チューニング

当店は人に恵まれている。
人材の宝庫?博物館ともいえるだろうか?
まあ個性の品評会と言ういいかたもある。

元レンズ磨きのプロもいれば
下町の八百屋さんも、酒屋さんも
血液型は全て揃っているし(いたし)
超常識派もいるかと思えば、微常識派も
海の女王もいれば陸王の妻もいる。

縦横無尽の思考がここには凝縮されている。
全く違う発想が集まるから、
だから、おもしろい。

コーラスを以前やっていた。
短い期間ではあったけれど、思う存分声も出したし、
プロを交えたコンサートにも何回か参加した。
これからと言うところでやめてしまったけれど、
面白みだけは体感させてもらうことはできた。

私の声+合唱する他の男女の混声。
未経験者でも通常に考えるとそこまでは想像できる。
けれど、実際に歌う側に立ってみると、
第三の声、第四の声・・・
が、聞こえてくる。
天空から、足元から、両脇から・・・
あろうはずのないパワーに押されるように、
潜在している自分の中の何かが引き出される興奮を感じた。

ハーモニー・・・
調和・・・
歌声だけにとどまることではない。
人間関係にも、自然環境にも、学問にも、文化にも
見渡せば、いくらでも第三第四の声を響かすことのできる
ハーモニーはころがっているはずなのだ。

ただし、心を合わせるというチューニングが必要なのだが。

寿命をはかる

これが僕の寿命なのだそうだ。

Saturday, June 2, 2040
Seconds left to live…
あと1,030,069,476秒 5.4.3.2・・・

面白いのでメモリアル代わりに書き留めました。
(あくまでも遊びですから)
webの世界にはいろんなサイトがあるものです。

<The Death Clock>
http://www.deathclock.com/

Day of Birth(誕生日)
Month of Birth(誕生月)
Year of Birth(誕生年)

SEX(性別) Male/男性 Female/女性
Mode(性格) Normal/普通・Pessimistic/悲観的・Sadistic/加虐的 Optimistic/楽観的
BMI(ボディマス指数)BMI指数を入力 
Smoking Status Non-Smoker/非喫煙者 Smoker/喫煙者

ボディマス指数(BMI)はここで調べられます。
http://www.banyu.co.jp/content/patients/check/overweight/bmi.html

85歳だと考えてたよりも長生きになるなあ。

勤勉の哲学

江戸時代初期の禅僧、鈴木正三(すずきしょうざん)は「萬民徳用」の中で
「人々の心の持ち方が自由になり、人々が心の世界の中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、そんなことは何もしなくても、毎日、自分に与えられたそれぞれの仕事に、精一杯打込んで働いていれば、それが人間として完成していくことになる。」
と、世俗的な職業に励むこと自体が、仏道修行であると説いている。

商活動イコール仏道修行
農活動イコール仏道修行・・・

日本人の行動規範には、そうした仏道修行つまり人格形成の道が
その勤勉さと深くかかわっている。

お釈迦様の生きておられた時代には、出家集団である比丘や比丘尼がおられた。
と同時に、優婆塞(うばそく)や優婆夷身(うばいしん)の男女の在家者もいたわけで、お釈迦様の言葉はそれぞれに語られたようである。

しかし、現在に伝わる経と呼ばれるものは、釈迦入滅後、弟子によって編纂されたわけで、
在家信者に語られた言葉は、そこには表されなかったと記憶している。

戒にしても律にしても、出家者のそれであって、在家信者に向かっての言葉ではなかったことを考えると、職業を懸命に勉ることが、仏道修行であると明確にあることは
在家者にとって、何より励みになることなのだと思う。

近江商人の行動規範を作った石田梅岩の石門心学(せきもんしんがく)には、
商人が儲けを生むことの正当性をしっかり謳っている。

一番やりたくなかった商人を転換させてくれた古人の思想。
ふっと思い出した。

ここも人間社会

最近メールの確認に時間がかかりすぎる。

アドレスを公表していることもあるけれど、
メーラーにフィルターをかけても
飛び込んでくる300通を越すスパンメールを処理するのに
最近は辟易してきた。
海外からのメールもうるさくなってきた。

お客様からの大事なメールを読み落とさないようにと思うから、
読みたくもない下品なコピーも一応は目に障る。
どうせいやでも時間がとられるならその中からも、
人を惹きつける方法とは…
などと、コピーの秘訣を盗もうかとも思うけれど、
あまりの下品さに途中でいやになる。

