縁とは不思議・・・

市電好きに気が付いたのが、そもそも遅くて、
故郷横浜の市電全廃時である昭和47年の春。
僕らの世代には、フォーク熱やサーキットの狼で火がついた
スーパーカーブームが表面化してきた頃だった。

高校になりたての頃だった。
市電なんて過去の交通手段くらいに思っていた(その情報すら興味もなかった)
けれど、子供の頃からかかわりの深かった足でもあった市電
「行かないと後悔するよ」と姉の言葉に押されて家を出た。
高校生が12時近くに・・・

最後の最後、最終の花電車に間に合った。
桜木町駅前から1150型のお別れ電車の最終電車に飛び乗ることができた。
滝頭車庫までの20分程度の時間がいつまでも終わらなければいいのに
と思いながら乗車した。

終点に到着し通常ならば乗客は、車庫前で降ろされるのだが、
最終電車は車庫内まで僕ら乗客を運んでくれた。
満員の車内の乗客は、これが最後と感じたのだろう。
何を思ったのか、「記念だ」とばかりに今の今まで吊り下がっていたつり革を
ねじり切る者が現れた。
1人が始めると連鎖的に我も我もと車内備品を持ち帰ろうと騒然となった。

僕には到底できない蛮行を気持ち悪さを感じながら見ていた。
車掌(車掌はいなかったかな)も止めるそぶりを見せなかった。

まあそんなことがあって翌日には早速、早朝の車庫に足を向けた。

昨夜のこと、もう主のいないレールのみが、何事もなくそこに走っていた。
それが日を追うごとに、錆をふいてくる。なんともいえない光景だった。

そこからが市電マニアとして熱が上がっていく。
すでに故郷には存在しないわけで、俄然、周辺都市に興味対象は広がらざるをえなかった。

その点、都電は格好の対象となっていくことになる。
須田町交差点で初めて見た東京の市電(都電)はでっかかった!
6000形のでか顔をはじめ、7000、7500、8000形の独特の表情を持つ車輌の
行きかう東京は、一面ホッとする町でもあった。

一日だけ仮病を使い学校を抜けて、都電に会いにきたことがあった。
須田町ー浅草ー柳島車庫ー福神橋 錦糸掘車庫・・・
とにかく丸一日乗り続けた。

(まさかここに住むようになろうとは・・・)因縁とは、げに恐ろしい。

しかし昭和49年には荒川線を除いて東京市電(旧市内線)は全廃となってしまう。
僕も行く場を失い、さらに外に走り出すようになっていった。

今東京に住み荒川線も目の前にありながらも、どこか違う。
当時とどこかが違うと思いめぐらすのだが、
最近ようやく理解できた。

車輌の仮装ボディーが乗せかえられているもの、
当時のボディーにはあったステップが、ホームが縁石一つの高さから
高床に変更されたことで、きれいにカットされたもの。
と、郊外型電車の様相になってしまっている。
もちろんカラーリングも違う。
それでどうも思い出の糸がプッツンと切られた感じだったのだ。

最近7500形が3年後に全廃されると聞いた。
聞いたがピンと来なかった。
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080507/trd0805072018015-n1.htm

が、このサイトを見ていてようやく理解できた。
http://homepage1.nifty.com/chianzu/toden/photo/s45/t_photo_18.html
全廃前の都電最後の新造車のあれね。
とばかりに頭の回路がようやく修復しはじめた。


7500形の代替新造車8800形

ああ野麦峠

秩父に気を良くして、満願したら次の行き先も決めている。

野麦峠。

自転車人生のスタート地点なのだ。
はじめての峠越え。

山本茂美の「あゝ野麦峠」
女工哀史を読んで、どうしても行きたくなった。
19歳の夏。

当時は、社会にひたすら疑問を持っていた時期だった、
胸を打たれての衝動的行動。

当時住んでいた横浜から名古屋経由で高山まで輪行した。

レーサーシャツにキュロット+レーサーシューズのいでたち。
今思うと、何とも恥ずかしくスタイルなのだが

当時としては、かなり突拍子も無いスタイルに映ったことだろう。

駅前で組み立て、多少日が高くなっていた高山の街を出発した。
ああ野麦峠の史実に沿って走るために、本番の野麦峠の前に
美女峠という比較的低い峠が待っている。
最初の関門が待っている割には、スローなスタートだったようだ。

