秩父を走りたい。

と、昨年暮れ浅草寺で秩父観音霊場の出開帳を開催したとき、
密かに(こうして書けば密かにはならなくなるけれど)思うたのであります。

これこの通り

納経帳も教本も売るほどあるのに、
心に楔を打ち込むつもりで買い求めたのであります。

いつも送る側で甘んじているけれど、
元来がじっと頭で思索することも好きだけれど、
動きながら思索することが、ぼくのスタイルなのであります。

巡るからには、もちろん足か自転車と言うことで、
コツコツ自転車通いで、廃盤パーツを捜し求め、
30年振りに愛車を復活させているのです。

そして、なまった体を正月からは、毎日スクワットで鍛え、
これが、珍しく続いているのであります。

あとは時間をひねり出せれれば何とかなるのだが・・・

あ!肝心肝心。
心を忘れないようにしないと・・・

白髪抜き

子供の頃、コタツでテレビをみていると、
「そんなに暇なら白髪でも抜いてょ!」

と、お声がかかり、
母親の白髪抜きの手伝いをさせられた。

前髪よりも頭頂部、頭頂部より側頭部のやや後ろ側という
本人からは死角となる位置ほどどういうものか、
その白いものは多かった。
人は一人で生きていけないということかもしれない・・・

頭髪を掻き分け見つけたときの喜びは、
深山に宝を発見したような感触を受けたものであった。
宝を探し当てたことは実際はないのだから、予想でしかないけれど。

とにかく、いったん親指と人差し指で挟んだら最後、
頭骸骨に対し垂直に、全身全霊の力を込めて思い切りよくいっきに引っ張らないと
すこぶる痛いものらしかった。
その点ぼくは何故だか上手くて、
「おまえのは痛くない」と評判だった。

姉がたまに抜くと「あ痛っ」っと母の大声と、
痛みを分散する為に、頭を擦るしぐさをいつもながら目にした。
黒毛を抜きそうになって躊躇するからそうなるのである。
かまうこたあないのだ。
「抜けたよ」と白いものだけ選んで見せてあげればよいのに。

歳をおうごとに宝物を発見する確率は高まった。
そのうち頭髪を掻き分けなくとも、
誰の目にもごっそり見えるようになってきた頃、
僕の手を借りることなく、毛染めする母の光景を目にするようになり
それは卒業した。

僕の頭は父親似だから、剥げることはあっても白髪には縁がないだろう。

そう思い続けてきた。

四十路を過ぎるころ、鏡の前に立つと、「あれ?」と、白いものが・・・
頭ではなく、鼻の中に・・・
どういうわけか鼻毛が白くなった。
日増しに割合は増え、五十路を過ぎるとついに
もみ上げ部に白いものが見えはじめた。
はげることはあっても・・・と思い込んできただけに、嬉しかった。
そのうち月を追うごとにごそっという単位で増えはじめた。

当初お宝と思っていた白髪もこう増えちゃもうプレミアは付かなくなった。

白髪抜きを卒業した、母と同じ歳になったことに気が付いた・・・

妙な気分になった。

聖俗

仏像彫りで原画探しに合羽橋にある中央図書館に走る。

いやあ今日は、とにかくあっちへ行ったりこっちへ行ったり
まさしくピュンピュン丸だった。

最後の最後まで、全力疾走。
ちなみに靖国神社へも全力疾走。
もうへとへと・・・

で、なんとか原画は見つかり、せっかくのチャンス。
浅草寺資料を今後の参考にと二階の郷土資料室を訪ねる。

思った以上に寺の資料は少なくてちょっと残念。
目を配っていると、こんな資料棚が目に入る。

しかも浅草寺資料の背中合わせの棚。

さすが浅草。聖俗が一つところにまとまっている。

地元ならではの格好となっているではないか・・・

店頭社会学

店に立ち四半世紀を越えて接客していると、お客さまの嗜好の変化が如実で時代を映し出す鏡のようでおもしろい。

ここ最近、とにかく団塊の世代から同年代とおぼしきお客さまの層が圧倒的に多くなった。
先祖供養に責任をもつ世代が下がってきたと言えなくもないのであるが、単に世代交代しているとそう単純なものでもないように思う。

つまり家の先祖を無条件でお守りしなければいけないというという考え方から、多種多様な目的での来店が目立つようになってきた。

自分を守る仏を祀りたい、巡礼をしたい、写経をしたい、癒しを求めたい、云々・・・
言うなれば自分探しに近いところで、仏教を宗教として感じているように見受けられるのだ。

