を受けていた。
一方的な魔女狩り的裁判であった、東京裁判の報復を企てようとアメリカからの引き揚げ捕虜兵たちを取材する中で、ある兵の証言に出会うことになる。

その証言とはこうだ。
手足を失うような重症患者たちが収監されていた捕虜収容所でのことだった。
彼ら日本兵に対して、あるアメリカ人女性の献身的介護が続けられた。あまりの献身さに感動した日本兵はある日、何故それほどに敵国の我々に尽くしてくれるのかと問うた。はじめ口ごもっていた彼女だったが、意を決して口を開いた。彼女は牧師であった両親を日本兵に無慈悲にも首を落とされ殺された。訃報を聞いた彼女は日本人を呪った。しかし、亡くなる最後まで祈っていただろう両親の姿。許しの葛藤の中からキリストの愛が芽生えた彼女だった。恩讐を愛そう、日本人捕虜の収容所にソーシャルワーカーとして介護を始めた。というのがその内容だった。

何故恨みに愛で報いるのか・・・
自分だったらどうするだろう・・・日本の文化ならそうはいかないだろう。
恨みには恨みで応え、さらに恨みは続くだろう。

己の小ささに気付き、驚き、報復のための聞き取りを中止する。

恨みの連鎖は断ち切らなければならない。
聖書に触れる起因となる・・・。

39歳で真珠湾攻撃の総隊長を任じられ、10年後の49歳のときにバプてスマを受けるこの不思議さ。
ミッドウェー、ガダルカナル、沖縄、を指揮し計画し、敗戦のミズーリ号上の調印式の現場にまでも立ち会った戦闘の猛者が敵国の宗教と思われていたキリスト教に改心した。
次々と離れていく友人たち、戦友たちからの疎外、特攻隊から命を狙われることすらあったと説く。

そして、昭和27年5月、周りの反対を押し切り、日米両国とも戦争の傷の癒えぬ、憎しみ渦巻くアメリカに伝道のために渡る。
戦争だったとは言え3000人以上の命を奪った真珠湾のヒーローがその渦中に飛び込む。
行間に血涙が滲み出て見えた。

大艦巨砲主義を批判し続けた熱血漢の若き軍人の軍記ものと思って読み進むと、さにあらず、本の後半部分にちりばめる彼の言には、赤裸々な人としての葛藤と、神との出会いの喜びが溢れている。信仰告白書のようであった。

店から本を持ち帰り夜中に読み始めたが、気が付くと白々と朝を迎えていた。

充電時間

二日以上続けて風邪で休んだのは十数年ぶり。
今日はもういろいろなタイムリミットがあるからそうは行かないだろう。

だし、腰が痛くなった。
贅沢なものとおもうけれど、寝ても立っても痛くなるぼくの腰。
一番のワークポイントなのだ。
多少熱があってももう布団は払って動き出してしまう。

寝ている間にも社会では八王子の事件や東北の地震や
刻一刻と様々な様相を呈している。
たった二日で情報の浦島太郎になってしまう。

けれど、ウラシマ現象を嘆くのではなく
たまに病人になると違った世界が見えてくる特典もある。
考える時間も多くなる。
文字どおり充電時間がとれる。

子供時代は、体が弱くて何らかの病気を抱えていたから
床に付すことも多かったし、病院は一番の友だったし
充電時間ばかりが長かったなとふと思いだした。

そろそろ活動再開だ。

人の振り見て

夏風邪なんて40数年ぶりにひいた。小学校以来だ。
点滴をしていきなさいという。
これも高校生以来だから35年ぶり。

点滴に思いがけず(予測はしていたが)約一時間ベットに転がっていることになった、
やることはないから目をつぶっている。
つい周りの声が聞こえてくる。

「あのばあさんわがままで困っちゃうわよ」
「まだよまあだ!」

横を見ると80歳前後の老女が僕より2倍の量の点滴を受けていた。
なかな減らないから飽きてきたのだろう。
チューブをゆすって(もちろんその先は腕に刺さってい)早く落ちろー落ちろと振り回している。