美女峠は、なだらな坂。多少戸惑いながらも難なく越えたと思う。

ただ、本命の野麦峠へのアプローチに入る頃には、
正午をとっくに過ぎていた。

飛騨側の路面は、多少荒れてはいたけれど、全工程舗装路。

買ったばかりのケルビムのオレンジのロードを駆って、
勢い頂上まで・・・

と行きたかったが、それ、練習不足の体には、つらかった。

途中、水のみのため、
写真撮影のため、
と称しては休み、峠に立ったときは、日は、3時を過ぎ西に傾き初めていた。

すでにオレンジ色に染まり始めていた。
建て直されたお助け茶屋は、予想に反し近代的(観光的)で、居心地が悪く
お茶を一服いただいて早々に辞した。

泊まりの設備もあったように記憶するが、明日には戻らなければならない。

松本方面への下り道を探した。
山道は、あっという間に暮れることをフッとよぎったが、
後は下りとたかをくくっていた。

「下りだろ。大丈夫。ままよ」
勇み、泊まり客の間をすり抜けて、
弱き心を振り切って、松本側に滑り出いた。

さあ・・・。
それからが、地獄の一丁目の始まりだったのだ。
初夏とは言え、山の日暮れは早かった。
夜間を走るつもりはなかった。
雨になろうことも、これぽっちも頭になかった。

携行品と言えば、小さなリュックに、
非常食とヤッケと後続車よけの電装のリフレクターのみ。

そんな状態だから、もちろん前を照らすライトなど
持っているはずもなかった。

どうしてこんな軽装で出かけたのか、全く思い出せない。

ただ、ライトを持たなかったことは、
「後悔先にたたず」を正に地でいくこととなった。

峠を少し下ると・・・
舗装路と思い込んでいた路面が、こぶし大の石がゴロゴロ転がり
雨で洗われるのだろう岩が露出する最悪の路面。

熊笹で覆われる、車一台やっと通れる細い九十九折の林道が
急坂となっていた。
乗って走ろうものなら、石にタイヤが埋まる様相を呈し、こぶし石に乗り上げ数百メーター下がった所でパンクとなる始末。

