ついに大晦日

頑張らねば…
最期の一日。

昨日は、6本念珠を作って即、発送して
2本糸を間違えて…
作り直して…
通常の発送業務をこなして、
店のことはなーんにも出来ずじまい。

例年のとおりになりつつある。
あせる。

コロッと・・・

毎年この時期になると、頭の中は錯乱状態に陥る。
正月を迎える手順が何が何だかわからなくなって、
気付くと、正月は過ぎている。

成人式が終わる頃にようやくふと我に帰る。

新年になった実感がその頃ようやく湧いてくる。

これが、毎年恒例のパターンなのだけれど、今年は手順が3日早い。

正月飾りもすでに終了し、去年は仕方なく自分で活けた生け花も、すでに外注しちゃったし、商品準備は着々と進んでいるし、普段できない所の掃除もできているし、文句はない。

と思うのだが、自分のことが何も出来ていない。

年賀状も、部屋の片付けも、古いVHSのDVD化も…エトセ、etc.
何もしていない。

家に帰るとコロッと寝てしまう。
寝りについた記憶もなく朝を迎えてしまう。

このまま新年を迎えてしまうのだろうか…
せめて、気持ちだけでも刷新しようと踏ん張っている。

クリスマス

わ~い。
今日はクリスマスイブだ~~。

「そんなのかんけいねー」って?風神くん。

帽子どっかに飛んじゃった~~。

             flom nekobusさん

なりたい…なりたくない

冬はゴジラに変身する。上さん。

忙しくなると猫になりたくなるBoo。

昔は(大)虎になったこともあったし、

(デ)ブタにもなった。

犬のように忠義に懸命だったときも。
蛇のような狡猾さを磨いたときもあった。
キリンのように高望みしたこともあるし。
鼠のように懸命に走り回ってもいた。

バクのように未だずーと夢を食べ続けている。

ただ、ゴキブリ(亭主)だけにはなりたくないものだ。

どきどき、はらはらは、天の計らい?

いつも、はらはらどきどきしている。

オーダーの念珠も仏像も。お直しも。
製作物って、リスクが大きい。

できて来るまで、実物はないのだから。
計画図面はあっても虚像でしかないわけで、
頭の中でイメージは膨らんでいく。
お客様も創る側もお互いに。

できあがって現実を目の前にしたときのリアクションが、
その評価となる。
職人として、企画者としての真価が問われる。

いつも開けてみるまでわからない。
お客様はどんな評価を下されるだろう…
どんな表情になるだろう…

出来たものを見ていただいて、
「こちらですね、はいどうぞ」と売るだけの商売は、
どんなに楽だろう…
と、となりの芝生がいつも青々して見えてしまう。

でもね、人間一番恐いのは「慣れ」だと思う。

販売している姿を見ていても、
なれない新人のうちは、お客様に使われる。

お客様とどう向き合ったらよいかわからないから、
商品知識も乏しい中で、出来ることは体で奉仕することとなる。
何をどうしたらよいかわからずお客様に顎で使われる。
がぜん汗を流す。

でもそれがいい。

慣れてくると、自分が動かずに、
お客様を自分の側に引き込もうと作為的に動こうとしだす。

それでは絶対!ダメなんだ。

お金を頂くことは、至誠が必要だと思う。
それがなければ、自動販売機でよいのだから。
(最近の自販機にはおまけや当たりくじがつくこともある)
物+αなのだ。

だから、いつもどきどきはらはらしていられることは…

慣れさせない、腐らせないための天の計らいなのかもしれない。

ひらきなおり

ようやく正月のための販売員の手配が終りほっとした。

いつもながら、暮れから正月にかけては、
浅草寺への〆の詣でと初詣の人の波が押し寄せる。

向かえる側もそれなりの用意をしないと。
と思うのだけれど、毎度の事ながら気付くと年を越えている。

何もしないままスルーしてしまっても
別段どういうこともないのだが 、

除夜の鐘を聞くその瞬間まで、
「やり残し」はないかと何故もこう心が急くのだろう。

年が替わるといっても、
グレゴリオ暦上のことであってイスラム暦や和暦では、
替わるわけではない。

開き直って考え直してみれば、
昨日から今日に替わるだけのことである。

・・・なのだけれど、
忙しなく心の中では「今年中に」と「何か」を探すし、
「来年には持ち越せない」などと、膨大な仕事量を決めている。

と思いつつ、後半に入った暦を見ながら、ため息をつく。

三つ子の魂

NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」を食後にごろ寝しながら見ていて
そのまま幽界に迷い込んでしまった。