気持ちはわかるが、ぞっとした。

看護婦さん(僕はあくまで看護婦さんと呼ぶ)のひそひそ話しが、
よりいっそう強く聞こえてくる。
気持ちはわかるけれど、ある意味でのサービス業でもあるなのだから、
躓かせてはいけない。

壁に耳ありで誰が聞いているかわからないのだ。

現に僕は知らぬ顔をしながらも聞いているのだから。
でも、足元は大丈夫かと思い返した。

香りゼロ

「匂いの少ないお線香ちょうだい」
「洋服に匂いがつきたくないから」

開口一番こう切り出して店に入ってこられる方。
解らないでもない。

さらに進んで
「匂いのないお線香ないの」
となる。

匂いのないお線香。

お線香とは、「香」すなわち「かおり」のベースを線状にしたものなのだ。
つまり
「かおりのしないかおり」はないのか、と聞いておられるのだ。

さてこれは困った。

お客様の希望とあらばでき得ることは何とかしたいと思うのだが、
「香のしない香」とはいかなる香なのか・・・

大事なことは、「香のしない」という意味には二通りの解釈があるということなのだ。
つまり、

1.文字通り無香料を意味する言葉

2.お墓やお寺で使う線香の匂い・・・特にお墓で「目痛いわね」といいながら使う杉っ葉線香のようなお線香をイメージして、そんな抹香臭いのはいやと言っているようなのである。

2.は、まず無理解からくる誤解と思っている。
だって現在のお線香はほとんどがフローラルや香木のピュアーな香が多いのだから、
香水かと見間違う香と出会えていないところから来る誤解と思っている。

1.については、実は聞き捨てならない言葉なのだ。

なぜなら、香があるから、香なのだ。
香がしなければ、「線」ないし「線火」となってしまう。
「線ください」
では格好にならないだろう。

「香はほとけさまのお食事」とは昔、年寄りによく聞かされた言葉だ。
初物を差し上げるのもやはり一番のものはご先祖様にという配慮と、
香の良いものを差し上げるということだと気づかされる。

不思議に仏前に差し上げたものをお下がりとしていただくと匂いが激減していることに以前気が付いた。
置いときゃ匂いもしなくなるわさ。と思う諸氏はそれでもよい。

自分なりになるほど香を食されるのだなと思ったのだからしかたない。
そしてお花も香が命。
キーワードは「香」なのだ。

そこへいくと、線香はまさに「香」の塊だ。

だから火をつけるだけの線香なら、ローソクにその座を譲ろう。

火が危ないと言うのなら、火を使わないペースト状でも、
石ころ状でもよいのではないか?とさえ思う。

少しでいいのです。
「いいなあ」「ほっとするね」と思う香を仏法僧の3本なんていわないから、
少量でよいので差し上げて欲しいなあと思うTONちゃんなのでありました。

ちなみに「香ゼロ、全く臭いません」、というお線香もありますょ。

※「臭う」と「香る」は違います。念のため。

夏休み

昼近くに用事で自宅に戻ると同じマンションの子供たちが、
プールの支度をしてはしゃいでいた。

「あれ?学校はどうしたの」と聞くと、
「きょうで学校終わりだもん」と答える。

あ!そうか。

公立の中学に通う息子が、今日は終業式で明日からいよいよ夏休みと言っていたっけ。

思い出した。

「じゃあ通信簿もらったね。よかったかい」
「うん」とうなずきながら舌を出して照れ笑いをしていた。

うちの愚息はどうだろう・・・
と思いながらも、同時に子供時代の我が身の所業を振り返ってしまう。

夏休みが近づくと、ジージーやらミーンミーンやらの蝉の声が、
「プールだよー」「海だよー」「遊ぼうよう」と聞こえてきてしまう。
本当に聞こえちゃうのだ。
家の中でじっと机にかじりつくなんて到底考えられなかった。