「仏教を宗教と感じる」変な表現だけれど(そもそも仏教は宗教なのだから・・・)より本質に気付きだしてきたのではないのかな。

僕らの親の時代までは、家の宗教は宗教。自分の生き方は生き方のように、そこには厳とした隔たりがあったように思う。家の宗教には生き方までを求めていないし感じさせてもくれない。先祖をお守りしてくれる都合のよい保管機関程度の存在。
認識の上ではそうだったのではないだろうか。

寺と言う存在は実は宗教だったんだということに改めて気付きだしたのではないのかな。

こういう傾向って、2~30年前はまず話題にもならないことだった。
以前は先祖をお守りするのは、不可侵的な部分として寺との関係も含めて、家の宗教としてまず守ればよい。個の考えは挟む余地がなかった。

しかし、オール社会派みたいな時代の寵児達、社会の改革を標榜していた世代が先祖を守る立場で親からバトンタッチされた今、
先祖供養の形に変化をもたらしてくるのも何となく理解できる。

同時に微妙な問題を孕む大事な時期のような気もするのだ。

この季節を想う

早いもので、もう1月を終える。

新年の浮き足立った感覚はとっくにどこかに行ってしまって、
すっかり地に付いてしまったけれど、

恒例の東京マラソンの前触れがあると、比較的おとなしい2月も
多少なりとも賑やかさを増すことに期待をかける。

ただ、ぼく自身は、この時期になるとどうしても東京大空襲を思い出してしまい、
すっきり!という気持ちにはどうしてもなれない。

「見てきたような・・・」というような言葉がある。
「戦後は終わった」と言われた年に産声を上げた若い?戦後生まれの人間としては、
覚えていよう筈はないのであるが、
ここ浅草周辺には、数多くの戦跡が、
忘れさせてくれない事実として、人間の愚を世紀を越えて伝えているのである。

浅草寺境内の焼け銀杏、隅田川周辺の供養碑、横網町の震災記念館、各寺院に残された供養碑・・・と、ついつい足を止めてしまう。
眺めていれば、誰かが説明してくれる。

お付き合いしている江東区の羅漢寺の境内にも、殉難者供養碑が残る。
住職に伺えば、東京大空襲の際行く場のない何百体というご遺体を、
境内に集められたという。
惨劇を伝えるには、あまりにも暖かい笑みをこぼすお地蔵さんがその地に建立されている。
そろそろ紅梅がその碑を飾ろうとしているだろう。

東京慰霊堂のSさん。
庭師をする傍ら、遺骨のお守りを長く戦後続けてこられた。
毎朝「おはよう」と十万を超す戦争殉難者と震災殉難者の無縁仏の骨壷の蓋を半開きにし、日の光を当て、「お休み」と納骨室の戸を閉めるを日課にしておられた。
知り合った当時、慰霊堂内部に見上げるほどに保管(安置)されている圧倒される無縁さんの姿を見せられたとき、何度嗚咽させられたことだろう。
一家全滅と思われる骨壷がいくつも散見される。もちろん引取り手があろうはずはなくここで息をしているのである。

車夫を家業としている友人の「講談人力車」岡崎屋さん
浅草寺境内の戦争樹木の説明では事欠かない。
焼け残った銀杏の木を擦りながら説明してくれる。

特攻訓練最中に動員され遺体の片付けに浅草にきたと話してくれた老夫婦。
いまでも鼻を手向けに毎年来られると聞く。
どうして忘れられよう・・・

ただ、過去の事実に恨みを残す愚はしまい。
けれど風化させる愚はさらにさせてはならないだろう。

どこまでほんもの?

