いつの間にか・・・

といっても、自転車の古いパーツ探しで感じたことなのだ。
最近ネットオークションという敬遠していた分野に足を踏み入れている。

新車を作っていれば、まったく縁はなかったと思う。

自転車ほど完成度の高い乗り物はない(変化のしようがないとも言う)と思っていた訳で、30年前の知恵で何とかなると思っていた僕は驚きの連続となった。
21世紀に入ってから飛躍的に、素材もサイズもスタイルも駆動系もそして生産地もありとあらゆる箇所が変化したようだ。昔は考えられないような車種が生まれた。

昔は、規格もイギリス式とフランス式の二系統しかなかった。
スポーツ車といえば競技用のトラックレーサーとロードレーサー、ツーリング用のキャンピング、ランドナー、スポルティーフ、程度しかなかったのに、今はとにかく複雑。
レーサーと町乗り車を合体させたようなロードバイクやトラックレーサー(固定ギヤ)を町乗り用に発展させた車種、なによりマウンテンバイクが代表のアメリカ式が頭角を現し自転車業界地図をすっかり塗り替えたように思う。

そんな変化を露とも知らず、30年前の自転車をレストアしてみて、時代の変化を肌で感じることが出来た。

とにかく以前は、ごく普通のどこにでもあったはずのパーツが全く手に入らない。
流行のサイクルショップに出かけ店長と思しき者を捕まえて聞いてみてもまず知識がない。見たこともないという。

そうか・・・。
考えれば30年といえば、その年に生まれた赤ちゃんが、世の中の働き手中としての30歳になる年月なのだもの。しかたないか。

で、結果として自転車屋回りするよりも、ネットを駆使して探すほうが早いということに行き着いた。

ただ、残念なことに必要としていても落札終了になるまで買えるかどうかは不明。

買うだけなのに胸ドキをさせてもらえるのだから不思議な感覚だ。
しばらくは続きそうである。

病み付きにならないように気をつけなければ・・・

いいわけ

おかげさまで、
TONちゃん日記がもうすぐ35万アクセスに達します。
途中2万人くらいで、どういうわけか、カウンターが0に戻ってしまっているので、
実質は37万人を越えて、本体のショップページのアクセス数を越えているかもしれません。
一日2000人前後のご訪問を頂いて嬉しい限りです。

メルマガを書かせてもらおうと準備をして
文章の勉強かたがた書き始めた店長日記だったのですが不思議です。

氾濫するメルマガやスパンメールに辟易している自分。
メールが届くと、初めからフィルタリングしてお客様以外のメールは、
ダストボックスにポイする自分(時々失敗をやらかしてしまうのですが)。
あとで読もうと思って保管しているつもりでも、溜まってそのうちポイ。
メルマガって発行者が思うほど期待されちゃいないんじゃないの?と思う自分。

っていうことで・・・つまり、
メールマガジンって何さ?
の疑問にぶつかって、止まっちゃったのであります。

日々感じることを書くに止まっているような気もして、
読まれる方には、お付き合いしていただいて申し訳ないな、
と思ってみたりしながらも、相変わらず、
興味の対象を刻々変えながら書き散らしているわけです。