出された宿題の山は、初めの意気込みも何処へやら、
夏休みも1週間もすれば、記憶からはすっかり消えていた。

始業式数日前から突貫工事となるのは必至だった。

けれどよく考えてみると、毎日宿題をするわけでもないし、
いったい何をしていたんだろう???
思い出せない。

よく40日以上の休みを毎年毎年、無事消化したものだ。
あきれるほどに思う。

目まぐるしく対象を変えつつ、好奇心いっぱいに遊んでいたのだろうと想像するのだが・・・

縁は異なもの

僕の店をご存知の方には、ご理解いただけると思うのだが、
店の前面の道路は、浅草にしては珍しく、何の変哲もない黒い舗装の道案内すらない、通り会もない、ごくごく普通の生活道になっている。

地下から地上に出ると方向御地になりやすい。
他の人はわからないが、僕は土地不案内の駅で地下鉄から地上に出るといつも迷子になる。

だからこの通りの商店は道を尋ねられる機会が甚だしく多い。

訪ねられるのも縁のうちと思える者にあたればよいが、そう思えないものもいる。
理不尽な答えをする不届き者もいるみたいで、観光客は浅草の第一印象を損ねて帰ることになる。浅草を好きな自分としてはたまったものではない。

とにかく都営地下鉄を利用して、横浜や千葉方面から地上に出てくると、まずこの通りに出ることになる。

じつは、この通りには思い出がある。
思い出といっても姉が体験した間接的な思い出なのだが。

僕が20才のとき二つ年上の姉は職場結婚をした。
もうできないからと結婚前に最後の家族旅行をすることになった。

僕は照れもあって、なんとかかんとか理由をこじつけて辞退した。
二人で行っておいでと見送る側に回った。

数日後、姉と母二人は日光に出かけた。
方向音痴の二人で大丈夫だろうかと不安を残しながらも。

当時住んでいた横浜から日光に行こうとすれば、
京浜急行を使い相互乗り入れしている都営地下鉄の浅草駅で一旦地上に出て、
松屋デパートのある東武電車の始発駅に乗り換えるのが定石だった。

母は青春時代(戦中)仙台から川崎の軍需工場に動員されていた。
仕事の合間になると、仲間と浅草には遊びに来ることが多かったらしい。
そんな思い出の土地ゆえ、多少の土地勘に自信をもっていたのだろう。

けれどその自信はみごとに砕かれる形となった。

日光から帰ってきた母娘の土産話は、親子喧嘩の話しからはじまった。

都営地下鉄の浅草駅で地上に上がってから、全く方向がわからなくなったのだ。

大きい通りに出れば、すぐに乗り換え駅が見えたはずなのに、
小道である側に出てしまった。

つまり将来、僕の店ができるの側の道だ。

人に道を聞いてもさっぱり要領を得ず、ぐるぐる歩き回っている間に指定をとっていた特急列車は無情にも発車してしまった。

まさか、その十何年後に弟が親子喧嘩の舞台になったその「通り」に
店を出そうとは夢にだに思わなかっただろう。

僕とて、この路上で母娘して血相を変えて走り回っていたかと思うと
旅に付き添わなかった済まなさと、可笑しさが入り混じる。
そして同時に、縁の不可思議さを感じてならない。