テレビでは小学校にあがる前の子供時代、
一時預けられた母の田舎が放映されていた。

宮城県丸森町。
うちの田舎はそこからさらに山に入り、
福島側から超える官軍と戦った山城のあった金山という
小さい部落なのだ。

とにかく方言が強いところだ。
寒い地方では、口を大きく開けずに言葉を発する。
単語は短くなる。
悠長にしゃべっていたら口の中が凍ってしまうからだろうか。

青森の自分を「わ」相手を「いが」という言葉がいい例だろうが
そこまでは短くないにしても、口は大きくは開けないでしゃべる。

最近の若い人の口からは、ほとんど方言が消えた。
テレビの影響と言うのか、
情報化社会は全国民を平準化教育してくれるようだが、
それも良し悪しだと思う。

けれど80歳を超える、じいちゃんばあちゃんの言葉には、
懐かしいイントネーションと誤謬が溢れんばかりに残っていた。
その土地独特の気候風土と文化の中で培われてきた言葉には、ギューっと、そのエキスが詰まりに詰まっている。

6歳のときに身につけた方言はとっくに忘れているのに、
耳は覚えていた。

その心地よさに、「眠ってきない~、休んできない~」と
聞こえていつのまにか撃沈してしまったと思われる。

(上さんは、九州人ゆえ東北弁は今でもわからないと嘆く)

毎日店に訪れる外人客には、まず耳から覚えるとしようか。

逆説

ある量販店のトイレにて。
用をたしながら、ふと前を向くと。

いつも見る「汚くしないで下さい」的な注意書きとは、
全く逆説的に書かれている。
「○○するな!」
「○○しよう!」と言われると、

あ!そうなっていないんだ。だから叫ばざるを得ないんだ。

標語は、出来ないから標語なのだ。
と心のどこかで思っているし、
注意書きは、できないから注意書きなのだ。

「きれいに使って下さい」は、
日頃きれいに使ってくれないんだな。

「渡るな危険」は、
危険なのに渡る人が多いんだな。

てなものである。

「いつも美しく使ってくれてありがとう」
とこられたら・・・

「どういたしまして(そんなにきれいに使ってないけど…ごめんなさい)」
と神妙になる。

なんとも人の心理は言葉一つで、
天と地の開きとなると思った。

得度

以前から親しくしていただいていたお得意様が
得度すると言う。
「おめでとうございます」と一言。

それは、社交辞令ではなく、本心からの言葉。
出来るときにはできるように進めるべき。

かくいう僕も過去、真言宗において、曹洞宗において
そして、天台宗において
その機会を得たことがあった。
でも結果、式までは至らなかったのだから、

こればかりは縁としか言いようがない。

決まって、直前に動けなくなる。
天台の時は、環境も向かう心も全てが揃っていたというのに。

だから、そのチャンスを得られる人には心から拍手を送る。

在家得度されるのだと言う。
「いつからそういうお気持ちになったのですか」と聞くと
まったく仏とは縁もゆかりもなさそうな仕事を
こなしていた若いうちから、
どういうわけか心惹かれたという。

今でも充分お若いと思うけれど…
それはさておきも

「仏に見出されていましたね」といえば、
「そうだね」「不思議でならない」と答える。

得度まで、何の支障もなくとんとん拍子で話が進んだという。

やはり縁だなとつくづく思った。

これも縁

通販という世界で初めて購入したのは、
小学生のとき。

少年誌の欄外とでもいうのか、少年相手にコインだ切手だと
当時の少年を対象にうさんくさい記事があの手この手と載っていた。

今ならそう思うだろうに・・・
毎日のようにそのCMに目を奪われていた。

古銭マニアだった僕は、一円銀貨が欲しくてならなかった。
3000円程度だったと思うが、
微々たる小遣いではとても買える代物ではなかった。

5円、10円とせっせと貯めこんだ。
千両箱の貯金箱がそれなりに重さを増した頃
「特価」「美品」の文句に目が止まった。

親に内緒で貯金箱は空になった。

待ちに待った。
何週間も待った。
今なら、「おかしいぞ」が先によぎるだろうが
全額払込みながら全く不安はなかった。

一ヶ月近く経ってようやくずっしりとしたものが手元に届いた。
恐る恐る、ソーと開けてみた。

「ピッカー」

光ってる。

光ってる。

光りすぎている。

明らかに、手を加え磨かれていた。

美品とは、磨いてきれいになった美品なのだった。
(古銭の美品とは手を加えなてはならないのだ)

何処に頼んだのか今になっては知る術もないが、
天国から地獄に叩き落された気持ちだった。
「二度と通販なんて手を出すものか」

40年以上前の話だ。

気付くと販売側に立っていた。