「偽」が去年を現す漢字。

浅草を歩くと僧衣をまとい鉄鉢を片手に
道行く人に喜捨を乞う人が目に付く。
つい仕事柄立ち止まってどこのお寺かと観察してしまう。

わからないときは、
「どちらのお寺ですか」と直接訪ねる。
わからないままにするのはどうも…

見ていると、鉄鉢の中身を数える者。
半身に構えて、鉄鉢をぶらぶらさせている者。
疲れたのか、寒いのか、座り込んじゃう者。
喜捨されてありがとうとお辞儀をする者。

カメラを構えているのに気付くと急にしゃんとする者。
まあいろいろいらっしゃる。

喜捨させていただくのは、
あなたにあげるのではなく、
あなたの背後のお釈迦さまにお預けするのだ。

自らの徳を積ませていただくのに
お礼は言って欲しくない。

仏弟子として「師匠に成り代わりましてあなたの安寧を祈ります」
くらいに止めて欲しい。

そして、身なりは貧しくとも、神々しくあって欲しい。
破けた法衣ならツギを当ててでも丁寧に使う。
網代に穴を開けて当然のようにかぶらないで欲しい。
食を減らしても仏弟子の尊厳を守りたまえ。

子供がその姿にあこがれるほどであって欲しい。

辻説法できるのかな・・・。

目的のためならば

暮れに靖国からここ浅草までの雨中走破がきっかけで、
雨の中の走りの面白さを体が思い出してしまった。

全身ずぶぬれになっているのに、心ではルンルンしているこの感覚は、
自転車乗りの血としか言いようがない。

それがきっかけと言えばきっかけだし、
30年ぶりになんとか走れる状態に復活した、愛車のおかげと言えば
そうも思えるし…

とにかく、今年は年初めから、中長距離を走りたいと体が
物申しているのである。
かといって、初めから200や300kmを「ちょっと行ってきまーす」
とばかりに気楽に走れるほど、現役を退いた結果、退化してしまった部分と
付いてしまった現実は、そう易しくないことぐらい重々承知の助だ。

だから、目の前ににんじんをぶら下げることにした。

今年は、秩父の観音霊場のお開帳である。
なんとか自分の足でまわりたい。
二日もあれば、一通り巡ってこれる小さな霊場なのだから。

いづれは、四国をまわりたいが、まずは近場を知らないと。

足慣らしには、昔ホームグラウンドだった三浦半島の霊場巡りが先だろうか。

いやいや、秦野にいる自転車仲間の所に、自転車を再開した旨、
報告に行こうか、

その後は野麦峠の現状を見に行きたい。

と、次々に夢が膨らむ。

まだ捕らぬタヌキので、先立つものを付けておかないと…
そう、金、暇、筋肉なのだ。

金は食事代と旅館代程度でいいからまあ何とかなる。
暇は、暮れに人が増えたから、一日二日?程度なら抜けようと思えば
期間限定で抜けられそうである。

となると、後は筋肉ということになる。

10年前に腰を壊してから、無理するとすぐに腰にきてしまうやわな体に
なってしまってから、何をするにもいつもネックとなってしまった。

そこで意を決して元旦からスクワットを時間の合間に続けている。

当初20回もやれば、ピピっと腰の筋が警笛を鳴らしていたのだが、
以前なら無視して決めた回数をこなしていた。
今回は轍を踏まないよう、無理をしないことにした。

その代わり休まないことにした。
我が腰は100回過ぎまで「いいよ」と許してくれるようになった。

80歳を越える森光子さんでさえ、100回は軽くこなすと言うのだから、
何てことない数字なのだ。
けれど、ベスト体重に自転車一台背負っている今の体を考えると、
不思議と継続することがやる気に変化してきた。

ガラスの腰を考えながら、まずは続けることに重点を置こうと思う。

さてさて、いかが相成るか・・・

またそのうち現状をご報告申し上げようと思う。
(これも励みにしようとしているのだ)

仏壇があぶない

成人式を15日でなくした人間出てこーい。

なんだかメリハリがなくなって仕方がない。

もともと1月15日に成人式を当てたのには訳があるのである。

休日を増やす為に日曜日と重なった場合、
月曜を振り替え休日として変えるのはまだしも、
民衆に媚びて、曜日に合わせて記念日を変更する愚挙。
飛び石連休のところを、経済効率優先の意識から連休にさせたりと。

さらに、ついでに言わせてもらえば、
昭和32年の住居表示の変更で歴史ある町名が消えて久しいが、
平成の大合併などという愚挙に消えていく美しい都市名
これらの行動を見ると不思議でならない。

日本人の無形遺産がこともなげに崩されていく。
過去の遺産を大切にしない民族がどこにいるのだろうか。

合理化、経済効率の美名がなにより優先されてきたのは、
敗戦で国を復興するための図らずもの姿ではなかったのだろうか。

そろそろ見直しの時期にはいってもよいではないか。

最近、仏壇が危うい。
少なくともマンションに引っ越すときが仏壇の消える記念日になりかねない。
仏壇を買い替えのときに古い仏壇を引取り供養する。
けれど、買い替えでなく、引取りだけを相談に来られる方も多くなってきた。