CHANGE

知らなかったわけではないのだが、一度も見ずに終わってしまった。

最近のドラマを観るときはいつもこのパターン。
最終回が終わった後にのめりこむケースが多い。

古くは、北の国から・・・ドラゴン桜もそうだった。
こつこつとビデオを借りてきて夫婦で夜な夜な見る。

だからちょっとタイムテーブルが狂っている。

今流行っている話題ではない話題に夢中になるのだから。
一般の人相手にはそれこそ話にならない。

けれど、僕の中ではトレンディなのだから周りはついていけないことこの上ない。
そこが面白い。
同じことを話題にしても何も面白くないだろう・・・くらいのものである。

とどのつまり、天邪鬼なのかもしれない。
と思うことも多少なりとも・・・ないこともない。

まあともあれ、
改めてみると結構はまりそう・・・

http://www.veoh.com/videos/v14957610FBcraYtR?source=embed

こういう観かたもあるのだ。

鈍行列車

友人の出張話を聞きつけ交通手段を調べているうちに・・・
ちょっとのつもりが、どっぷり深みにはまってしまった。

昔、名古屋や京都に出かけるには、
新幹線などという文明の利器を使用することはごくごく希なことで、
十中八九間違いなく、大垣行きの鈍行列車を利用していた。

何せ青春の貧乏旅行であったし、朝早くに目的地に着けば、
目イッパイ行動できる。
行動終えたらまた夜行で帰ればよいくらいに行き先も決めず動き回っていた。

おまけに夜汽車は旅情もいやというほど味わえた。

この電車ののよいところは、静岡を過ぎると快速になって実に快適だったこと。
平塚や小田原までは通勤客で混んでいるが、静岡に入るととたんに
長距離電車の姿に様変わりとなる。

小田原駅で通勤客を吐き出した車内は寒々するほど広々となるし、
車輌も軽くなったとみえて軽快な足音に変わる。

そのレールの音に誘われて、瞼が重くなる。
一車輌に数えるほどの車内となれば、どう転がろうが勝手なものだ。
ボックス席の向こう側に足を投げ出し腕を組んで寝る。
そのうち、上半身はシートいっぱいを使って寝っ転がる。
よくまあ、くの字になって寝れたものだ。

22、3才からもうすっかりのご無沙汰。
JRになって、もう全滅したと思っていた。

WEB時刻表を見ると・・・おや?・・・それらしき雰囲気の列車。

ちょっとクリックしてみる。

「東京ー大垣」これだ! なんと、
全席指定、快速ムーンライトながらとして生き残っていた。
http://hit.vis.ne.jp/nagara/cardia.html

そのうち試してみよう。

でも、全席指定となったら
もう荷物を山と抱えた行商のおばちゃんたちとの会話も、
地元の学生たちの方言も聞くことはできないだろうな・・・

信念

都電の全廃に多大な影響を与えた過去のある知事をネットで検索しているうちに、
「美濃部正」という人に偶然行き着いた。

親戚筋の人かと思いトンチンカンな頭で読み進むうちに
とんでもない日本人がいたことを知った。

すでにご存知の方もいらっしゃるかもしれないが、
僕は全くもって無知だった。

太平洋戦争末期、軍上層部は「特攻やむなし」で通常攻撃から一撃必死の
特攻攻撃に考えが固まっていったのはご存知のことと思う。

特攻作戦(作戦などといえないが)に切り替えるための首脳部の作戦会議の席上で、真っ向から反対を唱えた人物が彼、夜襲専門の「芙蓉部隊」を束ねる「美濃部正海軍少佐」であった。

当然「末席の現場の仕官分際が何を言うか」である。
下手をすれば、軍法会議ものである。
しかしそれを押して意見を述べた。

彼の言である。

「ここに居合わす方々は指揮官、幕僚であって、みずから突入する人がいません。必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。今の戦局にあなた方指揮官みずからが死を賭しておいでなのか?」

「劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。2000機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボまで出して成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落としてみせます!」

彼の隊は終戦時まで特攻を受け入れることは一度もなかった。
99%特攻一色に染まった時代、にである。

命を賭して闘う兵士にふさわしい成果をもたらせてやりたいと、まだ通常攻撃でアイデア次第で勝算があると思う以上、意見を貫き通す勇気と行動力。

その信念に脱帽した。

また、たまたま美濃部少佐を題材にした演劇を発見。
「judy」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~gooffy/NewFiles/judy.html

みたままつり

靖国神社のみたままつりの案内状が届いていた。
http://www.yasukuni.or.jp/schedule/mitama.html

今年は献灯しようと思っていたが、バタバタしているうちに,

郵便局に行きそびれてしまった。まだ間に合うかなぁ。

お盆の最中は、毎年もうへとへとになって店で倒れているのが常だから、
外に出る気力がそもそもなくなってしまう。
だから実の所は、残念ながら見たことがない。

元旦、敗戦の日も含めて行ってみたいのだけれど・・・
今年も疲れ果てていそうな予感。