人間社会である以上、表もあれば裏もある。
ネット社会も人間社会そのものだからこうなるのは
しかたないことだけれど、健全でないことは確かだな。

ネットいじめなんていうのもあるんだね。
まあ道具をどう使うかは、人の自由度だとは思うけれど…

でもそろそろ大人の段階に育っても良いと思うけれど。

GNPかGNHか

西をネパール、南をインド、北を中国に挟まれて
つい先まで鎖国を国策としていたヒマラヤの小国ブータン

仏教(チベット仏教)を国境とした政教一致の国。

ブータンの国名こそ、うっすら聞いたことはあっても、
その国が何処に位置し、何を国是としているのか、GNPはどうなのか、
どういう歴史をもつのか、民族は、政治体制は・・・・

などなど、意外と知られていない。
かく言う僕も全くと言ってよいほど未知の国のひとつである。

興味をもったのは仏教国であることがきっかけだった。

何よりこの国を見ていると、古日本を連想するのに難しくない。

物質の豊かさを幸福の価値観とし信じ、
高度成長を果たしてきた日本の今を見るとき、
何か大事なものを失った感を払拭しきれないのは、
共通した意識ではないだろうか。

何よりここブータンの国是はGNPの成長を願うよりも
国民総幸福量つまりGNHを追求する。

仏教を理解せずにはこの国の本旨を理解することは難しいだろうとは思う。

物質に価値を置くのではなく
どれだけ国民が幸福つまり、心の豊かさを持てたかなのである。

ブータンの国民総幸福量の概念には次のように説かれている。
「目的と手段を混同してはいけない。
経済成長自体が国家の目標であってはならない。

目標はただひとつ、国民の幸せに尽きる。経済成長は幸せを求める
ために必要な数多い手段のうちのひとつでしかない。そして、富の
増加が幸福に直接つながると考えるのは間違いである。」
(「選択」「ブータン発「国民総幸福量」という価値観」より)

大国に挟まれながらも地理的な優位性から独自の発展を許された国と
島国ながらも地政学的にも怒涛の世界史の中に飲み込まれざるを得なかった日本を
同列で比較することは、せんない部分はもちろんある。

心の豊かさを国の発展の目的に置いた具体的に発展してきた国。

何か再発見できるものもあるのではないかと思う。

タイムマシン

家を大掃除していると、
あれ?なにこれ、
出てくるわ出てくるわ・・・

インスタントカメラがあちことから。
しめて5台も。

旅先や、催事で急きょカメラが必要になって買ったものだ。
けれど、
取り終わった時点で、まだ数枚残っていたため、
もう少しとっておいて使い切ろうと、
そのまま引き出しの奥に眠ってしまったのだ。

埃をかぶって、くもの巣らしきものまでついている。
カメラ屋に持ち込むとむずかしい顔。
「これ10年を過ぎていますね」
10年と言えば一昔。
末っ子が12歳だから…少なくとも2歳?
「覚悟してます」と現像をお願いした。

それが、この写真。

保育園(浄土宗のお寺)での写真だった。
末っ子はまだ赤ちゃん!0歳かあ。

切り取られた画は時を超えてようやく陽の目を見た。

先々・・・

一日があっという間。

棚卸と決算事務とお店と日々の業務とネットショップと念珠製作とあれとこれと…

ふうう…

やっと終わったーー。
と、思うと来年になっちゃうんだよね。

で、気が付くとお正月も終わって2月になっていて、
ついでに梅が散って桜が咲いてる。

おっと気付くと海開き。

先々を考え出すときは、体を動かすに限る。

ということで、区内を自転車で走ってきまーす。

想えば・・・

若い頃から、霊能者、行者と呼ばれる方に好まれた。
若い頃というのを幾つから呼ぶのかわからないが、
記憶にあるのは、小学校低学年。

大好きだった大家のおばあちゃんの家に時々来られていた
日蓮宗の行者さんにすこぶる可愛がられた。

今の仕事を始めるずっと前には
藤沢の霊能者のおばあちゃんにこれまたすこぶる可愛がられた。
この方は、病魔というのは具体的な形のあるものだ。
患者に潜んでいるのがだとよく話していた。
その方面の力のある方で、乞われて全国を飛び回っていた。
エクソシストの大嫌いなぼくは、半分耳を閉じていた。
聞いている当の本人は、話が空中を飛んでいたのだが
それでも、「頑張りなさい」と励まされた。