mixiみたいに足跡機能がないから
どなたが訪問してくださったかはわからないのですが、
何かお礼がしたくなるほどです。

TONちゃん日記に来て下さった皆様に感謝です。
どうぞ変わらずお付き合いの程をよろしくお願いします。

さあて、また日は昇る時間が近づきました。

一日の始まりです。

秩父を走りたい。

と、昨年暮れ浅草寺で秩父観音霊場の出開帳を開催したとき、
密かに(こうして書けば密かにはならなくなるけれど)思うたのであります。

これこの通り

納経帳も教本も売るほどあるのに、
心に楔を打ち込むつもりで買い求めたのであります。

いつも送る側で甘んじているけれど、
元来がじっと頭で思索することも好きだけれど、
動きながら思索することが、ぼくのスタイルなのであります。

巡るからには、もちろん足か自転車と言うことで、
コツコツ自転車通いで、廃盤パーツを捜し求め、
30年振りに愛車を復活させているのです。

そして、なまった体を正月からは、毎日スクワットで鍛え、
これが、珍しく続いているのであります。

あとは時間をひねり出せれれば何とかなるのだが・・・

あ!肝心肝心。
心を忘れないようにしないと・・・

白髪抜き

子供の頃、コタツでテレビをみていると、
「そんなに暇なら白髪でも抜いてょ!」

と、お声がかかり、
母親の白髪抜きの手伝いをさせられた。

前髪よりも頭頂部、頭頂部より側頭部のやや後ろ側という
本人からは死角となる位置ほどどういうものか、
その白いものは多かった。
人は一人で生きていけないということかもしれない・・・

頭髪を掻き分け見つけたときの喜びは、
深山に宝を発見したような感触を受けたものであった。
宝を探し当てたことは実際はないのだから、予想でしかないけれど。

とにかく、いったん親指と人差し指で挟んだら最後、
頭骸骨に対し垂直に、全身全霊の力を込めて思い切りよくいっきに引っ張らないと
すこぶる痛いものらしかった。
その点ぼくは何故だか上手くて、
「おまえのは痛くない」と評判だった。

姉がたまに抜くと「あ痛っ」っと母の大声と、
痛みを分散する為に、頭を擦るしぐさをいつもながら目にした。
黒毛を抜きそうになって躊躇するからそうなるのである。
かまうこたあないのだ。
「抜けたよ」と白いものだけ選んで見せてあげればよいのに。

歳をおうごとに宝物を発見する確率は高まった。
そのうち頭髪を掻き分けなくとも、
誰の目にもごっそり見えるようになってきた頃、
僕の手を借りることなく、毛染めする母の光景を目にするようになり
それは卒業した。

僕の頭は父親似だから、剥げることはあっても白髪には縁がないだろう。

そう思い続けてきた。

四十路を過ぎるころ、鏡の前に立つと、「あれ?」と、白いものが・・・
頭ではなく、鼻の中に・・・
どういうわけか鼻毛が白くなった。
日増しに割合は増え、五十路を過ぎるとついに
もみ上げ部に白いものが見えはじめた。
はげることはあっても・・・と思い込んできただけに、嬉しかった。
そのうち月を追うごとにごそっという単位で増えはじめた。

当初お宝と思っていた白髪もこう増えちゃもうプレミアは付かなくなった。

白髪抜きを卒業した、母と同じ歳になったことに気が付いた・・・

妙な気分になった。

聖俗

仏像彫りで原画探しに合羽橋にある中央図書館に走る。

いやあ今日は、とにかくあっちへ行ったりこっちへ行ったり
まさしくピュンピュン丸だった。

最後の最後まで、全力疾走。
ちなみに靖国神社へも全力疾走。
もうへとへと・・・

で、なんとか原画は見つかり、せっかくのチャンス。
浅草寺資料を今後の参考にと二階の郷土資料室を訪ねる。

思った以上に寺の資料は少なくてちょっと残念。
目を配っていると、こんな資料棚が目に入る。

しかも浅草寺資料の背中合わせの棚。

さすが浅草。聖俗が一つところにまとまっている。

地元ならではの格好となっているではないか・・・

店頭社会学

店に立ち四半世紀を越えて接客していると、お客さまの嗜好の変化が如実で時代を映し出す鏡のようでおもしろい。

ここ最近、とにかく団塊の世代から同年代とおぼしきお客さまの層が圧倒的に多くなった。
先祖供養に責任をもつ世代が下がってきたと言えなくもないのであるが、単に世代交代しているとそう単純なものでもないように思う。