とても、チュ-ブラーのタイヤで何とかなる代物ではなかった。

ここで、予備タイヤを使ってしまった以上、
松本までの数十キロをもうパンクさせるわけにはいかなくなった。

予想外の展開に、十数分で抜け抜けるところを
1時間以上をかけて歩いて下ることとなった。

しかも、プレートを打ち込んだ、レーサーシューズで。

そんなときに限って、「ああ野麦峠」の一節が脳裏を掠めるのだ。
故郷の土を踏めずに亡くなっていった女工たちの心境まで
みごとに湧き上がってくる。

道は狭く、熊笹に覆われて、足元もおぼつかない。
なんとも心細い話であった。

ついでにカラスの鳴き声まで、不気味に響く。

ようやく浮石のなくなった地点まで下がると、
日はとっぷりと暮れて、夕闇が迫っていた。

冷や汗なのか、脂汗なのかわからぬ汗をかきかき、
ここから始まる松本までの20kmを越えるダウンヒルを
楽しむ。はずだった。本来ならば。

しかしすでに闇。
人っ子一人いない山の中。

ライトは、腕に付けるレフのみ。

ままよと下った。

しかし無謀だということがすぐに理解できた。

新月だったのか、雲で月が隠されたのか、思い出せないが、
漆黒の暗闇で道が全く見えない。

目を凝らすと、
薄っすら、路面のラインがぼやけて見える。

渓谷沿いに下るので、一歩間違えば谷底だ。
恐ろしい話だ。
泣きたくなるとは、こういうことだと思った。

昼間なら、気味の悪い山間の随道も、
このときばかりは、水銀灯のオレンジ色の光に、
命を取り戻す生を感じる心持ちだった。

気味悪くぽっかりと吸い込まれそうな暗黒の口を空くダムを見ぬようにし、
若干の上り下りをとにかく、がむしゃらに猛スピードで通過した。

もし人が見たならば、疾走する僕の形相はどんなだっただろう。
いや、泣きついて「軒先でもいいから泊まらせてください」と申し出たかもしれない。

松本側の島々の町の明かりが見えたときは、
ほぼ放心状態にあった。

松本まで走る気力は、全く消えうせ、
時折人が行きかう新島々駅前のベンチにかまわず横になり
蚊の攻撃も全く意中になく転がって動けなくなった。

生きて戻れた・・・
パンクしなくて良かった・・・
心底思いながら。

足慣らし

なかなか巡礼に出かけられない。

これは、足を鍛えろとの天のおさとしだろうか。
・・・などと勝手に解釈し
走りこんでおこうとばかりに、
暫くぶりにローラー台を踏んでみた。

これがローラー台

自走式なので、前後の40cm巾のローラーの上に
いつも乗っている自転車を乗せて普通に走る。

前後のローラーどうしはベルトで結ばれていて、
ペダルを踏めば、後輪が回ると同時に前輪も回る。
だから、自転車はこけないでローラーの上を走る。

当然のことだが、止まれば転ぶ。
脱輪すれば、足はペダルに縛り付けているから
もろにひっくり返る。

後輪を固定したマシンもあるけれど、
バランス感覚が要求されるのでこちらのほうが
実走の感覚で走れる。

しかし乗り始めは、以外に勇気がいる。

今日30年ぶりに乗ったことになる。
壁に手をついたまま二三回ペダルを回したら
さっとハンドルに両手を移す。

ふらつくこともなく昨日の練習の続きのように
すっと乗れた。

「へ~~」
自分で驚く。
両手離しこそしなかったけれど、なんの戸惑いもない。
一挙に30年の空白が消え去った感がする。

一度身についたものは、しっかりと体が覚えているものだ。

余計な考えは、やたらに持たないことも大事だ。
悟らされた気がした。

故郷

四半世紀前、下町に引っ越してきて驚いたことが三つあった。

一つ目は、引っ越した翌朝、水を飲もうと蛇口から勢いよくコップに水を注ぎ、口にしようとした。
朝の光が差しこんで持っていたコップの水を朝日が透過した。
目に映った水道水、それは、白濁して見えた。

しかも水中になにやら不純物まで浮んでいる。
コップが汚いのかとあわてて捨てた。コップをよく洗い、今一度水を注ぎなおし入た。も一度、朝日にあててみた。
ぷかぷかしている。
おまけに異臭までわずかにする。
「どぶの臭い」正直なところだ。これが悪名高い(かった)金町浄水場の水だと後で知った。

二つ目は、鼻毛がとにかくよく伸びた。手入れをしていないと1ヶ月もたつと、ダメ親父の如く状態になってしまう。鼻毛を切るということを始めて経験した。

三つ目は、近くにあった小学校の校庭の狭さ。さらにその狭い校庭をカラフルなカラー舗装して、滑りやすくしていることだった。
よほど私立の裕福な学校なのかと勘違いした。

ここで全力疾走でもしようものなら遠心力がかかって弾き飛ばされ、校舎に張り付いちゃう?と思った。このトラック、急カーブだもの・・・。
転んだら「エーン痛いよー」では済まないだろう・・・
競輪選手だってヘルメット被るっていうのに。

自分の子供が生まれるまでには、水が美味しく、転んでもひざ小僧をすりむく程度で済む、土の校庭のある学校に行かせよう。
心底思った・・・

が、今に至るも下町にどっぷりつかっている。

脱出計画が頓挫しているあいだに環境はどんどん変わっていった。
水道水は改善され、ミネラルウォーターにひけを取らないというほどによくなった。
鼻毛もいつのまにか伸びるのが遅くなった(加齢のせいとは思わないし思いたくもない)。

残されたのは緑の問題。
ヒートアイランド対策でビルの緑化が義務付けられた。
都知事の肝いりで、公立学校の校庭を全面芝生にしていく計画が持ち上がった。これはすばらしいと思った。これで子供も表に飛び出すだろう。