マンションに住むが、床の間がない。造りつけの仏間がない。
少子化で子供が嫁に出れば、継ぐものがいない。
一軒家からマンションに越すときに大きい仏壇は居場所がない。
だから、小さくしたい、家具調にしたいはまだしも
クローゼットに位牌だけ納めるようにする等々
以前には数えるほどしかなかった相談件数が、明らかに増えた。

仏壇は文化の結晶だ。
しかも信仰心を軸にした生活と慰霊のエキスでもある。

しかし、先祖を大事にしたい気持ちがあっても、
明らかに住居環境や家族環境が変化してそれを拒んでいる。
縦の糸が繋がらないまま横の糸は組めないのである。

ましてや売る側にそれを伝える心を見失い、
安かろう悪かろうを実践している者もいる。
箱売り屋に貶めている業者もいるのは嘆かわしいことでもある。

いいやいいやで済ませるにも、ほとほと限度があるというものだ。

そろそろ、足元を固め直す時期なのだと思う。

国力とは、そんな所から失われていくんじゃあないだろうか。

めがね、それから

ついに近所の意を決して眼鏡屋に足を運ぶことにした。
浅草に移り住んだ当時は、近所に仲の良い眼鏡屋があった。
しかし、この不況で店を閉じてしまった。

ご夫婦で経営していて、ご主人も、奥さんも丁寧な客扱いで、
すこぶる気持ちのよい店だったのに…社会の荒波は、容赦なく
僕のオアシスを飲み込んでしまった。

しかたなく吾妻橋を渡ってその主人から紹介されていた店に顔を出した。
実はこれで二度目の訪問なのだが、日替わりで担当者が替わるらしく、
僕の顔までは覚えていてはくれない。

まずは検眼から。
これが子供の頃からいやでいやでしかたがなかった。

僕の目はちょっと特殊で、視神経発達異常つまり弱視というやつなのだ。
プラス乱視付き。だから、右だ左だと答えるのが今でも苦痛でならない。

右目は矯正しても0.3以上は視力が出ない。
見えると言っても、像がボヤーと動く程度。しかもチカチカしていて見づらい。
ただし、それは右目だけで、左目は健常者と同じなものだから、
左目だけでどうしても見てしまう。

そのために、小学校に上がるまで、
目の悪いことは本人ですら気付かなかったのである。

入学時の健康診断で再検査を指摘された母は、うろたえた。
両目2.0の母には想像だにつかなかったことだった。

当時の小学校で眼鏡をかけた子供は珍しく、どうしても注目を浴びる。
元来そっと暮らしたい性格の僕には耐えられなかった。

眼鏡を家に置き忘れたふりをして、逃げるように学校に行った。

そのうち念を押され、渋々、眼鏡をかけて出かけた。
けれど、登校の途中ではずした。

左右の視力のバランスが極端に悪いから、
レンズは左右極端に違う。

言うならば合わせレンズの牛乳瓶の底の右目と平ガラスの左目。
他の人が見ると目の大きさも左右でふた周りは違って見える。

眼鏡をかけると、意識せずに地球がまあるく見える。
異様な世界が映し出される。

そのアンバランスを、脳ミソがバランスをとって
普通に見えるように調整する。
かなり無理があるから、頭痛は持病のひとつである。

弱視の眼鏡は高価であった。当時でも3~4万はした。

しかし、どこかに忘れた振りをする。
友達との喧嘩で壊される。
(だから眼鏡をはずすときは暴れることにしていた)
そして無くしてくる。友人に隠されてそのままなくなる。

そのたびに、眼鏡を新調させた。
母親は文句一つ言わなかった。
母子家庭の我が家では家計の苦しいことは子供心にも解っていた。
夕食一人100円の時代、なぜ無くしたことを責めないのか、
小言を言わないのだろうかと不思議だった。

あとで知った。
弱視の原因は、僕が母親の胎にいたときの栄養不足と
医者に告げられたこと。
そして小学校入学時まで親として気付いてあげれなかったこと。
自戒となって母の言葉を制したのだ。

眼鏡は煩わしくも生涯の友になってしまったが、
同時に親の心を忘れさせないキーワードともなった。