つまり家の先祖を無条件でお守りしなければいけないというという考え方から、多種多様な目的での来店が目立つようになってきた。

自分を守る仏を祀りたい、巡礼をしたい、写経をしたい、癒しを求めたい、云々・・・
言うなれば自分探しに近いところで、仏教を宗教として感じているように見受けられるのだ。

「仏教を宗教と感じる」変な表現だけれど(そもそも仏教は宗教なのだから・・・)より本質に気付きだしてきたのではないのかな。

僕らの親の時代までは、家の宗教は宗教。自分の生き方は生き方のように、そこには厳とした隔たりがあったように思う。家の宗教には生き方までを求めていないし感じさせてもくれない。先祖をお守りしてくれる都合のよい保管機関程度の存在。
認識の上ではそうだったのではないだろうか。

寺と言う存在は実は宗教だったんだということに改めて気付きだしたのではないのかな。

こういう傾向って、2~30年前はまず話題にもならないことだった。
以前は先祖をお守りするのは、不可侵的な部分として寺との関係も含めて、家の宗教としてまず守ればよい。個の考えは挟む余地がなかった。

しかし、オール社会派みたいな時代の寵児達、社会の改革を標榜していた世代が先祖を守る立場で親からバトンタッチされた今、
先祖供養の形に変化をもたらしてくるのも何となく理解できる。

同時に微妙な問題を孕む大事な時期のような気もするのだ。

この季節を想う

早いもので、もう1月を終える。

新年の浮き足立った感覚はとっくにどこかに行ってしまって、
すっかり地に付いてしまったけれど、

恒例の東京マラソンの前触れがあると、比較的おとなしい2月も
多少なりとも賑やかさを増すことに期待をかける。

ただ、ぼく自身は、この時期になるとどうしても東京大空襲を思い出してしまい、
すっきり!という気持ちにはどうしてもなれない。

「見てきたような・・・」というような言葉がある。
「戦後は終わった」と言われた年に産声を上げた若い?戦後生まれの人間としては、
覚えていよう筈はないのであるが、
ここ浅草周辺には、数多くの戦跡が、
忘れさせてくれない事実として、人間の愚を世紀を越えて伝えているのである。

浅草寺境内の焼け銀杏、隅田川周辺の供養碑、横網町の震災記念館、各寺院に残された供養碑・・・と、ついつい足を止めてしまう。
眺めていれば、誰かが説明してくれる。

お付き合いしている江東区の羅漢寺の境内にも、殉難者供養碑が残る。
住職に伺えば、東京大空襲の際行く場のない何百体というご遺体を、
境内に集められたという。
惨劇を伝えるには、あまりにも暖かい笑みをこぼすお地蔵さんがその地に建立されている。
そろそろ紅梅がその碑を飾ろうとしているだろう。

東京慰霊堂のSさん。
庭師をする傍ら、遺骨のお守りを長く戦後続けてこられた。
毎朝「おはよう」と十万を超す戦争殉難者と震災殉難者の無縁仏の骨壷の蓋を半開きにし、日の光を当て、「お休み」と納骨室の戸を閉めるを日課にしておられた。
知り合った当時、慰霊堂内部に見上げるほどに保管(安置)されている圧倒される無縁さんの姿を見せられたとき、何度嗚咽させられたことだろう。
一家全滅と思われる骨壷がいくつも散見される。もちろん引取り手があろうはずはなくここで息をしているのである。

車夫を家業としている友人の「講談人力車」岡崎屋さん
浅草寺境内の戦争樹木の説明では事欠かない。
焼け残った銀杏の木を擦りながら説明してくれる。

特攻訓練最中に動員され遺体の片付けに浅草にきたと話してくれた老夫婦。
いまでも鼻を手向けに毎年来られると聞く。
どうして忘れられよう・・・

ただ、過去の事実に恨みを残す愚はしまい。
けれど風化させる愚はさらにさせてはならないだろう。

どこまでほんもの?