東京はどんどん進化し住みやすい環境に変化してきている。
そしてどんどん故郷になっている。

夜なべ

上戸彩の新米弁護士役の「ほかべん」を見てから、
念珠の製作をしてりたら、こんな時間になっちゃった。

朝は走りたいから夜なべはなるべくしたくないのだけれど、
お盆も近いことで、少し早いようだが、店はインターバルで忙しい。

どうしても昼間にできない手仕事は、夜中か早朝の仕事になってしまう。

さらに気付くと、あと少しでいつもの起きる時間になってしまう。

昼夜の時間が安定しないなあ。

日本人

読売新聞の5月30日版をリサイクルゴミとして
束ねてあった古新聞の山の中からようやく引っ張り出した。
というのも、先日、横浜のO氏の来店の際、
「日本人の宗教観」の調査結果面白いですよ
とのお話しを受け、興味をそそられたからに他ならない。

老眼鏡をかけても見え辛い目をこすりながら
隅から隅まで読みふけっている間にガイアの夜明けを見損なってしまった。
それほど興味のある調査結果だった。

全国の3000人を対象にした調査で79年から定期的に行っているようだ。
いくつか例を上げると
<宗教を信じているか>の問いに
信じる 26%
信じない 72%
で、79年の信じる34%からは意識が後退している。

<幸せな生活を送る上で宗教を大切だと思うか>
思う  37%
思わない59%
79年には思うが46%だったからこちらも低下している。

お宮参りや七五三を神式に結婚式をキリスト式に葬式を仏教式に代表されるような
日本人には独特の宗教観があると思うが。
それを現しているのが、

<先祖を敬う気持ちをもっているか>

持っている 94%
持っていない 5%

縦の糸が切れていないことにホッとする。

<自然の中に人間の力を超えた何かを感じることがあるか>
ある 56%
ない 39%

漠然と見えてしまうが、とても大事なことだと思う。

<宗教団体について感じること>
どういう活動をしているかわからない 47%
人の不安をあおる強引な布教をする 43%
高額なお布施寄付を集めている 36%

98年と同じ上位3項目だったと言うのも面白い。

僕の経験でも、浅草寺をどこかの団体が勝手に占拠して、一般人がお参りすらできない状態があったり、白装束の団体が店前を手を繋いで顔を隠してぞろぞろ歩く、なんていう全くわけのわからない団体もあり、大教団にしても寄らば来いの姿勢では敷居が高すぎる。
そうでないと申しわけされたとしても、3万人の自死に対して宗教者は、少なくとも結果に責任を感じるべきだと思っている。

広報がもっともっと必要だよね。

<死んだらどうなるか>の問いにも
生まれ変わる29%
別の世界に行く23%
消滅する17%
墓にいる 9%

何らかの形で霊魂の存在に52%の人が同調している。

日本人の根底の宗教心はそうやすやすと崩れてはいないなあという感じがした。

が、同時に特定宗教には一線を引く感じも否めない。

これをどう見るかはとても大事なファクターだなと感じた。

若さ、ばかさ?、柔軟さ

秩父霊場を廻る準備は完了し、
あとは天候次第となってから、
江戸時代の川止めを受けている旅人の気持ちだ。

仕事のけりがついて、出かけやすい状況になると、
決まって雨が降る。
というパターンがここ2週間続いている。

梅雨入りを恐れて、その前にと思っていたのに・・・
その恐れがはるかに早かった。
昨日から梅雨入りとなってしまった。

重い空を見ながらフッと考えた。

若い時ならどうしているだろう。

まず躊躇などしていないだろう。だいぶ違う。
後先を考えず、まず走り出しているだろう。

それなりの準備をしていたときもあるが、
雨具も持たず、ライトも持たず、
ましてや天気予報など見る気もしなかった。

予定したら、必ず実行である。

現場で雨に祟られることがあっても
それを受け入れてしまっていたに違いない。

信州の野麦峠を目指したときも、

伊勢志摩を巡ったときも、

妻籠に行ったときも、

冨士の頂上に自転車を担ぎ上げたときも・・・


(富士山頂上から30mほど下ったところ。やはり雨だった。)