今の仕事をスタートすると、
真言宗や天台宗のお寺さんには、特に行者さんとは話が弾んだ。
実際は詳しい話しは全くわからない。

けれど、話をしているうちに、相手の光景が目の前に次々に展開される。
その光景を見ながら、感じるところを包み隠さず評価する。
ただ、それだけなのだが。

初めは、ギクシャクしている仲も店を出る頃は身内のような感情に変化する。
何故かいつのまにか離れがたい存在となっている。
長くお付き合いさせていただいている方は、
ほぼ似たりよったりの出逢いである。

そう考えていると、僕の話術や性格によるものなどとは
とうてい考えられなくて、
先祖の見えざる資産に感謝せざるを得なくなる。

納得

宿題となっている仏像製作で壁に当たり、
頭がパンパンになっている。

製作対象の資料が全くといってよいほど見当たらないのだ。
相手が、霧の中にあって想像の域を超えないとなると、
残るは「想像力」「独創力」と言うことになってしまうのだけれど、
なんとかそれは控えたいと思うからなのだ。

本体に忠実に創りたいと考える。
待たせる相手がいる以上、
常識の範囲での期間内に何とかしたいのだけれど、
すでにそれも超えてしまっている。どうもいけない。

でも、納得のいくものに上がらない以上は表に出せない。

祈りの対象になる以上、
ぼくも中途半端には終われないもの。

彫る側からは、彫りなおしばかり命じるから
嫌われ者になっているけれどしかたないか。

もう正月…!?

早いもので、もう10月の声を聞く。

となると、気持ちは正月をどう準備しようかという気持ちに切り替わる。
もう正月?といぶかしがられるところだと思う。
  クリスマスもあるよともいわれるだろう。

けれど、もう気持ちは、来年に走っている。
元旦からの営業を開店以来、欠かしたことがない。
初めの頃は除夜の鐘を聞いて年越しのおそばを食べ終わる頃から
再度店をオープンし、薄明るくなるまで続けたものだ。

え!仏壇屋が?

聞く人は、いつも驚かれる。
そこまでするの?とも言われる。

実際、この時間の営業は、仕事にはならない。
むしろ経費のほうが膨大で赤字になる。

人は、浅草寺の喧騒に疲れて、檀を求め一息つきたくて入店した。
だから、ホッとして出て行かれる。
売上げにはほとんどつながらなかった。

けれど、それでも良いと思いながら店を開けた。
なぜなら、一年にこの日この時間のみしか
お逢いできない方が大勢いたからなのだ。

北海道から、九州から、福井から、新潟から…
「またお逢いできましたね」
「また来年ね」
その声に後押しされて一年の力となる。

効率という尺度で考えるならば、
これほど非効率このうえないこともないだろう。
何のための営業?
「一人のお客様にお逢いしたい為」なのだから。

これが商売かと問われたら、当時なら
「商売をやっているんじゃない」と答えただろう。
今ならば、僕スタイルの「商売」をやっていると答えるだろう。

「効率」「効果」仕事をする上で常に頭をもたげる言葉。
だけれどどうなんだろう・・・

脱線してしまうけれど、
「機能美」も突き詰めると美しいといわれる。
確かに幾何学的であったり、黄金率敵に美しく見えてくるのは確かだと思う。

けれど、僕みたいにいい加減な人間には、そこに長居したいとは思わない。
人の呼吸を受け止めて、呼応する美が好きだ。

sと奪いをやtっていて金銭を生み出すことが効率の第一目的というのは、
今でも疑問を感じるのだ。

何においても経済効果を大前提に換算する風潮がある。
それを否定するわけではない。事務方がおさえればよいことくらいでよい。
出た結果を責任者が知ればよい。

けれど、なんぼ儲かるのか。上から下まで関心の中心。

要するにおいしかったのかおいしくなかったのか…
と言っているようなもの。
どうしても下品に見えてしかたがない。

むしろ、事業の効果として、結果として、
「人が幸せになったのか?」
を尺度として使えないものだろうかと思えてならない。
「幸福度」が効率の中心課題。これはいい。

いくら、儲かろうが、経済効果が高かろうが、
一人でも不幸が生じれば、また、一人の不幸を当然と考える事業ならば、
事業計画そのものが間違っているのである。

「非効率の効率」ということも
仕事の上にあってもいいので…
いや、なくてはならないのではないだろうかと考える。