「偽」が去年を現す漢字。

浅草を歩くと僧衣をまとい鉄鉢を片手に
道行く人に喜捨を乞う人が目に付く。
つい仕事柄立ち止まってどこのお寺かと観察してしまう。

わからないときは、
「どちらのお寺ですか」と直接訪ねる。
わからないままにするのはどうも…

見ていると、鉄鉢の中身を数える者。
半身に構えて、鉄鉢をぶらぶらさせている者。
疲れたのか、寒いのか、座り込んじゃう者。
喜捨されてありがとうとお辞儀をする者。

カメラを構えているのに気付くと急にしゃんとする者。
まあいろいろいらっしゃる。

喜捨させていただくのは、
あなたにあげるのではなく、
あなたの背後のお釈迦さまにお預けするのだ。

自らの徳を積ませていただくのに
お礼は言って欲しくない。

仏弟子として「師匠に成り代わりましてあなたの安寧を祈ります」
くらいに止めて欲しい。

そして、身なりは貧しくとも、神々しくあって欲しい。
破けた法衣ならツギを当ててでも丁寧に使う。
網代に穴を開けて当然のようにかぶらないで欲しい。
食を減らしても仏弟子の尊厳を守りたまえ。

子供がその姿にあこがれるほどであって欲しい。

辻説法できるのかな・・・。

目的のためならば

暮れに靖国からここ浅草までの雨中走破がきっかけで、
雨の中の走りの面白さを体が思い出してしまった。

全身ずぶぬれになっているのに、心ではルンルンしているこの感覚は、
自転車乗りの血としか言いようがない。

それがきっかけと言えばきっかけだし、
30年ぶりになんとか走れる状態に復活した、愛車のおかげと言えば
そうも思えるし…

とにかく、今年は年初めから、中長距離を走りたいと体が
物申しているのである。
かといって、初めから200や300kmを「ちょっと行ってきまーす」
とばかりに気楽に走れるほど、現役を退いた結果、退化してしまった部分と
付いてしまった現実は、そう易しくないことぐらい重々承知の助だ。

だから、目の前ににんじんをぶら下げることにした。

今年は、秩父の観音霊場のお開帳である。
なんとか自分の足でまわりたい。
二日もあれば、一通り巡ってこれる小さな霊場なのだから。

いづれは、四国をまわりたいが、まずは近場を知らないと。

足慣らしには、昔ホームグラウンドだった三浦半島の霊場巡りが先だろうか。

いやいや、秦野にいる自転車仲間の所に、自転車を再開した旨、
報告に行こうか、

その後は野麦峠の現状を見に行きたい。

と、次々に夢が膨らむ。

まだ捕らぬタヌキので、先立つものを付けておかないと…
そう、金、暇、筋肉なのだ。

金は食事代と旅館代程度でいいからまあ何とかなる。
暇は、暮れに人が増えたから、一日二日?程度なら抜けようと思えば
期間限定で抜けられそうである。

となると、後は筋肉ということになる。

10年前に腰を壊してから、無理するとすぐに腰にきてしまうやわな体に
なってしまってから、何をするにもいつもネックとなってしまった。

そこで意を決して元旦からスクワットを時間の合間に続けている。

当初20回もやれば、ピピっと腰の筋が警笛を鳴らしていたのだが、
以前なら無視して決めた回数をこなしていた。
今回は轍を踏まないよう、無理をしないことにした。

その代わり休まないことにした。
我が腰は100回過ぎまで「いいよ」と許してくれるようになった。

80歳を越える森光子さんでさえ、100回は軽くこなすと言うのだから、
何てことない数字なのだ。
けれど、ベスト体重に自転車一台背負っている今の体を考えると、
不思議と継続することがやる気に変化してきた。

ガラスの腰を考えながら、まずは続けることに重点を置こうと思う。

さてさて、いかが相成るか・・・

またそのうち現状をご報告申し上げようと思う。
(これも励みにしようとしているのだ)