結果、全て大雪か雨に祟られて大変な思いをしている。

けれど、なあにも考えなかった。
ましてや後悔などあろうはずはなかった。

濡れるのがいやだななども、これっぽっちも考えなかった。
結果、雨に降られて全身濡れ鼠になったとしても、

全天候が楽しかった。

「これも全て善し」だった。

考えれば相当無謀なことをしたと思うのだが、
そこが若さという柔軟さなのだろうか・・・

いやいや、なんのなんの、まだまだ・・・

プチ周遊

急に用事が入り厚木まで足を伸ばした。

千歳船橋までは、時々出かけるが、
さすが厚木までとなると意外に遠く感じる。

町田を過ぎる頃には車窓に釘付けとなっていた。
宅地が恐ろしいくらい多くなった・・・

厚木の仕事は早々に切り上げたので、あとは戻るだけ。
どうせ帰るのは同じなのだからと
別ルートで帰ることにした。
海老名から相模鉄道に乗り換え横浜へ。

相鉄は相模川の川砂を運ぶ為に敷かれた鉄道。
僕の子供の頃は、砂利電の別称がまだまだ大人たちの間では通用した。
相鉄の海老名駅を見てまず変貌ぶりに腰を抜かした。

田んぼの中の田舎駅のイメージはとうに過去のものだった。
どこかのテーマパークに迷い込んだかと思うほどの再開発ぶりに、
人口の激増ゆえと予想された。
7000系と8000系が仲良く並んでいた。
後発だったが8000系の先頭車輌に陣取る。
新車両と思っていたが、もう10000系代までできていたことを道々知ることになる。

そして横浜。
昼を過ぎたので、駅弁を買うことに。
もちろんシューマイ弁当である。

あとで気付いたが、弁当の質の変貌ぶりにわが目を疑った。

日付を見たら本日の9時製作になっているのだから古いわけではない。
なのにシュウマイがこわばっている。
冷えても美味しいはずのご飯がすこぶる硬い。
惣菜が簡略。肝心の顔つき瓢箪の醤油入れが何の変哲もないビニール袋に。
全体的に冷凍の解凍物ではないかというのが印象だった。

どこでも入手できるようになったと言うことは、こんなものかな。
赤福の例もあったけれど、
過ぎたるは・・・の故事にならないようにしてもらいたい。
せめてお膝元の横浜ではできたてを出してもよいのではないのだろうか・・・
食い物のことで男子が細かいことを・・・という気持ちもあるが
浜っ子は、シュウマイ弁当に思い入れがあるのさ。
食い物の恨みは恐ろしいよ。

また先頭車両に陣取り浅草まで。
川崎を過ぎて、だいぶ高架化工事が進んでいた。
建築限界ぎりぎりまで張り出している軒先を、
疾風の如き走り去る赤い弾丸の京浜急行のイメージも、
高架化で一新してきているが、
それでも120kmでの営業速度は気持ちがいい。

新人の初乗務だったのか、運転台に3人乗務の様子を飽きずに見ながら
あっという間に品川に着いた。

後は地下鉄。寝て浅草まで。

秩父行きが急きょ、プチ周遊となった次第。

気付け!

年間3万人超の命が自らの意思で冥界に旅たつという。
ぼくも22歳のとき親友が旅立った。

どれだけぼく自身の人生観に影響を与えたか
当の彼でさえきっと思いもしなかっただろう。

人生を否定するということは、
数え切れない人の愛を自らの手で無に葬り去ることだ。

親の愛、祖父母の愛、祖祖父母の愛・・・
兄弟の愛、夫婦の愛、子供の愛、友人の愛、
ペットの愛、自然からの愛、
そして自分ひとりが生まれてくるための過去一切の血縁の愛を
一切を否定することなんだ。

その瞬間には、自分の世界しか目に入らなくなる。
自我の・・・
極度なまでの孤立感の中に・・・
視野が狭くなる。

そんなときは、
手のひらを見て欲しい。

そこに
大宇宙が広がっていることに

気付いて欲しい。

自分の意思とは関係なく、そこに息づく生命を。

自分ひとりが撃つうに孤立しているんじゃあないんだと言うことを。
関わりあって、存在していることを。

1人が地上からいなくなったって何も起きなんだ・・・なんてことは
ありえないのだということを。

自分1人がいなくなることは、
大宇宙が悲しむことなんだということを。

大切な私なのだと、
気づいて欲しい。